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第四章【拝啓】
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彼は何時もの様にこの屋敷へ来ては、隙を突いてここへも顔を出すようになった。
勿論あの頃の様に長くは居られないけれど…
「…ぁ…!」
今日も彼は妹の所へ会いに来た。
厠へ行く最中、円窓から見えた彼の姿に…一人喜ぶ。
彼の前にはこの屋敷の従者と、背後には楓さんとまた別の従者が二人控えている。
監視も兼ねてだろうが…流石にあの状態じゃ好き勝手動けまい。
けれど小さく懐の隙間から、こちらに向かってひらりと手を振ってくれる。
俺もそれに応えるべく、円窓から自分の姿を出さぬ様に慎重になりながら…
何時しか彼がくれた栞を少しだけ出し、ひらりと振るのだ。
「ふふふっ…」
この方法を提案したのは、なんと彼の方だった。
姿が見えなくとも…こうして元気である何かを示して欲しい。
そう相楽さん伝に言われたのだ。
栞が出せない時は、木の枝を障子に挟み…その先に括り付けた紐を見せる。
寒いだろうから円窓を開けなくても良い様に、と彼は言ってくれた。
咳や体調によって床から出られない時もある自分からしたら、それは嬉しい提案だった。
彼に言えなていない事が、少しばかり心苦しいけれど…
「………おっと…!」
彼が厠へ入れば、控えていた楓さん達が周りを見渡す。
楓さんは兎も角…他の従者は徹底的に此方側を見つめてくるため、素早く円窓を締め切り何となく息を潜めなければならなくて…けれど、それが俗に言う隠れん坊の様で楽しいのは秘密だ。
そっと数ミリ開け、彼らの姿を確認すれば…引き返す所だった。
残念だけれど、今日も気付かれずに出来て良かったと思う方が強い。
彼の背が曲がり角に差し掛かる頃…
〘木蘭様。〙
「相楽さん…!」
小さく円窓を叩く音が聞こえ開け放てば、相楽さんが立っている。
これも彼への為。
彼等の気が緩む曲がり角の頃合いを見て、相楽さんがこの円窓を叩き俺が覗く。
このたった数秒にも満たないこの間を…如何やら彼のみ見ているらしく、俺の姿を見ていると知った時は顔から火が吹くかと思った。
誇らしげに笑えば、相楽さんも微笑む。
隠れた指先で向こうを指差すものだから、慌てて顔を引き締めた。
〘余りその様なお顔をされてると、いずれ気付かれてしまいますよ…〙
「はい、気を付けます…!」
折角彼の姿を見られるのだ、俺も気を付けなければならない。
綻んだ頬に力を込め…努めて平素を装った。
それがまた面白かったのか、相楽さんは笑いながら嘘の用事を済ませるのだった。
『ふっ…』
〔藍染様、如何されましたか?〕
『ん?あぁ、ここの廊下は寒いなぁ…ってね。』
〔でしたら次から閉めましょうか。〕
『いやいや、ここの庭園は好きだからね…このままで構わないよ。どうせ厠に行く間だけなのだから。』
危ない危ない。
あまりにも彼が可愛らしい事をしているものだから、つい止まってしまった。
慌てて顔を引き締め、歩を進める。
〈…………。〉
聞こえているぞ楓。
お前が呆れて溜息を吐いた音が…
仕方ないじゃないか、昨日今日と続けて彼の姿を見られるとは思っても居なかったんだ。
大抵彼を見た後の二、三日は姿が無く…枝のみが吊るされている。
その度にどれだけ身が引き裂かれる思いになっているか、楓は分からないだろう。
完全に彼の姿が見えなくなり、背筋を正した。
今日は彼女に会いに来た訳じゃない…
何故か百合さんに呼び出されてしまったのだ。
思い当たる節は全く無い…彼と接触はしていないし、何か不定を働いた覚えもない。
彼女の気を逆立てる様な事もしてないし…
考えても何も浮かんで来ない分、良い事ではあるが居心地は悪い。
身に覚えの無い事で呼び出されるだなんて、初めての事だ。
『…失礼します。』
百合さんの待つ間へと通され、先程緩んだ自身を律した。
《どうぞ。》
『………。』
さっと中へと入り、襖を閉めようと引手へと触れた瞬間。
《他の者は離れていて下さい。》
『………。』
