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ロミオとジュリエット 66
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結が、いる。
結が目の前にいる。
あれほど焦がれた結が。
別れを告げた後も、私は苦しみ続けた。幾日も、幾日も…。
「まあ、王子様のお越しよ。」
三井外務大臣が私のそばで言った。
何と言っていいのか迷い立ち尽くす私に、結の方から近付いて来た。
「道ノ瀬結です。パリバレエ団でバレエをしております。」本物の王子の様にゆったりと話しかけて来た。
結は、グレーのスーツを着ている。シルクなのだろう。結が動くたび微かに繊維がきらめく。
私はこのスーツを知らない。私の知らない服を着た結がいた。髪を撫でつけて大人びた感じがした。
「御高名な方なので存じ上げております。ブラオミュンヘンの東郷です。お目にかかれて光栄です…。」
「本日は、国民名誉杯の受賞おめでとうございます。」結は、ただ優雅にほほ笑んだ。
「ありがとうございます…。」
「僕、サッカー好きなんです。パリの自宅で、時々試合を見ています。」結は、頬を上気させて言った。
あの時と似ている。
3年前、結と初めて会った夜だ。
パーティで、こんな出会いだった。
あの時も、結から声をかけてくれた。
「嬉しいです。道ノ瀬さんにそう仰っていただけて…。」
パーティでは感染を避けて、会食はなかったが、ドリンクのみ許されていた。
結が現れたことで、会場のホテルマンが結に、飲み物の種類を聞いて来た。
「オレンジジュースをお願いいたします。」結は言った。
「東郷監督、代わりのお飲み物をお持ちしましょう。ビンテージワインもご用意できます。何がよろしいですか。」
ホテルマンが聞いた。
「では、ノンアルコールワインをください。」
「お酒は召し上がらないのですか?」結が言った。
あの時と同じだ…。かわす言葉のひとつひとつが、あの夜にダブる。
結と初めて会ったあの時がよみがえり、大勢いるのにもかかわらず熱い感慨がこみ上げて来た。
私に、ノンアルコールワインが注がれ、結のグラスとカチリを乾杯した。
「まあ、おふたりともとても素敵ね。国民名誉杯の東郷監督と、W杯アンバサダーの道ノ瀬さん。またお写真いただこうかしら。」
三井大臣が再度スマホで写真を撮り出すと、周囲にいた招待客たちも携帯で私と結を並べて写真を撮り始めた。
携帯のシャッター音の嵐の向こうに、五代がいる。
五代は、すべての感情をその鉄面皮の下に隠している。
五代の他にも、この会場にいる政府関係者の中には、私と結がかつて恋愛関係であったことを知る人間がいるはずだ。
結は、記憶を失っている。
マネージャーの楠本氏は、日本政府が”それを好都合”と、とらえていると言った。
私は、さらし者だ。
それを楽しんでいる輩がこの会場にいる。
三井大臣は知らないのか。
知っているはずの磯崎首相は、今私が見える範囲にはいない。早々と退席したか。
「ではこの辺りで。」結と一緒に来たスーツの男性がそう言った。この男性は誰だろう。
楠本氏はどうしたのであろう。
仕事の時はいつも一緒のはずの、マネージャー楠本氏の姿がない。
結は、私に深く一礼した。そのしなやかな体つきはあまりに私の記憶に焼き付いている。
結は、踵(きびす)を返して行った。
結が、歩きながら、わずかに私の方を振り返った。
すぐに、先程のスーツ姿の男性が結を促し去らせようとする。
もう一度、何かを思い出すように、結が振り返った。
不思議そうに、確かめるように、私を見ようとする。
結!?…。
結!私を覚えているのか?!
