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椿
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「行っちまうのかい?」
「はい。お世話になりました」
春駒は世話になっていた店を去るところだった。
「番頭になれる器だったから手放したくないんだけどねえ」
「ここまで面倒を見てもらって心苦しいのですがもう決めたので」
春駒は陰間茶屋を抜けて江戸の町の大店(おおたな)で奉公しながら番頭の手伝いなどもする程に店に信頼されていたが、春駒はその店を辞めて遠く長崎の出島へと向かうところだった。
「そうかい。出島に行っても蘭学を学べるかどうかは分からないよ?」
「ええ。ですがもう決めたのです」
そう。もう決めたんだ。
鶴松を失ってから。
鶴松の家で茶菓子をもらい、その内算盤を習い、たくさんある書物を一緒に読み。
野乃助や美坂野や染芳とは何か距離を感じていたが鶴松は陰間で体を売る春駒にも同じように接していた。
あの頃の俺は楽な方へ楽な方へと流れていたと思う。
体を売って日銭を稼いで、腹が減ったら鶴松の家に行く。
そんな春駒を心の内では野乃助や美坂野たちも快くは思っていなかったのは知っていた。
真っ当に生きろ、言葉にしなくてもそう思われているのは分かっていた。
鶴松といると楽しかった。
鶴松のことを好いていたんだろうと思う。
美坂野が鶴松を気に入って契ったのを知っていたが気にはなりこそすれ、重大なことには思っていなかった。
美坂野は女や男をたぶらかす。鶴松も一時の遊び相手だろうとタカをくくっていた。
いずれまた二人で本を読んだり茶菓子を食べたりするようになる。
また二人だけの時間に戻る。
そう思っていた。
若かったのだ。
鶴松が大事な場面で一番若い春駒は分かっていなかった。
鶴松がどんな状況で美坂野が鶴松に本気で惚れていたのも分かっていなかった。
鶴松が町民たちに取り囲まれて引きずり倒されて泣いている姿を、春駒自身も倒れながら町民の足を抑えつつ、鶴松と同じ高さの視線で鶴松の顔を見て泣いた。
近くにいながら俺は何も分かっちゃいなかった。
鶴松のことも。
美坂野の本気も。
千代吉に依里小路への直訴をけしかけたのは春駒だった。
江戸の町の怪異の時に千代吉が全員を動かして社会を動かす、人の気持ちを動かし、狂乱に陥れるのを見て春駒は気付いたのだ。
社会も人も簡単に動かせるものなのだな、と。
依里小路が美坂野にホの字なのは千代吉も春駒も知っていた。
だから。
千代吉に暗にそのことを匂わせて鶴松を救えるような嘆願を千代吉にさせるように仕向けたのだ。
全て鶴松を救う為。
その為だったら。
二人の時間が戻るのなら。
全員どうなっても構わない。
鶴松だけだった。
俺を見下さずに対等に接して笑顔を見せてくれたのは。
美坂野も千代吉の話に乗ったと聞いた時。
春駒は負けを確信した。
美坂野は役者も辞め、直訴にも名前を連ね、鶴松の為に命を賭けている。
俺は。
鶴松が好きだと知りながら。
何もしていない。
それに比べて美坂野は鶴松の為に人気役者の座を捨て命までも賭けた。
もう入りこむ余地もない。
そこで春駒は自分の気持ちに蹴りを付けた。
鶴松が江戸を去る日は知っていたが見送りはしなかった。
見たら追いすがってしまうかもしれない。
綺麗さっぱり諦めるんだ。
もうあの頃には戻れない。
大店で仕事に励んで一人前と認められ金も溜まった。
長崎の出島にはオランダの商館が建ち並び、蘭学や医学を学ぶ者もいるという。
江戸の町でも出島帰りの蘭学を習ったという者がまだ少ないが出始めていた。
鶴松が江戸を去った今。
もう江戸にいたくない。
鶴松のいない江戸にはどこにも己の場所がない。
もうあの頃の二人はいない。
「そうかい、決めちまったのかい。これ少ないけど餞別(せんべつ)だよ」
「ありがとうございます」
店の女将から紙包みを渡される。
ありがたく春駒は懐(ふところ)に仕舞った。
店の客の中に。
長崎に伝手(つて)や縁(ゆかり)の者が何人かいた。
その者たちを頼って出島に行く。
出来れば医者になれたらいい。今の医者は全て家制度だ。
家柄が無ければモグリの藪医者にしかなれない。
俺みたいな陰間上がりでなんの家柄がない者でも出島では医学を学べるという。
本当か嘘かは分からない。
でも。
行くしかない。
鶴松のことを好きだと思いながら結局、美坂野と真正面で喧嘩もせず裏でコソコソと横恋慕していただけだ。
俺は卑怯者だ。
もうこんな俺は江戸の町に捨てて新しい自分を探しに行く。
春駒はそうして江戸を去った。
東海道を下っている折り、見事な椿の木があった。
「綺麗だなあ。江戸の町にはこんな見事な椿ねえや。鶴松にも見せてやりてぇなあ」
ふっと口から出た自分の言葉に春駒は驚き苦笑いした。
もう鶴松はいない。
椿の前で目を閉じると鶴松の離れの家で二人で笑いながら茶菓子を食べたり本を読んだり、算盤を習ったり、寝っ転がってただ、ダラダラと話をしていた光景が甦った。
「あ、春ちゃん。椿!!花が咲いた」
「本当だねー」
「春ちゃん、次に椿咲く頃には算盤もっと上手になってて僕教えることなんかなくなってるよ」
「そうかなー?」
「そうだよ!!春ちゃん、物覚えいいし陰間辞めてお店で働いてみればいいよ!!春ちゃん出来るよ!!」
「えー。めんどくせぇよー」
鶴松の言う通りちゃんと俺は生きてるぞ。
椿の咲く頃に俺は番頭見習いまで昇りつめた。
そして今。
鶴松との想い出にお別れするよ。
「おい、若ぇーの。そんなに箱根越えが辛いのかい?そりゃ江戸の人間からしたらこの道は辛ぇーわな。こっから先はもっと険しいぞ」
泣いている春駒に同じ道中なのだろう、親爺が声をかけた。
春駒は返事をせず涙を拭ってまた歩き出した。
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