《何人たりとも聞く事を禁じます。》
そう言い放ち、後ろに控えていた楓を含んだその他従者達は一礼をした後去って行った。
残された俺はそのまま呆けてしまう。
一対一での話なんて…余程の事だ。
《お閉めになって下さい。》
『は、はい…』
《………。》
静かに締め切り、百合さんの方へ向き直る。
如何やら生け花をしている最中らしく、隣に並ぶ花を一つ手に取り…小気味良い音を立てて切り落とした。
益々居心地が悪くなってきたぞ…
そう思っていたのが顔に出たのか、百合さんは少し微笑むと俺を一瞥した。
《どうぞ、お座りになって…》
『…失礼します。』
《………。》
最後の一つを剣山へ刺し終える迄、百合さんは一言も喋らなかった。
静かな時間が流れる間、すっかり俺の喉は乾き…ただ浸すら出来上がりを待っていた。
《随分と細くなったと思いませんか…?》
『……?』
《私の、間違いだったのでしょうか…》
生けた花々に触れて小さく呟く様な問に、上手く言葉が出なかった。
百合さんの言おうとしている事が分からず、つい俺は百合さんの指先にある枝を見つめる。
細い…と言えば確かに細いけれど、それもまた味があると言うものだろう。
《…あの子には酷いことをした。》
『……ぁ…』
"あの子"とは彼の事だ。
瞬時に理解し、百合さんの顔を見やれば…困った様に優しく微笑んでいた。
分かりやすい反応だったか…
《咎める事はしません……ただ、これだけは理解して頂きたいのです。》
『……はい。』
《私は、あの子の為を思ってあの離れへと移住させました。あの子が世に産まれ出て、生きようとする懸命な産声が聞こえた…》
『………。』
《大切にしようと…愛そうと…そう思った矢先、あの子の背には小さな痣があったのです。》
彼の運命の始まりの痣…
今になって何故その話を始めたのか分からない。
ましてや、この俺に話す道理も無いだろう。
それでもこうして話すのには、百合さんなりに何か考えがあるのかもしれない。
ただ独り言を紡ぐ様に、百合さんは語り始め…時折思い出す様に目を伏せた。
《それを見た主人と医師……そして、ここの従者達は挙って幼いあの子を毛嫌った。》
『………。』
《私はそれが耐えられず、また…あの子にも苦しい思いをさせると思ったのです。》
『それで、あの離れに…?』
《ええ……でも、相楽が居るでしょう?彼はどの従者より秀でていたので、身の回りは彼に任せると決め…私は……あの子の元を離れた…》
『………。』
《人肌が恋しくならぬ様…学びも得られる様、人の出入りも制限はしていないのです。》
『………?』
《私が直接手を差し伸べる事が出来ぬとも、周りの人間から何かを得られればと思っているのです…教養が無くとも、それなりに道は作れますから…》
『………。』
驚いた事聞いたけれど、きっと顔には出ていない。
如何やら、百合さんは彼の受けている事は知らないようだ…
現に、百合さんから紡がれた言葉には何一つ"穢れ"は混じっていない。
となれば…黙認しているのでは無く、本当に知らないのか。
勝手に欲情した者が発端で、それがあの輩達の中で広まり…更に人を呼んでいる。
外道にも程があるだろう…
だがしかし、それを今彼女に伝えてはならない。
良かれと思って行った行為が穢れていただなんて、そんな事…きっと耐えられない筈だ。
冷たいお人だと勘違いしていたのは自分で、百合さんは百合さんなりに…彼の母親を遂行していたのだから。
《貴方との事を耳にした時、少しばかり……いえ、とても…安堵したのです。》
『安、堵…ですか?』
《貴方とあの子は同じ歳でしょう?》
『はい…』
《友人が出来たのだ…と、ね。》
『………。』
《離れに足を運ぶ姿は、度々拝見して居りました。》
『す、すみません…』
《良いのです…あの子が喜んで居たのなら、それで…》
『……それでは、何故あの様な文を?』
《………。》
つい出た問に、慌てて口を噤んだ。
気が緩んでしまった…
反応を伺う様に見れば、百合さんもまた悩ましげな表情を浮かべていた。
《……背の痣を、話しましたね。》
『…はい。』
《見た事は?》
『………。』
正直に答えて良いものなのか…?
