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ロミオとジュリエット 61
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結への、接近禁止令。
昨日、日本の裁判所から、書面でわざわざドイツの私の自宅に届いた。
日本にいる限り、この法が適用されると。
かといって、結をドイツに呼び寄せることは出来ない。
法律上の家族でない結を、出国させドイツに迎え入れることは不可能だ。
家族ではない結が、ドイツに来るのは旅行者扱いになる。
今、日本はよほどの理由がない限り、出国は許されていない。
私の自宅のパソコンに、メールが届く電子音がした。
メールボックスを見た。
差出人、楠本裕介。
結のマネージャーだ。
東郷監督
「平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
バレエダンサー道ノ瀬結の件でメールをいたします。
この度、パリバレエ団取締役会において、以下の日本企業と資本業務提携を行うことを決議いたしましたので、お知らせいたします。
業務提携企業は、ラクス製薬、ペールチョコレート、会田生命保険…。」
結をCMに使う日本企業が、パリバレエ団と業務提携することになったとある。
パリは今、パンデミック第2波が来て、大変なことになっている。
ニュース記事で読んだ情報だが、パリバレエ団は、9月から再演予定だったが、第2波で舞台休業を余儀なくされている。チケットは全額払い戻されたと言う。
何億円分もの莫大な赤字が出ているのだろう。
結の演目・白鳥の湖の振付師をロシアから呼べなくなっているとも言っていた。
業務提携とはつまり、バレエ団買収に等しい。
パリバレエ団は、結のCM企業の言いなりになる。
と言うことは、結がその企業の意向に従わねばならないことを意味する。
結が、タカールW杯の広告を東京で撮影したと言っていた。
断れないとも言った。
楠本マネージャーの文章はまだ続く。
「道ノ瀬結が、請けておりますW杯の広告事業は、まぎれもなく中東タカール大会です。
かの地では、男女以外の恋愛を認めておりません。
以前、東郷監督が道ノ瀬との交際をSNSで公表されました。しかしその後、監督ご自身で取り下げられたと聞いています。 しかし、実際はおふたりは夫婦同然だと私は理解しています。これが露見すれば、タカール大会に協賛するすべてのスポンサーは撤退するでしょう。道ノ瀬は社会的に抹殺されるのです。パリバレエ団は、パンデミックで大赤字です。その上、道ノ瀬を失ったら、400年続いたバレエ団は潰れます。」
私は、自室のソファに脱力した。
天井を仰いだ。
結に近づくことは、日本の法律で禁止され、W杯開催地タカールは同性の結婚どころか、恋人であることすら認めない。
官僚の五代憲が私に言った。
「あなたは最終的に守りたいものがあるはずです。結さんを失いたくないでしょう。」
五代の言う意味はこうだ。
結を私のパートナーとして失うのではなく、このままでは、結の社会的地位を喪失させてしまう。
著名なバレエダンサーの結が…。
その可憐な演技で、世界を魅了した結が…。
タカールW杯には、莫大な経済利益が見込まれている。
ボトル飲料、食品、タクシー。街中は、W杯の商標入り広告であふれている。
パンデミックが終われば、経済効果は見込める。しかし、それはW杯に間に合う可能性は薄いと私は思う。
日本政府にしても、企業にしても、そこをどうするつもりなのだ?
