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迎え拍子木
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月日は流れる。
美坂野は芝居小屋の仕事に復帰していた。
役者としてではなく裏方として。
後継の育成の為に芝居の指導を行う側として裏から芝居と歌舞伎の繁栄を支えた。
鶴松の拍子木に送られてからは一度も舞台に立つことはなかった。
朝起きたら鶴松の墓がある菩提寺へと通った。
雨の日も風の日も嵐の日も雪の日も一日として休むことはなく通い続ける。
鶴松が死んで2年が経過していた。
鶴松の墓は鶴松の家族の先祖の墓の脇に鶴松個人だけの為にひっそりと建てられた。
どうしても鶴松の家族を許せない美坂野と、鶴松を想う家族の気持ちを汲んで依里小路の提案で鶴松一人の墓を脇に作るのはどうかと進言してそうなったのである。
朝鶴松に会いに行って神社にお参りして小屋に顔を出して後継の育成の為に演技指導をする。
そして今まで慣習のようにあった稼げない下っ端役者が陰間をしていた生活を廃絶する為、今まで付き合いのあった金持ちたちやタニマチたちに連絡を取って仕事を斡旋してもらって少しでも苦しい生活をしないで済むように美坂野は尽力した。
「もうそんな時代じゃねぇ。俺たちみたいにひもじい思いをせずに演技に邁進(まいしん)出来るように」
有名役者だった美坂野には何度もまた舞台に立って欲しいという期待は寄せられていたが頑(がん)としてそれに首を縦に振ることはなかった。
「鶴松の拍子木じゃなければ俺は舞台に立たねぇと言ったんだ。どのツラ下げてまた舞台に戻るんだ」
そう言っては笑った。
そして美坂野は一生独り身を貫いた。
鶴松が死んで4回目の春、美坂野は流行り病に倒れた。
「美坂野さん、薬飲まないと駄目ですよ」
「もういい。どうせ気休めにしかならねーよ」
「そんなことない。ちゃんとよくなるんだし飲みなよ」
「お前立派な医者になったなあ」
春駒は出島から戻って江戸の町で開業していた。
依里小路の屋敷を出て以前の有名役者の頃のように豪勢な家というわけにはいかない長屋の一室で美坂野は荒い息をしながら布団の中で春駒を見上げる。
春駒が美坂野の脈を取ったり、胸の音を聞く。
美坂野の容態をここ毎日見に来ていた。
春駒の評判は高く、往診に出る程悠長な身ではなかったが時間を作っては美坂野の家を訪れた。
「春駒ぁ。鶴松に俺の心臓の音聞かせたことあるんだよ。お前の居場所はここだとさ。鶴松泣いてた」
「そうですか」
美坂野は昔の話をよくするようになった。
鶴松のことばかりうわごとのように話す。
人は弱くなると過去ばかりを思い出すようになる。
何人も患者を看取(みと)って来た春駒は美坂野の命が長くないことを知っていた。
医者として美坂野を生かさないといけないと思う反面。
美坂野が鶴松のところに行けると喜んでいるように見えることが春駒の心を乱した。
美坂野は頑張った。もういいんじゃないだろうか。
今まで見て来た美坂野を思うと楽にしてあげたいとも思う。
それは医者としての判断ではなく友としての判断だった。
「春駒、美坂野の調子はどうだ?」
野乃助と染芳が現れた。
眠っている美坂野を確認して頭を横に振る。
「そうか。どうにもならないのか?」
「もう手遅れだ。それに本人に生きようとする気持ちが足りない」
生きながらえさせることが正しいことなのか春駒には分からない。
この病は九州から東海道に発生している流行り病の一つ。
春駒は美坂野の症状を見てそう気付いていたが江戸の町で見るのは初めてだった。
この病には手立てがない。
空気感染ではないようだがこの病には諸説がある。
だがまだ解明されていない。
本人の体力に任せるしかない。
当時蘭医学でも抗生物質がなかった為細菌由来のコレラなどに対処はまだ出来なかったのである。
美坂野が目を開ける。
「てめぇらうるせーよ。せっかく鶴松が今迎えに来てくれてたのに目が覚めちまったじゃねーか」
「鶴松なんて言ってた?」
