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夢
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木曽は江戸の町から随分と遠い村にいた。
あばら家のような寺の御堂で小志乃から送られて来た文を読んでいた。
「そうか、御結婚なさるのか。よかった。美坂野と鶴松は江戸を出たのだな」
小志乃からの文を正座している太ももに置いて江戸の町の頃の記憶に思いを馳せた。
随分と昔のことのように思える。
皆と別れた後、木曽は諸国行脚の修行に出たがこの村に立ち寄った時に、村の者から請(こ)われてこの地にとどまることに決めた。
もう江戸に戻ることはあるまい。
この地で死ぬことになるだろう。
村には寺はあったが坊主がいなかった。
このような辺鄙(へんぴ)で貧乏な村では坊主も寄り付かなかったのだろう。
死んでもお経も唱えてもらえず、無縁仏のように寂れた石塔だらけの寺の惨状と村の者たちの強い願いを聞き届けてここにとどまることに決めたが木曽には幸せなことだった。
江戸にいた頃には忘れていたこと。
宗教とは困った時の神頼み。
神を崇める物にあらず。
人の心を救済する物。
権威や地位を誇示して金を無心する物にあらず。
我の一声と読経(どっきょう)で金を生み出し、茶釜を買ったり、高価な絵具を買ったり金糸で縫われた袈裟を新調したり。
あれは宗教ではなかった。
やっと仏とまともに対話出来る。
これを悟りと言うのだろう。
木曽はその貧しいあばら家の中にいても心も顔も柔和だった。
「木曽様。これ」
「おぉ、これはかたじけない」
すきま風が入って来る傾いた扉から村人がザルに乗せた形の歪(いびつ)な野菜を持って来た。
「この前はオラの爺様の為にありがとうございます。いい顔して逝きなさった」
「何を言う。ただ経を読んだだけのこと。坊主がそれをせずして何をすると言うのだ」
「んだが、オラたちの村では誰も経を読める者がいながったし、木曽様来てから経も読んでもらえる。こんな貧しい村に木曽様みたいな御坊様に来てもらってありがてぇ」
木曽の江戸での名声は諸国にも伝わっていたようだ。
江戸の怪異を収めた者としての噂も。
一度江戸の寛永寺から文が来たことがある。
どのようにしてこの場所を探り当てたかは知らぬがその文は木曽に江戸に戻って参れという招集の手紙だった。
破門を解く、ということだったのだろうがそれに返事はしなかった。
我の道はそこにあらず。
我はここに在(あ)り。
必要としてくれる人間がいるのならばその者たちの為に。
我はもう江戸には戻らぬかもしれぬが。
忘れぬ。
今までのことは忘れぬ。
ここから皆のことを祈ろう。
「木曽様ー!!」
「おぅ、もうそんな時間であったか。ささ、入るがよい」
村の子供たちが寺の御堂に入って来る。
この村の子供たちは小さい頃から子守りや畑仕事で読み書きを習う者はほとんどいなかった。
6歳位にはもう子守りをし、やせた畑を耕し、石をどけ、水を汲みと泥まみれの顔をしてすすけた着物を着ていた。
彼らは未来の生き仏。
木曽はほとんど金を持っていなかったが、皆からもらった餞別(せんべつ)のなけなしの金を全て子供たちの為に使った。
筆を買いそろえ、硯(すずり)を揃え、彼らに読み書きを教えていた。
村の者たちを説得して毎日少しの時間だけ家の仕事を抜けさせて読み書きと算盤(そろばん)を教えた。
「お主たち、夢はあるか?」
「夢ってなーに?」
「夢とはな、生きる糧よ」
「生きる糧?お米とか?」
「そうさな。口から食べる物ではない。生きる心の栄養よ。お前のところの婆様は食が細って来て体が弱って来ておるじゃろう?」
「うん」
「年齢を重ねたら皆いずれそうなる。だがな、夢は、心の栄養はいくら歳を重ねても食べ続けられる物。食べ続けなければならぬ。いずれお主たちも大人になる。その時の為に夢を見続けよ。忘れるでない。生きている内は夢を見続け食べ続けるのじゃ」
「はーい」
木曽の言葉を子供たちは理解出来てはいなかっただろうが。
子供たちは素直に笑顔で大きく返事をした。
そんな子供たちの顔を見て木曽は笑顔になる。
「さて、野菜をもらったから皆で齧(かじ)ろう」
車座になって子供たちと野菜を齧る。
最後の行く果てで。
我は。
幸せだ。
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