アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
ロミオとジュリエット 58
-
私は、ドイツ政府や国内外の情報を集め、所属チームであるブラオミュンヘンと今後の相談をネットで日々取り交わしていた。
ドイツ政府は、サッカー始め大規模イベントは、8月31日まで禁止を決めた。
つまり試合は、早くても夏休暇後の9月からと言うことだ。
無観客試合は、禁止ではないので、ドイツサッカー連盟はこれを6月あたりに開催する可能性はある。
現在試合は禁止、選手たちはどうしているのか。
そして、コロナ陽性のアベルの具合が気にかかる。
私の秘書である小崎は、日本人なので飛行機が欠航になる3月29日直前に帰国していて、ドイツにいない。
ブラオミュンヘン事務所で聞いた所によると、アベルの容体は一進一退を繰り返しているそうだ。
他にも検査結果待ちの選手が複数いる。
私は、自分のチームの馴染んだ面々を思い浮かべた。
私の友人である、グルケ医師の勤めるフライブルク市立総合病院では進行の緩やかなガン患者の手術が延期され、感染症病棟を拡大していると言う。
玄関外では、テントを張り、地元医学部学生まで駆り出されて感染症外来をしていると言う。
病院だけではない、ライブなどに使われる多目的ホールに簡易ベッドが膨大な数並べられ、患者が担ぎこまれている写真を見た。
これが、私が知るあの景観の美しいフライブルクか。
戦時下の野戦病院ではないか。
にわかに信じがたいが、全てが自分が良く知る建物や景色だった。
グルケ医師の専門は脳神経外科だが、この非常時だ。
感染症科の医師だけで足りるはずもなく、駆り出されているに違いない。
私は、ブラオミュンヘンのシュタイナー会長に電話をかけた。
「シュタイナー会長、この大事な時にブラオミュンヘンを離れていることになり申し訳ありません。」
「いや、御父上を亡くしたのだ、心よりお悔やみ申し上げます。
東郷監督、君が無事であることが何より嬉しい。君が感染する方が恐ろしいよ。」
「会長も、お元気で何よりです。」
「いいかね、こちらの状況が許すまで、ドイツに戻って来てはいけないよ。いいね。」
「はい。アベルが感染したと聞きました。」
「今、市立総合病院に入院している。意識が混濁して来ているそうだ。」
「えっ?」
「治療は、病院に任せるしかない。」
「はい…。」私に影響されて、日本語を学習しているアベルの人懐っこい顔が浮かんだ。
沈んだ私の声に、シュタイナー会長が気付いたのだろうか、会長が声のトーンを上げて言った。
「陰性の、ブラオミュンヘンの選手たちは皆元気だ。個々でトレーニングに励んでいる。ドイツでは3人以上集まることは禁止なので、1人か2人で、トレーニングをしている。心配はない。
それと、ドイツ連邦政府は、6兆円をスポーツ芸術産業に大規模支援すると言ってくれた。君の報酬も保障される。」
「ありがとうございます。ところで会長、私は感染症を扱う医療機関に寄付をしたいと考えています。」
「それは良い。東郷監督と会長の私、そしてブラオミュンヘンからも捻出しよう。」
「ありがとうございます。」
「君の、あのパートナーは日本で一緒か?」
「あ、はい。彼も、職場のオペラ座が休館になっています。」
「そうか。この感染症が終息したら、君たち2人と食事がしたい。」
「会長?」
「対面で食事を楽しむようになれるのは、一体いつのことだろうか。私は、それまで元気でいないといけないね。」
「会長?」父を失ったばかりの私は、シュタイナー会長の言葉が気にかかった。
「どこかお悪いのですか?」
「いや、大丈夫だ。」
「そうですか、ずっとお元気でいらしてください。」
「了解。」
故・東郷信司郎が生みの父なら、シュタイナー会長は私・東郷監督の生みの父だ。
私は、この人無くして、著名な監督にはなれなかった。
シュタイナー会長は、お嬢さんのローラさんと私の婚姻を望んでいた。
だから、バレエダンサー道ノ瀬結と私の恋を、まっこうから否定された。
そのシュタイナー会長が、結の存在を認めてくれた。
会長令嬢のローラさんは、別の男性と結婚し、すでに一児を得たと聞いた。
孫が出来て、会長も心に余裕が出来たのかもしれない。
ブラオミュンヘンの選手たち、会長、スタッフは、非常時を必死に乗り切ろうとしている。
私は、遠い日本にいて祈るような気持ちで、彼らを見守っている。
そして私は、ドイツの自宅の管理を頼むため、ジップと庭師に電話をかけねばならない。
ジップの携帯に電話をすると、彼女がすぐ出た。
「だんな様!」
「ジップ!変わりないかい?」
「はい。お屋敷の方は、何事もありません。私も庭師も猫たちも元気です。」
「そうか、ありがとう。感謝している。」
「でも、都市部の店が閉まってこっそり遊びに来てしまう人が沢山います。門の前に”当然ですが見学禁止です”と書いた看板を立てました。」
「笑。そうか。人が多いなら、くれぐれも気を付けて。」
私の住むフライブルク郊外は、リゾート地で、近隣のスイス、フランス、イタリアからも観光客が来る。
外出禁止の余波で、こっそり遊びに来る輩がいるらしい。
私の家は、木造5階建て、歴史的建造物だから目立つ。
当然、東郷監督の家だとバレているのである。
「ジップ、君たちの仕事は、猫の世話だけでいい。給与は変わらず振り込むから。庭師にも伝えてくれ。」
「はい。ありがとうございます。だんな様がお帰りになったら、また朝食をお作りします。」
「頼むよ。猫に邪魔されながら食べるのが楽しみだ。」
ジップの作ってくれる、ドイツ風の朝食が懐かしくなった。
プレッツェル、コーヒー、チーズ、庭で取れたレタスサラダ、4分の半熟卵…。
ブラオミュンヘンの選手たちは、制限された生活の中でトレーニングを励んでいると聞いた。
問題はこの私だ。
実家には、トレーニングマシーンは無いし、日本のサッカーチームの所属ではないので、私が使えるスポーツ施設はない。
市中の公園を変装してランニングでもするか。
結と並んで走ったら、さすがにばれて、人が集まって来そうだ。
結はどうするのだろう?
