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茜陽一の仕事
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「愛しているよ、陽一」
泣きそうな笑顔で言われた言葉、でもその表情は霞んだ眼にはぼやけて見える。
「は…づき」
搾り出すように出た声は、はたして彼の耳に届いていたんだろうか?
少なくとも陽一の思いは届いていたと……信じたかった。
「はい、はい! ありがとうございます!」
笑顔で電話を切り、茜あかね陽一よういちは父であり、そして仕事上は上司である社長に駆け寄った。
「注文の追加を取れました! 前に購入してくれた商品を気に入ってくださったみたいで、今回は前回の倍の注文です」
「そうか、よくやった」
穏やかな笑みを浮かべ、茜陽介ようすけは息子の頭をいとおしげに撫でた。
「わわっ! とっ父さん、会社ではやめてくださいよ!」
「ああ、悪い悪い。お前も会社では父さんじゃなくて、社長と呼べ」
「…はいはい」
「『はい』は一回だ」
「はい」
父と息子の微笑ましいやりとりを、近くにいた従業員達は穏やかな表情で見ていた。
田舎の山奥にある工場が、茜父子の職場だった。この地域は花や果物が豊富に採れて、それを活かした商品を作り出していた。食品や化粧品など、女性をターゲットとした商品が人気だった。
従業員達はこの地域の人達で、主にネット販売をしていたが、最近では出店してみないかとの話もかけられるようになってきた。
「とりあえず、会議だな。明日の昼に行うから、それまでに書類を準備しておけ」
「分かりました」
二人は真面目な表情になり、各々自分のデスクへ戻る。
陽一は緩む頬を撫でながら、ノートパソコンに向かう。
しかし耳の奥で、あの声が聞こえた。
『愛しているよ、陽一』
甘く柔らかな声は、未だに鮮明に自分の中で残っている。
震え出す体を抑え付け、陽一は仕事に集中しようとした。
しかしどうしても気が散り、休憩を取ることにした。
工場の現場は父の仕事、陽一は営業を担当していた。
営業と言っても時々駅やデパートで行われる物産展や、ネット販売での受け付け業務を行っていた。
最近ではこういう田舎の物産品が人気になっていて、工場の経営もなかなか良くなってきた。
町ぐるみで行っている為、売れ行きが伸びてきているのは嬉しいはずだ。
「なのに…何でお前の声が聞こえるんだよ」
陽一は軽く頭を振った。黒く真っ直ぐな髪が顔にかかる。
父親譲りの黒い髪と眼、そして母親譲りの童顔は未だに二十三歳と名乗っても、首を傾げられた。中肉中背が、余計に拍車をかけていると言っても良いだろう。
明るい笑顔を浮かべると、スーツを着ていても高校生に間違われることがある。
事務所を抜け、建物から出る。工場の敷地内には中庭があり、昼休みなどはここで過ごす人も多い。
しかし昼下がりの今は誰もいない。それが陽一にはありがたい。
自動販売機でコーヒーを買って、ベンチに腰かけて飲んだ。
「にがっ…」
普段はあまり飲まないブラックコーヒー。
でもこのモヤモヤした気分を晴らしたくて、あえて買った。
「…アイツは紅茶が好きだったな」
眼を閉じれば浮かぶ、過去に愛し合った人物の姿。
茶色の柔らかな髪に、穏やかな琥珀色の眼をしていた。ふんわり笑う顔が大好きだった。
しかし思い出そうとすればするほど、陽一の顔に苦渋の色が浮かぶ。
「羽月はづきっ…!」
バキッという音で、現実に戻る。
手の中の缶を、無意識の中で握り潰していたらしい。変形した缶を見て、悲しい気持ちになった。
「オレは…死にたくなかったんだよ。羽月」
呟いた後、コーヒーを一気に飲み干し、事務所へ戻った。
再び自分の席へつくと、事務員の一人が声をかけてきた。
「陽一さん、ちょっと今よろしいですか?」
「えっええ」
複雑な表情で声をかけてきたのは、父と共にこの工場を立ち上げた水野みずのという五十を過ぎた男性だ。
元々この土地に住んでいたのが彼で、この土地の為に何かしたいと父に話をもちかけた。
父と水野は高校・大学と同じ学校に通っていて、親友だった。
父は有名な会社で営業をしていた為、水野は相談をしたのだ。
そこでできたのがこの工場だった。
何とか仕事が軌道に乗った時、彼は父と同じ歳だったのにも関わらず、その地位を陽一に譲り渡してしまった。
陽一の方が才能があり、そして自分には茜父子に借りがあるからと、きっぱり下がってしまったのだ。
最初は戸惑いながらも、会社勤めは続けてくれるので、父も渋々了承した。
今でも工場を影から支えてくれている彼は、いつも冷静に物事に対処する。だが今は、どことなく不安が滲み出ていた。
陽一と水野は空いている会議室へやって来た。
「どうしたんですか? 水野さん。何だか顔色が悪い気がしますけど…」
「…ええ、実はちょっと社長に相談しようか迷っている話がありまして」
水野は持ってきた茶封筒の袋の中から書類を取り出し、陽一に渡した。
書類にざっと眼を通すと、この工場の商品を店で売ってみないかとの内容だった。
「出店のお話ですか?」
「ええ。ところがあんまりにも話が旨過ぎる気がしましてね。もしかしたら詐欺なのかと…」
「ええっ!」
「だって見てくださいよ」
水野は訝しげに、陽一の持つ書類を捲った。
「出費は全てあちら持ち。他の出費も領収書さえあれば向こうが出すと契約書にあります」
「あっ、本当だ」
書類の一番最後は、仮契約書のコピーだった。
「そして一番わたしが怪しいと感じたのは、店の場所です」
「いつもの駅やデパートなどではなく?」
「はい。一つの店として、出してくれるそうです」
水野の言葉に、陽一は動きを止めた。
「店、を? 店って、駅やデパートの一画にある店舗ですか?」
「いえ、この工場の商品を取り扱った一つの店です。彼等が提示しているのは、東京に建物を造り、そこをまるまるウチの店にしたいとのことです」
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