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ロミオとジュリエット 33
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その日、夜遅くから雪が降りだしていた。
秘書の小崎に頼んで、イタリアにいるマルコの家族に頭部の緊急手術のことを知らせてもらった。
家族は、雪で飛行機が欠航になりすぐには来れないとのことだった。
恋人がドイツ国内にいるなら知らせようと、小崎が探したようだがそもそも彼女がいるのかいないのか不明だそうだ。
マルコのマネージャーと代理人が病院に到着していて、私に帰宅を勧めてくれたがマルコが手術室から出て来るまで待つことにした。
私は、マルコがこれから療養する病室のソファに座っていた。
カーテンを少し開けて外を見ると、病院の窓枠に、雪が積もって行くのが見えた。
そんな中、結が足首をねんざしたとLINEで知らせて来ている。
私は結に、LINEを送った。
「足の具合はどう?痛むのか?」
「うん。」
「舞台を、休んだのか?」
「うん。」
「無理しない方が良い。」
「マルコ選手が怪我したね。」結が聞いて来た。
「試合を見ていたのか?今、手術中だ。」
「東郷さん、パリに来て。」
「行くよ、君、2月22日が誕生日だろう。22日には行くつもりでいた。」
「もっと早く来て。」
「え?」
「早くに来て欲しい。」
「足は重症なのか?医者はなんて?」私は途端に心配した。
「全治10日くらい…。」
「びっくりさせるなよ、もっと重症かと思った。君の誕生日の前日21日夜に、ドイツで試合があるんだ。22日中には出発できると思うが…。」
ブライダル指輪を注文した宝石店からも、指輪が出来ていると連絡が来ている。
「21日の試合が終わったら、その日のうちに来て。」
「え?」
「来て。」結は、無理を承知で言っている。何か話したいことがあるのか。怪我をして不安なのか。
夜アウトバーンを走るのは、注意を要する。
試合が終わるのは午後10時だ。どんなに早くても出立が夜の11時になる。
ドイツのアウトバーンは、街灯がほとんどない。
いくらハイビームでも、走る車の少ない過疎地を夜間200k/hで走行するのは度胸がいる。ましてや雪の季節だ。
運転を気を付けてと、結は言っていたのに…。
最近、結のメンタルに不安定さを感じる。
私はバレエのことはよくわからない。でも、メンタルとモチベーションの維持は、バレエもサッカーも同じだろう。
結のような世界的名声を受けた芸術家も、今日は昨日より高度なものを求められる。
サッカーの2倍、怪我が多いのがバレエだと、グルケ医師は言った。体を直しながら、限界まで自分を追い込み昨日よりも進化しなければならない努力は、並大抵のものではないだろう。
何かが、結を苦しめている。
私に隠している、というより、言えないでいるのかもしれない。
「早く来て。」結はダメ押しで私にLINEを送って来た。
「わかった。」結の表情も声も、読み取れないまま、私は承諾した。
私が待っているマルコの病室に、担当のグルケ医師がやって来た。
「手術は成功です。血種も取り除かれ、脳に損傷はありません。順調に回復するでしょう。もう覚醒していますよ。話しかけられます。」
グルケ医師が後ろを振り向くと、ストレッチャーに載せられたマルコが運ばれて来た。
看護師さんが3人がかりで、190cm近い筋肉のかたまりのマルコを「1、2、3!」で持ち上げ、ドスンとベッドに戻した。
頭蓋骨に穴開けたのに、普通の枕で寝かされている。それで問題ないらしい。
頭にガーゼが大きく当ててあり、テープで髪の毛にペタペタと固定してあるだけだった。
頭骨を元通りはめ込めば、それでいいのか。
マルコの頭からは、チューブが出て傷口から出て来る浸出液を流し、体からも尿を出すチューブがつながれている。
「マルコ。」私は、ベッドの上の彼に静かに呼びかけた。
マルコは、目を閉じたままだ。
「マルコ、手術は上手く行ったそうだ。君は回復するよ。」
すると、マルコの手が私を探した。その手を、握ってやる。
