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ロミオとジュリエット 48
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「お目にかかれて光栄です。東郷監督!」
コーゼの村木社長は、がっしりと私の手を掴んで握手した。
「いやあ、大きな力強い手のひらですな。現役スポーツ選手のようだ。」
「かつては、大変なご面倒をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。」
私は、外務省の五代もいる前で、村木社長に深々と頭を下げた。
「いやいや、お頭をお上げください。私どもも、監督あっての販売実績ですから。監督がCMに出てくださらなければ、こうまで売れないですよ。」
「そう仰っていただき光栄です。お礼申し上げます。さあどうぞ、おかけください。」
コーゼの村木社長。私より少し上だろうか。働き盛りの脂ののった社長だ。
コーゼは、日本に輸入されるベンツを扱う代理販売企業である。
私は一昨年、スピード違反で半年間、免停をくらった。
それを週刊誌が書き立てようとしたが、その記事をなぜか金で買い上げ週刊誌掲載を阻止したのがこの村木社長だ。 そう私は、日本のベンツ販売のCMに起用されている。
免停になれば、CMは降板される。私はそれでも構わないが、販売会社であるコーゼは冗談じゃないだろう。
ブラオミュンヘンの事務員が、3人分のコーヒーを入れ替えて来た時、官僚の五代が言った。
「せっかくではございますが、私はここで失礼いたします。」
五代は、コーヒーには手をつけずに突如帰った。
なんだ?一緒にいたらまずい話が始まるのか?
不審に思った私をよそ眼に、村木社長はコーヒーを手に取って美味そうにひと口飲んだ。
「う~ん、ドイツはやはりコーヒーですな。」
「お話を伺います。」
まさか、コーヒーを飲みに来たわけではあるまい。
私は、村木社長に本題を尋ねた。
「監督、これは一つのビジネスだとお考えになるべきです。」
「”これは”とは?」
「ブラオミュンヘンだって、チケットを売り興行収益をあげているのですから、ビジネスである事には 変わりないです。
しかも、世界的な巨大企業だ。東郷監督、あなたは言わばブラオミュンヘンの社長です。
道ノ瀬氏は、バレエーダンサーとして世界的に知名度があり世界中に多くのファンがいる。
私も、一度パリで彼の舞台を拝見ましたが、みずみずしい躍動美に感動しました。彼はこの演技のためにどれほど長い時間練習に明け暮れるのだろうと、ため息が出ました。」
結は、子供時代から私に出逢うまで、他の子が経験するような遊びや恋愛を経験していない。家族との食事も常ではなかったと結は言った。
学業以外、許容される時間のすべてをバレエに費やして生きて来たのだ。
「うちの重要顧客様の奥様に、道ノ瀬氏の大ファンがいらっしゃるのですよ。
60代のご婦人ですが。以前は歌舞伎の女形役者がお好きで歌舞伎に通いつめていらしたが、今は道ノ瀬氏をご覧になるために同じくファンのお嬢様と毎月パリに通っていらっしゃる。
この方たちだけではありません。今や道ノ瀬結氏の、パリ公演の席の3分の2は日本からのファンで埋め尽くされています。」
「3分の2ですか。」私が、結の公演を観た時もかなりの日本人がいた。
「日本でも公演はありますが、最も入手困難なチケットだそうです。」
「そうでしょうね。」
結は、私に自分の人気を特に話したりはしない。結は、芸術家気質であり、いつもより素晴らしい演技を追い求めるのみだ。
「若者にだけでなく、もはや彼はあらゆる世代の”美のアイコン”です。」
「美のアイコン?」
村木社長が、自分の黒のダレスバックを膝の上に置くと、中から雑誌を1冊取り出した。
「これです。」
女性向けのファンション誌の表紙に、バレエ衣装を着た結が載っている。
私も観た、ロミオとジュリエットの衣装かもしれない。純白のレース地の衣装だ。
「私も道ノ瀬氏に、舞台だけでなくパリのパーティで間近でお会いしました。その時は若々しいスーツ姿でしたが、はきはきした少年のようで、愛らしくて、まるで妖精のようだと。」
「そうですか。」私はそっけなく返事をした。
「そして、道ノ瀬氏は熱狂的なサッカーファンです。
彼を、使わない手はないでしょう。」
「村木社長、あなたはビジネス面からすべてを考えていらっしゃるが、道ノ瀬氏は”もの”ではありません。自由も尊厳も保証されるべき人間です。」