いや、開催できなくても開催すると言って、皆をだまし続け、商品を売るだけ売ってしまうつもりなのだろう。
私の自宅の執務室の机上には、結のバレエ写真がフレームに入って飾られている。
私が以前、結の公演を見に行った時の、「ロミオとジュリエット」のロミオ役だ。
私はしばらく、それをうつろに見ていた。
結…。
私の結…。
その翌日、ブラオミュンヘンの国内試合が、行われた。
テレビ中継はあったが、観客は入れず、選手も私も声を上げずジェスチャーのみで、無言のまま試合が進んだ。 結果は、1-2でブラオミュンヘンが勝った。
試合後、いつもあるユニフォーム交換も肩を抱いて健闘をたたえ合うこともなく、相手チームと別れた。
試合を終え、監督控室に戻り私は、スマホに電源を入れる。
ONした途端、待っていたように電話が鳴った。
スマホの液晶には、馴染みのある名前が表示されていた。
通話ボタンをタッチする。
「東郷監督、お疲れ様。試合、良かったよ。終わったばかりで悪いが、私の執務室に寄ってくれないか。」
「シュタイナー会長。」ブラオミュンヘンの会長だ。
「いいね、必ず立ち寄ってくれ。」
「わかりました。」
今日は土曜で、夕方までの試合だった。今、午後6時を回った。
ドイツでは、午後4:30~5:00には皆仕事を終える。
シュタイヤ―会長が、土曜日且つ、この時間まで執務室にいることは珍しい。
そして、試合後は選手はもとより監督の私もかなり疲労する。
通常ありえない、試合後の私を呼ぶことが、重要かつ早急な案件を予想させた。
小さく波立つような不安を抑えながら、私は、スタジアムから車を回し、ブラオミュンヘン事務所の会長執務室に向かった。
ブラオミュンヘンのロゴの入った、ビルの駐車場に車を停め、建物の中に急ぐ。
「会長、東郷です。」私は、ドアのをノックし中に入った。
「よく来てくれた。試合が終わったばかりなのに申し訳ない。楽にしてくれ。」
私はソファに促された。
「東郷監督、君に、今後のチームのことを相談したい。」
「何なりと。」
「君も承知の通り、パンデミック禍にありながら、サッカーで収益を上げていくのはなかなか困難なことだ。
観客をまだ入れることが出来ない。つまりチケットの収益が今春からゼロだ。
無観客試合でも、これまで例年の半分しか試合が出来ていない。
しかも、秋冬以降また試合が出来なくなる可能性がある。
今後3年間で、赤字が150億円が出るだろうと会計課から連絡があった。」
「150億円…ですか。」
「来年2021年末までは通常生活には戻れないと言うのが、世界の疫学者たちの見解だ。
試合は2022年春から開始されたとしても、すぐに観客が戻るかどうか。ブラオミュンヘンは海外からのファンも多い。航空会社各社の予想だと、2019年以前に戻るのは2024年だと言う。」
私も同様に予想していたので、シュタイナー会長の言葉には別段驚きはない。
ただ、黙して彼の言葉を聞いていた。
「監督、ブラオミュンヘンには資金提供先が必要になった。」
「倒産の危機があると言うことですか?」
「まだ持ちこたえている。でも、経営者として今、何らかの対策が必要なことは確かだ。」
「ごもっともです。」
「タカールの油田会社、タビア・オイルが我々に興味を示している。」
「タカール。次のW杯の国ですね。」
「そうだ。」
「タビア・オイルの社長がブラオミュンヘンのファンだ。このオイルマネーがあれば、我々は危機を免れる。
ブラオミュンヘンの幹部会で、タビアオイルとの業務提携を提案するつもりだ。君にも賛成してもらいたい。」
「会長のお望みであれば、私には是非もありません。」
「しかし、タカールは我々の価値観とは違う世界を生きている。
かの国では、LGBTは5年以上の懲役から終身刑が適用される。
東郷監督…、私が何を言おうとしているか分かるね。」
「会長…。」
「東郷監督、君は2部リーグだったブラオミュンヘンを1部に押し上げ、ドイツでも有数の強豪に育ててくれた。私は君にとても感謝している。
その君に、再びブラオミュンヘンを救って欲しい。
君の国の言葉で言うと、”アタマをサゲル?かい。助けて欲しいのだ。
ブラオミュンヘンは、今存亡の危機だ。タビア・オイルの資金力が我々には必要だ。その”障壁”を取り除いてほしい。」
「障壁?…」
シュタイヤー会長は、間を置き、重い口を開いた。
「パリバレエ団の、」
「…私の、パートナーのことですか…。」
「そうだ。」
「ミチノセ氏は、世界的な才能のある美しい若者だ。彼はW杯の日本のアンバサダーに就任したそうだね。彼もLBGTでは都合が悪いわけだ。」
「会長!」私は珍しく感情が先走りした。
「東郷監督、その大事な彼が刑務所にぶち込まれても良いのか。」
「刑務所?」
「ミチノセ氏はアンバサダーとして、時期が来ればタカールに渡航することになるだろう?