ブラオミュンヘンの主力選手が、回復可能な怪我で助かった。
翌日、ブラオミュンヘンのトレーニング施設には、スポーツ記者たちが大勢押しかけていた。
「マルコ選手の怪我の状況はいかがですか?」
「監督ご自身で、病院に付き添われたと伺いましたが。」
私は、マルコの怪我の状況、手術が上手く行ったことを、メディアおよびブラオミュンヘンの選手やスタッフにも説明した。
みな一様に、頭部を怪我したマルコを心配していたが、治ると医師が言ったので安心している。
マルコ入院して1週間が過ぎ、私は結に会うため、ドイツの自宅からパリに車を走らせた。
結が懇願した、2月21日夜の出発はかなわなかった。マルコは欠いたが試合に勝ち、勝利インタビューや取材が長引きスタジアムから動けなかったからだ。
結に”遅れる”連絡もできないまま、22日の朝を迎えてしまった。
夕方にパリに着いた。
まずは、注文したパリの宝石店で私は指輪を受け取った。
それを持って、結のアパルトマンに向かう。
本当なら、うちの庭の白いバラを花束にして結に持って来てやりたいと思ったが、あいにく冬なのでバラは咲いていない。
パリの花屋で、白いバラを50本ほど買い求めた。
更には、結の家の近くパリ16区の大きな食材店に立ち寄る。
ガリス牛と書かれた肉を見つけ、早速カートに入れた。
結の自宅1Fのレストランで、あの女性シェフが作ったステーキがこのガリス牛だ。実に美味い肉だった。
野菜、米のほか、醤油、ポン酢など驚くほどたくさんある日本の調味料の中からいくつか選んだ。
今夜は、結の家で夕食を作ってやるつもりだ。
それと、忘れてはいけない、誕生日ケーキは、ガトーショコラにした。
車を停め、食材の大荷物を抱えて結の部屋に行くと、結が中から出て来た。
結は私を一目見て、下がり眉になり、泣きそうな顔になった。
「もう、来ないのかと思った…。」
「なんで?、そんなはずないだろ。」
「だって、連絡くれないし。LINEしても電話しても出ないし。不安でいっぱいになった…。」
繊細な神経の結は、不安になり出すとどんどん不安になるタイプなのだろう。
私は花の入っている大きな紙袋を床に置くと、ジャケットのポケットの中にあるスマホを取り出して、着信記録を見た。
LINEにも、電話にも結の着信がたくさん着いていた。
結が、私の胴に抱きついてきた。離すまいと腕に力を込めて来る。
「待っていたんだ…。」
食材と指輪の入った紙袋を私はまだ片手に持っていて、もう片方の腕で結を抱きしめた。
「ごめん、結。」昨夜の内に来てと結は言ったのに、1日遅れたことを私は謝った。
「試合で頭がいっぱいで、忙しかったんだ。」
結にお詫びのキスしようとした私を、結が避けた。
こうして会えたのにいったいどうしたんだ。いつものように、私の来訪を喜んでくれないのか。
「どこかに寄って来たの?」結が、初めて私の手荷物に気に留めた。
「うん。」私は、大きな紙袋の中から、バラを取り出した。
「結、24歳の誕生日おめでとう。花束は沢山もらうのだろうけど、これは私から。」
私は、結に白バラを渡した。
「ありがとう。」結は、花束を胸にだいじそうに抱えてくれた。
キッチンの方へ行って、花瓶に水をくみ、花を生けている。
その結の背後から、腕を回した。
「何?」
「これが、出来た。」
私は手のひらに、宝石店の袋を載せて結に差し出した。
「指輪?」
「そうだ、あけてみて。」
結が、袋の中からグレーの箱を取り出す。
結の白い指が、金色のリボンを解いていくと、中から淡い水色のビロードの箱が出て来た。ゆっくりと蓋を開けている。
「きれいだね。」
プラチナの地金に、金文字をあしらった指輪だ。結が選んだ。
”あなた以外に愛はない”と古いフランス語で刻印されている。
私が、小さい方のリングを取り、結の左手の薬指にはめた。
ぴたりと合う。
結が、大きな方を取り出し、私の左手薬指にはめてくれた。
指輪をはめた手で、お互いの手を握った。
花にやる水を使っていた、結の指が冷たい。
結の手を、手のひらに包んでやる。
もっと嬉しそうな顔をしてくれても良いと思うが、いったいどうしたんだ?
まだ、足が痛いのか?