「監督。単刀直入に申します。もし道ノ瀬氏とのことを清算していただけるなら、監督あなたに東京23区内の1等地に100坪の土地と、キャッシュで5億円用意いたします。悪い話ではないでしょう。」
「本気で、そんなことを仰っているのですか?」
私は、村木社長の言葉に血の気が引いた。
「道ノ瀬氏を手放したくないお気持ちは、重々承知しております。」
「戯言もいい加減にしていただきたい!」
村木社長は、私の剣幕に驚いた様子だった。
そして、それ以上踏み込んでこなかった。
商社コーゼの創業者は、確か車田氏とか言った。私も、コーゼが扱う車のCMに出ているので村木社長が創業者家系出身ではないことを知っている。
彼は、営業畑から上がって来たエースである。
営業なら、相手を怒らせたら、元も子もないことを重々承知しているのだろう。
「今日の所はこれで、おいとまいたしましょう。」村木社長は穏やかにそう言い、ダレスバックを持って立ち上がった。
五代が途中で消えたのは、そう言うことか。
私を買収する席に、現役の官僚がいたのでは、五代は、贈収賄事件の片棒を担ぐことになる。
くそっ。どこまでも用意周到で汚い奴らだ。
私は、人の心を金で買おうする連中が大嫌いだ。
週刊Bezの諸橋に初めて会った時も、結と付き合っていることにしたら、礼をすると言った。
そうだ、週刊Bezの奇想社も政府の御用メディアだ。
今度は、別れろと言う。
人の人生を、金で左右されてたまるか。
結も、同じことを言われたのだろうか。
どんな思いで聞いたのか。
私と離れる時の心細い表情、繊細な神経の結を思い、心が痛んだ。
村木社長が残して行った、テーブルの上の結が表紙の雑誌が目に入った。
その夜、結が舞台が終わって帰宅した頃を見計らい、祈るような気持ちで電話をした。
「結?」
「東郷さん…。」
「今日は、舞台どうだった?」
「なんとか、終わったよ…。」結の声が、はかなげに聞こえる。
「結。結に打診のあったアンバサダーは、ただの観光ではなく、サッカーW杯アンバサダーだと聞いた。」私は努めて優しく話しかけた。
「東郷さんの所にも、話があったの?五代さんが行ったの?」
「ああ。それとコーゼの社長も来た。結の所へは?」
「日本領事館の人。五代さんの同僚だとか言っていた…。」
「領事館から、どんなこと言われたんだ?」
「領事館だけじゃない。みんなが僕に、アンバサダー就任するよう言うんだ。スポンサー企業も、所属のパリバレエ団にとっても大きな宣伝になるから、断らないでほしいと圧力をかけて来る。受けたくないです!って僕が突っぱねているから、パリバレエ団とぎくしゃくしてしまっている…。」
「結…。」
「そちらに行っていい?東郷さんに会いたい。」結が、言った。
「私が、パリに行くよ。」
「いや、今はパリから離れたい。僕がアンバサダーになることを望んでいる人ばかりだから。
オペラ座の出入り口とアパルトマンの入口付近に、いつも記者が何人か張り付いているんだ。」
「なんだって?!」
「東郷さんが入院して、僕が内緒でお見舞いに行った記事が週刊誌に載ったよね。あのあたりから、記者の張り付きが厳しくなったんだ。多い時には30人もいる。」
「30人!?」
「東郷さん、僕、なんか今ここにいると、気持ちが行き詰まって、踊りたい意欲が損なわれる。」
芸術家の結は、通常の人間よりも繊細な心を持っている。かなり行き詰った心中なのかもしれない。
「ならば、迎えに行く。楠本さんにだけは話しておいてくれ。結がいなくなったら心配するから。」
「行ったら、ダメって言われるよ。」
「楠本さんは、結が困っているのに助けてくれないのか?」
「う…ん。」マネージャーの楠本氏は、私のことは嫌いだろうが、結のためには最善の策を考えてくれるはずだ。
楠本氏は、パリバレエ団所属だから仕方がないのかもしれないが、彼もやはり、結はアンバサダーになった方が良いと考えているのか。
「パリオペラ座とアパルトマンには、記者が張り付いているんだね。」
「朝出勤する時も、オペラ座から帰る時も、車で僕の自宅までくっついてくる。」
記者30人として、30台の車がぞろぞろくっついて来るのを思い浮かべ、私は不快な気持ちになった。
ならば、結をそれ以外の場所で連れ出さねばならない。
結には、オペラ座で演舞している時と、自宅にいる以外、楠本氏が常に同行する。
その楠本氏に、内緒で結を連れ出すのは至難の業だ。
私は、思案した。
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