しかし、それきりだった。
結は、同行者たちと楽し気に二言三言言葉を交わして行ってしまった。
結…。
やはり結の記憶は戻っていない。もう戻らないのかもしれない。
翌朝、私は宿泊するホテルでルームサービスの朝食の後、コーヒーを飲みながら新聞を見ていた。 私が載っているので、ホテルが新聞各紙を集めて持って来てくれた。
「全誌1面に載っていますね、監督。」五代が言った。五代がそばにいる。
国民名誉杯受賞の自分の写真を、私は苦い思いで見ていた。
その時、テーブル上に置かれた、五代の携帯が振動する音がした。
「はい五代です。」
「なんだ、あの東郷と言う男は!」
いきなりの怒鳴り声に、五代がスマホを耳から離した。
「葬式みたいなかっこして来て。国民名誉杯を授与してやったのに、終始仏頂面して嬉しそうな顔ひとつ見せない。誠にけしからん! しかも、今朝の新聞に載ったのは、首相でなく、東郷と道ノ瀬の2人の写真だ。各紙みんなそうだ。 いいか、五代さん。大事なのは首相と東郷監督の和やかな写真だ。報道陣にもう一度撮らせる。 首相は、3日後の昼食会に東郷監督を呼ぶと言っている。監督に話をつけて来るように。」
「しかし、局長。東郷監督にもスケジュールの都合があります。さすがにそんな急なお申し出は、」
「五代さん、必ず監督を連れて来るように!」
ブチっと通話が切られる音が、私にも聞こえた。
五代は、ため息をついてスマホの通話終了ボタンを押した。
「ご説明しなくても、十分聞こえましたよね。」
「無理です。私には3日後試合があります。明日の飛行機でドイツに戻ります。」
「東郷監督、御無理は承知の上で申し上げています。」
「首相の申し出なら何でも叶うと、勘違いしないでいただきたい。」
「道ノ瀬氏のことをお怒りでしょうか?信じてください。道ノ瀬氏が来賓するとは、予定になかったことです。少なくとも私には知らされていませんでした。」
「道ノ瀬氏のことしかり、昼食会しかり、あなた方政府のすることは、めちゃくちゃだ。」
人を何だと思っている!
私と結を別れさせ、結の記憶を失わせ、私の父を死に追いやった。
その私に国民名誉杯をやるから日本に来い、昼食会に出ろと言う。
ふざけるなと言いたい。
だが、ブラオミュンヘンを人質に取られている私は、耐えるしかないのか。
「3日後、首相昼食会で官邸にご一緒に参ります。ブラオミュンヘンに次の試合は出られないとご連絡ください。」
「五代さん、あなたには、ブラオミュンヘンが私にとってどれほど大事なものか分かっていない!」
「監督、申し訳ありません。私は政府のために職務を遂行するのみです。でもあなたを守りたいという気持ちは十分あります。それでお許しいただけませんか。」
「困ります。私はブラオミュンヘンの監督です。急きょ日本の首相の昼食会に呼ばれたからって試合を休むわけにはいきません。」
当たり前だ。
サッカーの試合スケジュールにまで介入して来るのか。
冗談ではない。
「大変申し訳ありませんが、監督がブラオミュンヘンを守りたければ、私といるよりほか有りません。」
「私は、使い出のある資産と言うわけか。」私は、国民名誉杯と言う飾りを付けられた奴隷だ。
「日本政府はあなたが協力してくれる限り、悪い様にはしません。そして、私はあなたに惹かれています。それは偽りではありません。現に私は、道ノ瀬氏の登場にショックを受けました。三井大臣が知らずに道ノ瀬氏をお呼びしたのだとは思いますが。」
「顔色ひとつ変えなかったあなたが?」
五代は、困ったように少し笑った。
「職務上、有事にも冷静に対応できるよう努めています。監督と同じです。でも、私にも心配事はあります。あなたは、道ノ瀬氏を慈しむような目でご覧になっていた。彼はアイドルの様に愛らしくて、何度でもあなたの心を奪いそうな気がします。」
「五代さん…、あなたはこの日本と言うシステムに順応し、その中で勝者になろうとする。あなたはそれで満足ですか?」
「監督ともあろう方が、”青い”ですよ。
私は、自分を捨てて得を取ったのです。言いたいことを言っていれば地位も失います。自分を捨て自分の居場所を得るのです。何が正義かではなく国の利益のために働くのが私の職務です。たとえそれが戦争だとしても。」