少しの間考え、変に誤魔化すのも良くないだろうと踏み…口を開く。
『あります。』
《…っ!》
『不可抗力、ではありましたが……それでも、しかと見ました。』
《………。》
目を見開いた後に、口元を抑え…目を伏せた。
叱られるだろうか…
そう思えば、途端に心臓が五月蝿く脈打つ。
けれど…こうして身の内を晒してくれた百合さんに、俺もせめてもと返したい気持ちがある。
嘘など無く、真っさらな気持ちを…母親である百合さんに。
《貴方には、どう…映りましたか…》
『………片翼…』
《………。》
『翼…です。』
《つ、ばさ…》
『はい……彼に似合う、と言ったら失礼に値するかもしれませんが…僕には、あの背には栄えていたと…』
《…っ…》
『あ…っ…すみません、不躾でした。』
息を詰まらせ、俺を見据えた百合さんの瞳から…僅かに涙が零れ落ちた。
不味い…変なことを言ってしまった。
深々と頭を下げれば、百合さんはそっと顔を上げるよう言ってくれた。
《……気味が悪いと、思わなかったのですね…》
『それは微塵も思わなかったです…まぁ、呆気には取られましたが…』
《そう…》
『でも、それがきっかけだと思います。彼を、深く知りたいと思う事が出来ました…』
あの日、彼の背を見て…不思議と近付きたいと思ったのだ。
百合さんの言う"気味が悪い"だなんて、そんな感情をひとつも抱かず…
ただただ…
《痣を見れば、貴方もあの子から距離を取ると…私は勘違いしてしまったのですね…》
『それで、あの文が…』
《申し訳ありません…》
なる程、それならば納得が行く。
あの日の接触禁止の言葉も、子を守ろうとしての言動だった訳か…
彼に近付き過ぎればあの痣を見てしまうから、それを防ぐ為。
嗚呼…本当に俺は勘違いをし過ぎて居た。
いや違う、お互いに…か。
《………相楽の世話役を外した後、あの子は一人になってしまった。飢え死にさせるつもりでも、凍死させるつもりでも無かった…》
『………。』
《私の、間違いでした…》
話が冒頭に戻ったのを察し、生けられた枝を見つめる。
《直ぐに使用人は解雇し、相楽を再び彼に………ああ…振り回してしまって、相楽にも申し訳無い事をしました…》
『………。』
《その間に随分と細くなってしまって…》
『そう、ですね…』
《……時折庭であの子を見て居ました。》
立ち上がり、開け放たれた障子の先へ目をやった百合さんにつられ…俺もその先へ目を向ける。
そこから見えたのは、離れの障子窓…
開かれたそこに、彼の姿が小さく見えた。
『!』
《出来ない物だと思っていたのに…どうやらあの子は、器量がある子だったのですね…》
愛おしそうに細められた目元は、慈愛に満ちている。
音も無く俺の方へ振り向いた百合さんは、膝を折り三つ指を揃え頭を下げた。
《今更ながら酷く勝手を申し上げます……》
『えっ、あ、ちょ…っ!』
《如何か…!!》
『………。』
《如何か…あの子を…っ!》
『………。』
《酷い仕打ちをしてきた私が言える事では無いと、承知の上です。》
静止の為に浮かせた腕を自身の膝元へ置き、百合さんの言葉を待つ。
《望む事はただ一つ……》
『はい…』
《あの子が幸せである事……母親と思われていなくとも、私は…私、は…っ…》
『…百合さん。』
《…っ…》
声を震わせ、詰まらせた彼女の肩に触れる。
上げられた顔は酷く歪み、何時もの面影は無く…
ただひたすらに"母"の顔をしていた。
涙を零し…この幸せを願う母の顔…
『僕は元より、彼に惹かれています。』
《………。》
『この上なく…彼を好いているので…』
《……っ…》
『無下になど、もう出来ません。』
如何捉えられても構わない。
嘘偽りの無い言葉で、伝えたいと思ってしまった。
『僕もまた…彼の幸せを願う一人です。』
《…っ、ぅ…っ…うぅ…っ…》
『………。』
蹲り、嗚咽を漏らす百合さんの背を撫で…視線を彼の方へと向けた。
温かい人肌が掌から伝わってくる…
ずっとここから見ていたのか…息子の成長を。
一頻り涙を流し、俺は彼女の背を撫で続けた…
互いに視線を彼の方へと向けたまま。
落ち着きを取り戻した頃、彼女がぽつりと呟いた…
《あの子は…未だ、私を母と呼んでくれるのでしょうか…》
〘では、私はこれで失礼致します。〙
「はい。」
〘あ、薬は飲みましたか?〙
「………。」
言われてつい、あの苦さを思い出し顔を歪める。
〘ふふ、その様子だとしかと飲んで頂けた様ですね…〙
「飲みましたよ…」
〘痛みは如何です?〙
「まぁ…多少は…」
〘そうですか…〙
「けれど、咳だけ毎朝酷いですね…それだけが厄介です。」
〘ふむ…咳止めも追加致しますか。〙
「えっ…」
〘ん?〙
「に、苦い…ですかね…ははは…」
〘……さあ?どうでしょうねぇ。〙
意地悪く微笑んだ相楽さんは、今度こそ去って行った。
どの薬も結局苦いのには変わりない…と言うことだろう。
漏れ出そうになった溜息を飲み込み、そっと障子を閉めた。
彼は今頃何をしているのだろうか…
「ふぅ……」
今日は身体が鉛のように重たいけれど、彼の姿を見たら少し和らいだ気がする。
けれど、余り無理をして動いていれば相楽さんに叱られてしまう。
大人しく床に入り、身体を休めるとしよう。
確か今夜は、あの日なのだから…
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