野乃助が聞く。
「兄ちゃんもういい?って笑いながら聞いてたぜ。ああ、もういいよって答えたけどなぁ。困った顔してたなぁ。なんでだろうなぁ」
嬉しそうに美坂野は笑う。
染芳も野乃助も春駒も何も答えなかった。
死ぬのが分かっているのだな、と三人共気付いていた。
鶴松も美坂野も。
数日後、美坂野危うしの文を受け取った元蓮華王院の木曽が江戸に現れた。
「江戸は何年ぶりであろう。鶴松、随分と会わずにおったな」
鶴松の墓前に手を合わせ経を読み、鶴賀と小志乃に伴われて美坂野の家に向かう。
「美坂野久しいな」
「ああ、蓮華王院様。すまねえこんな格好で」
「よい。無理をするではない。今は木曽と名乗って田舎の坊主でしかない」
布団の上で正座している美坂野に向き合って木曽は笑う。
死相が出ておる。
美坂野の顔を見て木曽は思った。
「美坂野早く元気になられよ。まだ死ぬには早かろう?」
「いえ、木曽様。もう俺は充分生きた。それにこの流行り病は治らねえと知っている。これでいいんだ」
美坂野はそう言って頷いた。
「小志乃師匠、そろそろ天の川を渡る頃になったようだ。1年どころか数年かかっちまったがようやく会える」
以前鶴松と美坂野の二人の関係と当時の現状を天の川の織り姫と彦星になぞらえて唄にした小志乃はその言葉に涙を流す。
「ああ、鶴松が迎えてに来てくれたなあ」
闇夜にどこからともなく拍子木が鳴っていた。
遠くで鳴っているようでも近くで鳴っているようでもなく。
不思議と全員の耳にその音は鮮明に聞こえた。
「木曽様!!」
「鶴賀殿。これは悪いものにござらん。美坂野が迷わぬように迎えてに来てくれているのよ。鶴松よ、もう少し待ってはくれないだろうか?皆を呼び寄せたい。もう少し美坂野を支えてはくれぬだろうか」
木曽は虚空を見つめてそう問いかける。
拍子木は鳴り止み、美坂野危篤の一報を小志乃と鶴賀は報せに走った。
野乃助、染芳、春駒、依里小路、木曽、鶴賀、小志乃、千代吉が狭い美坂野の家に一同に会した。
春駒が美坂野の容態をすぐに診(み)たが無言で頭を振った。
「美坂野、美坂野!!分かるか?」
「美坂野さん」
「美坂野!!」
意識が朦朧としている美坂野に全員が声をかけるが誰の声も届かず顔も見えていないようだったが一言弱々しくしゃべった。
「まだダメだって鶴松が・・・・・別れを言えって」
皆が一斉に黙り美坂野の小さい声に耳を澄ます。
「ありがとよ。今行く」
そう呟(つぶや)いて美坂野は眠りについた。
「まだ死んではならぬ!!」
依里小路が美坂野に取り縋(すが)るのを木曽は押し留める。
「依里小路様、もう逝かせてあげなされ。本人が逝きたがっておる。もう心はあちらに逝っておりまする。このように安らかな顔をしているではありませぬか。一点の曇りもないよい顔をしているではありませぬか」
千代吉の腰につけている鈴が風もないのにチリリと鳴る。
鶴松に渡した鈴を千代吉は鈴が千代吉の手元に戻ってからは自分でつけていた。
「鶴松、美坂野を頼むよ」
千代吉は子供の頃から知っている美坂野の最期を看取り、頬を流れる一筋の涙を隠そうとせずそう言った。
拍子木がどこからともなくまた鳴る。
静まり返った夜の帳(とばり)の中で一人の人間の命の火が消えたのを。
拍子木の音と共に送る人たち。
鶴松に会いたがっていたのも愛しているのも知っているから。
迷いながらも送った。
仲間であり戦友であり。
だからこそ生きて欲しいという気持ち。
だからこそ本人の希望通りにしてあげたい気持ち。
皆の心中は複雑だったが。
「美坂野、鬼籍(きせき)に入りました」
春駒が臨終を伝える。
「美坂野、先に逝っちまったかい。鶴松が迎えに来たから同じところに行けたかい?」
美坂野の手を取って千代吉は頬に押しあてて泣く。
「あんたは地獄じゃない。あんたは鶴松と一緒に浄土に行きな」
拍子木の音が遠ざかるように小さくなっていく。
拍子木の音が消えまたシン、とした夜になった。
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