「怪我は、どっちの足だ?」
「左足。ほら。」結が、ルームパンツの腿の辺りを少し持ち上げると、足首にサポーターを巻いている。
「保護のためにサポーターを巻いているけど、昨日は舞台に出たよ。」
「そうか、良かった。」
結の足元を見た。
柔らかそうな起毛のスリッパを履いている。
「ブラオミュンヘンの選手たちに、私はスリッパをはかないように言っている。
転倒防止のためだ。サッカー選手は足が命だから。
結も、スリッパやめたら?」
「その方が良い?」
「バレエも同じじゃないか?」
私は、一つ前から疑問に思っていたことを結に聞いてみた。
「男性のバレエダンサーも、トゥシューズを履くのか?」
「古典バレエでは、履かない。役柄で稀に履くこともあるけど。あと練習の時、足を強くするため履くことはあるよ。」
「待って、見せてあげる。」
結が、クローゼットからトゥシューズとバレエシューズを持って来た。
手に取ってみると、結のバレエシューズは、柔らかい布製だった。
結は最近、メンタルが不安定だ。この柔らかい靴と疲れと、精神不安定が重なったら、即怪我につながるだろう。
ねんざする条件がそろってしまう。
結は、白いバレエシューズを履くと、私に簡単なポーズをとってみせた。
結に触れる度、体の柔らかさと身体能力の高さは十分わかっていたが、天井に向けてほぼ垂直に上がる足を見て感嘆した。
静かに足を上げたまま、結が言った。
「トゥシューズは、ふんわりとした妖精とか白鳥とかの動きを表現するために履くんだよ。
男性ダンサーは王子とか人間の役が多いから。
僕は、人間の王子役でも妖精みたいだって言われるけどね。トゥシューズ履いていないのに、ふんわり飛ぶって。」
「目に浮かぶようだよ。」
「ねえ、東郷さん。いつまでパリにいられるの?」
「明後日まで。」
「僕の舞台、観て欲しいんだ。明後日あるから見て行って。招待席を用意するから。」
「楽しみだ。」見て即、ドイツにとんぼ返りのハードスケジュールになるがいたしかたあるまい。
「東郷さんに、見て欲しい演目なんだ。」
「バレエはわからないが、結が出るのを見てみたい。」
「嬉しい。」
「で、演目はなんだ?」
「ロミオとジュリエットだよ。」
「そうか。私でもわかる内容でありがたい。」
結が出るなら見てみたい。バレエなんて、生で見るのは初めてだ。
結が、「ご飯どうする?」と聞いて来た。
「肉や野菜を買ってきたから、私が作るよ。」結にやらせると、とんでもない事になりそうなので自分が作るつもりで材料を買い込んで来た。
「連絡を1本したら、取り掛かるから。お湯を沸かしておいてくれるかい?」
「わかった。」
キッチンに向かう結の背中を見ながら、私はLINEで小崎に話しかけた。
「小崎君、頼みたいことがある。」すぐに既読になった。
「何なりと。」
「パリ・オペラ座の近くにガルニエと言うチョコレート店があるんだ。そこにチョコレート詰め合わせ100箱注文して欲しい。」
「100箱ですか?!」
「2月25日のオペラ座公演の楽屋に、届けるよう注文して欲しい。」
「道ノ瀬さんの楽屋ですか?」
「そうだ。」
「そんなに贈ったら、道ノ瀬さんが太っちゃいますよ。」
「出演者、スタッフみんなに贈るの。結がひとりで食べるわけじゃない。」あほか。
「出演者の皆さん、太ってバレエ出来なくませんか?」
本当に小崎は脳天気だ。少し結に分けてやってほしい。
「いいから。早く。」小崎にLINEを送り、私は肉を焼くためキッチンに向かった。
芽キャベツとベビーコーン、ほうれん草、トマトに軽く塩を振り、グリルで素焼きにする。塩を振るのと熱で水分が飛び、野菜の甘みが強調されて、簡単で実にうまい。
これを付け合わせにして、ステーキをミディアムレアに焼く。片面を強火30秒焼き、弱火で1分加熱し、もう片面も焼いて、最後に余熱で火を通すためホイルに包んだ。
ポン酢しょうゆのステーキに、ご飯にジャガイモと玉ねぎの味噌汁。
ここパリでも、普通に和食が作れる。
結は、私との食事に気を取り直したようだったが、ステーキを半分残した。
この後、バースディケーキも出すつもりだったが、とてもではないが食べてくれる感じがしない。
「食欲が進まない?」
「ごめんなさい、東郷さんがせっかく作ってくれたのに。足を怪我して舞台を休んでいたら、少し太っちゃったんだ。」
そんな風に見えない。激しく体力消費するバレエなら、そんなに気にしなくても良いような気がするが。
やはり、足の他に何か心配事があるのか。
「結?」
「はい?」
「何か心配事があるのか?何でも私に話してくれ、私たちはそう言う仲だろ。私には、君に何かあったら君を守る義務がある。」
結が、”守る”という言葉に、はっとしたような顔をした。
「ごめんなさい東郷さん。心配かけて。僕…、実は、日本観光の公式アンバサダー(使節、大使)になるよう、日本政府から打診されているんです。」
「え?」
「日本に観光客が沢山訪れるよう、宣伝する役。」
「それは、君にとって名誉なことかい?」
結は、首を横に振った。
「断れないのか?」
「有無を言わせない感じです。」
私たちの交際を、結のスポンサーに何とか納得させたのに、今度は政府か。
「スポンサー企業の誰かが、僕を推薦したのかも。」
「え。」
「道ノ瀬は使いやすいって、誰かが言ったのかもしれません。スポンサー企業幹部はみな、政府高官とつながりが深いですから。」
「彼らは皆仲良しですよ、同じ穴のムジナ。僕は、スポンサー企業にも政府にも”いや”と言えない、弱い立場です。そして、もっと大変なことが…。」
「何?」
「この計画で、窓口になっている政府の観光担当者が、スキャンダル一切は困ると言って来ました。」
「私たちはもう隠していないし、スキャンダルじゃないだろ。」
「政府は頭固いから、そうは取っていないんです。」
結は、ひときわ険しい顔つきになった。
「身辺整理しろとでも、言われたのか?」」
私は、半分冗談で聞いてみた。
結の顔が、蒼白になった…。
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