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江戸へ
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鶴松を失ったことに気付いた美坂野は嗚咽し、絶叫しながら涙を流す。
それを暗い表情で野乃助は見ていた。
どんな言葉をかけても無意味。
野乃助はそう思ってただじっと見守っていた。
絞り出すように声を張り上げる美坂野は狂人となっていた。
美坂野が子供の頃より好きだった鶴松が死んだのだからそうなるのも仕方ない。
俺だってこんなに悲しいのだから。
野乃助は鶴松の死に目に会えなかったのが悔やしかった。
だがそれよりも何よりも。
美坂野がこのまま壊れて行くのを見ているわけにはいかない。
声も出なくなって寺の御堂に伏せている美坂野に肩を貸して立たせ寺を後にする。
野乃助が泊まっている宿に連れて帰る。
すぐに江戸に連れ帰ることは難しい。
鶴松の骨が入っている籠を抱き締めて動かない美坂野を見て野乃助は思う。
江戸に帰るのが遅れることと美坂野の現状を文にしたためて飛脚に持たせ、江戸の染芳と鶴賀宛に送った。
数日後、染芳から返事が来た。
迎えを寄越すと返事には書いてあった。
「迎え?どういうことだ」
江戸の町まではかなりの距離がある。
だから野乃助も寺から文をもらって到着するまでに3日を要したのだ。
馬でも寄越すのだろうか。
そんなことを想いながら1日過ごす。
美坂野はまだ茫然自失としていて廃人のようになっていた。
宿に髪結いを呼び、髭をあたらせ、着物を着換えさせ見た目的にはさっぱりとしたが、落ちくぼんだ目と痩せこけた頬が痛々しく映る。
次の日の朝。
町の駕籠屋(かごや)の駕籠が宿の前で待っていた。
「野乃助さんかい?町はずれまで運ぶように頼まれてる。もう一人の客人は?」
「誰からだ?」
「江戸の偉い人だそうだがよく知らねえよ。町はずれまで乗せたらそこからはまた駕籠がいるらしいぜ。そうやって江戸まで運ぶらしい」
二つの駕籠を運ぶ人夫が4人煙草を吸いながら野乃助に話かける。
江戸までの金は全て払われているらしい。
ここから江戸までの距離は相当ある。
その金は鶴賀も染芳も払えるような金額ではないだろう。
一体誰だ。
不思議に思いながらも美坂野と野乃助を乗せて駕籠は江戸を目指す。
今で言うタクシーだが町人が乗れるのは1700年代になってからではないかと記憶している。
武家や公家、もしくは緊急時の医者などしか使用を禁ずるという法律も出ていたこともあるが、倹約を推奨する社会だったからそういうお触れが出ていたりしたらしい。
隠れて乗る町人の金持ちも多くいたようである。
また、吉原に向かう駕籠などはその中でも特に禁じられていた。そのようなことで利用する物ではない、と判断されていたようである。
だが1700年代を境に町人も自由に使用出来たようだが、大名や公家の乗る引き戸付きの装飾のされた駕籠とは違い、竹で作られた簡易な駕籠だった。しかし今のタクシーと考えれば充分贅沢な高い乗り物で、現在の価値に換算すると4km6千円位?と思って頂ければ。
何度も駕籠を乗り継いで江戸を目指す。
夜になり手配されていた旅籠(はたご)に泊まる。
旅籠の主人に
「もうお金はもらっています」
と言われたが皆目見当(かいもくけんとう)がつかない。
結構な金が使われている。
誰だ。
夕飯に出て来た飯も宿の形態も上等の部類の宿だった。
干し大根の汁物にタケノコと焼き豆腐、ウナギの鉢物、魚の塩焼き、アサリの佃煮など海の幸山の幸がふんだんに出て来る。
宿の飯炊き女が甲斐甲斐しく野乃助と美坂野の世話をする。
「俺たちはそういう気分じゃないんだ。そっとしておいてくれ」
宿の従業員である飯炊き女は春を売ることも職業としていた。