あのスタイルを維持するのは、並大抵のことではない。
「東郷さん、見て見て、これ僕!」
結が、iphoneを持って、私のそばにやって来た。
画面をのぞき込むと、バレエの演目が映し出されていた。
「ネット経由で、今まで公演された演目を世界中に流しているんだよ。ネット鑑賞会だね。」
「これが、ロミオとジュリエットのロミオ役。東郷さんも見に来てくれたでしょ。待って、白鳥の湖の王子役もあるんだ。」
「おっ、結がリフトしている。」
「小柄な人限定だけどね。僕が逞しいタイプじゃないから。」
「結は、バレエ、いつまで休みなんだ?」
「パリバレエ団からの連絡だと、7月末まで公演中止でその後夏休みだから、9月から再開できればって言っている。」
「ブンデス(ドイツサッカー連盟)と同じだな。」
「マネジャーの楠本さんに頼んで、フランスの医療機関に10万ユーロ寄付することにしたよ。」
「太っ腹だね。」
「芸術家の僕は、仏政府に手厚く保護されているから、お返しなんだ。」
「結、君の素敵なスタイルを9月まで維持するのはどうするんだい?」
「う~ん、日本のバレエ協会のレッスンルームを借りるか…でも日本にもダンサーは沢山いるので、人が集まらないようにしたら、1カ月に1回くらいしか借りられない。
あとは、自宅かな。ここで、トレーニングしても良いの?」
「いいよ。防音室なので、飛んだり跳ねたりしても大丈夫だ。このぐらいの広さで良いのかい?」
私は、すっかり私と結の部屋になっている実家の防音室を見回した。
音楽家になった妹の飛鳥用に作られた部屋だが、肝心のピアノをここに置くわけにいかなくなった。 昔、私たちきょうだいが、1階のリビングで野球をやった。
上の妹の恵が、バッド代わりのゴルフクラブで壁に大穴を開けたからだ。ピアノは穴隠しに1階に設置された。
「基礎トレーニングは、このぐらいで十分。ジャンプはバレエ協会に行ってやるよ。」
結が、さっそく簡単なトレーニングを始めた。
「東郷さんはどうするの?」
私はちょっと面白いことを考えた。
「結をウェイト(おもり)にして、私がトレーニングするのはどうだ?」
「ふたりでトレーニングする?」結が嬉しそうだ。
「リフトのやり方教えて、結。」
「えー!東郷さんを持ち上げられるわけないでしょー!」
「結が持ち上げるんじゃなくて、私がリフトするんだ。」
「あ、びっくりした。でも天井にぶつかる。」
「下においで。玄関ホールが吹き抜けだから、2階まで天井の高さがある。」
「やるやる。」
結のバレエレッスンが、1階の玄関ホールで始まった。
「重心を預けるからね、東郷さん。これからは、東郷さんをバレエのバーだと思うからね。」
「え?バー(棒)」
結が、ジャンプのタイミングを合わせ、私の腕めがけて一気に飛び込んで来た。ちょっと驚いたが、ポンと案外うまく私の腕の上に載る。
「きゃはははは~!東郷さん、さすが~。運動神経が抜群だし、力も強いね。」
「でも、リフトで一番大事なのは信頼関係!」
「信頼関係?」
「そう、信用して体を預けられること!」結は、伸ばした私の腕の上で、楽しそうに次々とポーズをとってみせた。
2階の天井からつるした、シャンデリアに結の手が届きそうだ。
腰ではなく、肩甲骨の下で大きく曲げる。
結は男性だが、体が驚異的に柔らかく、非常にしなやかだ。
全身を覆う、細く強い筋肉が優雅さの源だ。
「あっーなんか今、きゃっきゃって聞こえたぞー。あ、すごいリフト!」
パン屋業務の途中で何か取りに来たのか、妹の恵が私たちに言った。
「お兄ちゃん、バレエに職替えするの?」
「するわけないだろ。」
結のバレエの練習に付き合い、私も結の横で腕立て伏せ(プッシュアップ)
で胸筋や背筋、腹筋、腕の筋肉、体幹を鍛えた。続いてシットアップ(上体起こし)で腹直筋を鍛えた。
「すごい筋肉だね。割れてる。」
結が、シットアップで腹筋を鍛える私の腹に手で触れた。
「結も割れているだろ。」
「東郷さんほどじゃない。東郷さん、僕を背中に乗せて腕立て伏せとかできるんじゃないの?」
「しないよ、背骨骨折したんだから。」
「あ、そうだったね。ごめーん。」
その夜、私は、ドイツに残して来た皆のことを思い、寝付けなかった。
「眠れないの?」
「結もか?」
「不謹慎なんだけれど、みんなに囲まれて、東郷さんと暮らせる今が僕は幸せ。お金が沢山あるとかじゃなく、東郷さんとの時間が沢山あるのが一番うれしいんだ。今それが、初めて叶っている。
辛い人が沢山いるのに、それが申し訳なくて…。」
「結、結…。」
私は、隣りで寝ている結を自分の布団に招き入れ、抱きしめた。
なんて、心の綺麗な天使…。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
58 / 71