タカールは気を付けた方が良い。LGBTの外国人2人が、タカールに旅行し、刑務所にぶち込まれたことがある。3年も経った今、まだ解放されていない。
問題行動を起こしたわけではない、ただ同性の夫婦だと言うことがホテルチェックインでバレたのだ。」
「東郷監督、言っておくが、くれぐれも君が監督を辞任することで解決するとは思わないで欲しい。」
シュタイナー会長は私の心中を読んだ。
「ブラオミュンヘンは、君が心血注いで育てチームだ。だが、チームにはチームの運営や沢山の選手やスタッフの生活がある。彼らを路頭に迷わせることだけはしないで欲しい。」
何と言うことだ…。
私が犠牲になるのはまだいい。
ブラオミュンヘンの選手や、結が犠牲になるのは耐えられない。
私はフライブルクの家に帰宅した。ジップも庭師ももうおらず、屋敷は暗かった。
猫がどこかにいるはずだが、出て来なかった。
私は、食事もせず、迷い続けた。ベッドに行かないまま、朝が来た。
翌日も、その翌日も、ただ、ブラオミュンヘン・トレーニング場と自宅を行き来しながら、迷っていた。
「東郷監督、次の週末の試合までに、回答が欲しい。」シュタイナー会長は私に最後通告して来た。
明日試合だと言う夜、結に電話をすることにした。
電話して、何をどう言うのだ?…。
今、夜中の12時。明日試合がある場合、私はこんな時間まで起きていない。
7時間の時差があるため、結が起きるであろう、日本の朝7時まで待った。
結に電話をかけた。
私は迷っているのに、結の電話はすぐに着信した。
「東郷さん!」結の弾む声がした。
「結、少し話がしたい。いいかい?」
「うん。東郷さん元気?猫も?」結の声はまだ甘い響きを含んでいた。
「ああ、結も変わりないかい?」
「うん、昨日ちょっと良いことがあったんだ。」
「何だい?」
「僕、オンラインで、バレエの魅力を紹介する番組のナビゲーターをしたんだ。僕の演目、『ロミオとジュリエット』のことをしゃべったよ。チャット形式で視聴者の皆さんがコメント書いてくれるんだ。日本からパリまで見に来てくれたファンが沢山いたんだ。今でも変わらず応援しています!って。すごくうれしかった。うれしくて、うれしくて…涙が出た。聞いてる東郷さん?」
「聞いているよ。良かったな、結。君は…やはり天性のバレエダンサーだ。何ものにも代えられない…。」
「もちろんだよ!」
結の嬉しそうな様子が目に浮かぶ。
結は、やはりバレエの世界で生きるべきだ。それしかない…。
私は、決断した。
「結、提案なんだが…、」
「何?どうしたの、東郷さん今日何だか変。何かあった?」
「結…、私たちは、別れなければならないかもしれない。」
「えっ?」
「このままだと、結も私も仕事と言うか、生きて行く上で支障が出る。」
「何?いきなり…。」
「ブラオミュンヘンが、タカールの企業から経済的支援を受けるかもしれない。」私は公開前の機密情報を結に漏らした。
「タカールはLGBT禁止の国だ。結もタカールW杯の広告の仕事をする。もう私たちは付き合うことが不可能かもしれない。」
「何言っているの、東郷さん!?正気?!」
「私たちふたりだけで生きて行けるなら、それは可能かもしれない。しかし、君の周りにも結のために沢山の人が働いているだろう。私の周囲にもまた。私たちは残念ながら、お互い身体一つで存在しているのではない。」
「東郷さん…。」
私はなるべく、優しく言った。
「結、君は若く輝かしい未来がある。パンデミック後には更に大きな名誉と名声を手にするだろう。いずれ…、私より素晴らしいパートナーも現れる。19歳も年上の私は、君にはやはり不釣り合いだった。」
「いやだっ!聞きたくない、もう聞きたくない!その言葉、今すぐ取り消して!嫌いっ東郷さん!大嫌い!僕が東郷さんがいなければ生きていけないのを知っているくせに!嫌いっ!」
「ごめん、結。君を愛していた。今でも。君の幸せを願っている…。」
私は、悲鳴のような結の声に耐えられなくなり、脱力して受話器を落とした。
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