美坂野と野乃助の若いよい男ぶりと羽振りのよさに飯炊き女が何人か付いていたが
「そうですか。何かあれば呼んで下さい」
と残念そうに部屋を後にする。
野乃助は袖の下(そでのした:チップ)を飯炊き女の懐(ふところ)ねじり込んで
「この宿の金などが誰から出されているか調べてくれないかい?」
と頼んでおいた。
美坂野を連れて湯殿に向かい、部屋に戻った頃依頼していた飯炊き女が現れた。
「江戸城にいた大奥の依里小路様と言われる人だそうだよ」
「そうか。ありがとう」
野乃助は礼を言ってまた袖の下を渡した。
依里小路は鶴松たちが江戸を去ってしばらくして江戸城を去っていた。
将軍が崩御して新しい将軍を江戸城に迎える際、大奥の女たちのほとんどは放逐された。
新しい将軍の為の大奥作りの為だ。
前将軍の御手付きや側室たちは尼となったり、新将軍の親類となる者、ということで大奥に残った者もいるがほとんどは尼になって将軍の菩提を弔うのを強制的に強(し)いられる。
依里小路は大奥をまとめて来た功績と内外の政治的手腕を買われて次の将軍の大奥の御年寄として残るように言われたらしいが辞退をして江戸城を去っている。
実際は御目見え以上の奥女中は最初に御目見え以下の女中もそうだが誓詞に血判をしなければならない。
その誓詞の条文には、「一生奉公」の原則がうたわれている。
御目見え以上の女中となると、宿下がり(やどさがり:休みをもらって実家に帰ったり)すらあまり出来ず、生涯結婚も異性との恋愛もできなかった。
将軍のお手付きともなると生涯江戸城から出ることはなかったという。
依里小路はその身持ちの堅さと、将軍と政道に忠誠あり、と判断されており市井へと出ることを許されたような形であった。
大奥御年寄として随分貢献して来た依里小路には莫大な金が備蓄されていた。
今で言えば年収は1千万越えだったのもあるが、現物支給もある。
家光時代の春日局などは領地として今現在東京の春日町を含む文京区全体の土地を与えられた位だから大奥御年寄がどれだけの富を得ていたかも想像に難くない。
依里小路様ならわけないか。
江戸の町に入り、駕籠を降りる。
出迎えたのは依里小路だった。
「御苦労であった」
「依里小路様、私たちの為にお心遣いありがとうございます」
野乃助は依里小路に礼を言う。
「構わぬ。それが鶴松か?」
物言わずに鶴松の骨の入った籠を抱き締めてただ突っ立っている美坂野に依里小路は問いかける。
美坂野は反応しなかった。
依里小路は悲しそうな顔を一瞬する。
「しばらくはゆっくりするがよい。美坂野が住める家を用意している。そちらへ連れて行こうぞ」
「ありがとうございます」
美坂野の代わりに野乃助が礼を言う。
美坂野を依里小路が用意した屋敷に連れて行く。
「ここは以前旗本の○○家が使用していた屋敷だが今は断絶して空き家となっておる。私が普段使いの屋敷の一つとして貰い受けた物。しばらくここに逗留(とうりゅう)させるとよい。奉公人も何人か住んでいる。何か用事があればこの者たちに言うがよい」
依里小路が頭を下げている奉公人数名を見て言う。
「あと、野乃助。私はここには住みませぬが後ほど私のところへ来てくれるだろうか。話をしたきことがある」
「はい」
そう言って依里小路は屋敷を後にした。
残された野乃助は美坂野に顔を向ける。
相変わらず鶴松の骨の入った籠を抱き締めて何も物を言わずにいた。
「すまないが、美坂野を一人にしないでくれ。必ず目を離さないようにしてくれ」
「分かりました」
奉公人に野乃助はそう告げて屋敷を出た。
もしかしたら鶴松を追って美坂野も。。。。。
野乃助はそう思ってしまったからだ。
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