「五代さん、あなたには上司が沢山いて、若いあなたは自分を殺さねば生きていけないのでしょう。国家権力の中で生きようとする古いタイプの人間が多ければ多いほど、現在の仕組みが残る。国家権力は家父長制の産物です。
日本の経済が傾いたのも、私や道ノ瀬氏の様に性的差別を受けるのも、古いタイプの政官財の権力者が多いからです。私はそう言う社会になじめない。W杯で巨額利益を日本に持ち帰れるか否かは戦争だと、あなたは言った。外交官として世界を知っているあなたがそのような旧態依然とした考えで、世界で勝ち残れるとお思いですか。」
「監督、残念ながらここは日本です。3日後の昼食会では、首相を怒らせないようにお願いします。正直私は、監督を心配しております。国家権力を甘く見てはいけません。
監督、あなたが国の政策に従わない場合、更に厳しい措置が取られます。」
また圧力か。
「道ノ瀬氏には、彼が子供の頃からのマネージャーがいらしたでしょう。」五代はふいに私に言った。
「楠本氏のことですか?そう言うえば、今回姿が見えなかったが。」
「彼は、道ノ瀬氏の記憶障害のことを東郷監督あなたに話したでしょう?それで更迭されたのです。」
私は、耳を疑った。
更迭したのはパリバレエ団でも、そこへ追い詰めたのは日本政府だろう。
結は、マネージメントからスケジュール調整、送迎のすべてしてくれる楠本氏がいなければ、非常に困るはずだ。
楠本氏は、どんなことからも結をかばってくれる。
腹心を失った状態で、結はアンバサダーをさせられているのか。
「厳しい措置がこれ以上広がらないようにしてください。あなたのお母上や、妹さまたちにまで。」
「何だって?!」
「お願いです、ブラオミュンヘンに試合を休むとご連絡ください。」
「お願いです…。」
五代は、消え入るような声で言った。
たかが昼食会に出るために、試合を欠席しろと言うのか。監督になって父の忌引き以外、試合を休んだことは一度もない。
父が亡くなったことを知った時も、ピッチに立っていた。
私は、ドイツで監督として生きるために血のにじむような努力をして来たのではないか。
19歳で大怪我し選手生命を絶たれた。その後、選手やファン、本当に多くの人に助けられて来た。
才能ある選手たちが死に物狂いで闘う試合。それを私が指揮しなくてどうする。
私は、テーブルの上にあるスマホに手を伸ばした。
アドレス帳から、ブラオミュンヘン事務所の電話番号を探し出す。
ブラオミュンヘンとシュタイナー会長に連絡しなければならない。
「そうか、わかった。」私の電話に、シュタイナー会長はそれだけ言った。
首相のどうしてもの申し出にあらがえないと思ったのだろうか。
監督の代役には、アシスタントコーチを指名した。
私は電話を切った。五代は私の肩に腕をからめ、私を見つめた。
ゆっくりと私に唇を重ねて来た。
昼食会は、首相、三井外務大臣ら閣僚数人と私、と言う顔ぶれだと言う。
当日、官邸にセッティングされたテーブルウェアに、11時30分に私は着席させられた。
食前酒が提供されても、首相だけが来なかった。
閣僚たちは歓談していたが、首相が一向に来る気配がない。
コース料理とは別の軽いサンドウィッチが出された。
三井大臣が、「首相、遅くていらっしゃるわね。でもいつものことですのよ。」と私を会話に誘うおうとするが、参加する気にもなれない。
私は腕時計を見た。2時を回っている。
「いやあ、遅れて申し訳ない。東郷監督にもお待たせして失礼いたしました。」
2時15分になって磯崎首相が現れた。
「皆さまお集まりで、」
首相が私の隣りに着席して、カメラマンが呼ばれ写真が撮られた。
続いて、スープが提供されたが、側近らしき人物が急に入って来て首相に耳打ちした。
「申し訳ない、ちょっと所用ができまして。これにて失礼いたします。」
首相はものの10分もいなかった。
それきり戻って来ない。
ばかばかしい!
たかが10分のために、私は大事な試合を棒に振ったのか。私はドイツで待つ、選手とファンを大きく裏切ってしまった。
私も、これにて失礼しますと、言いたかった。しかし、部屋の入口の方に五代が立っていた。
立ち上がるなと、目で言っている。
怒りで無言になりながら、送迎の車に乗り込み、私はホテルに帰り、翌日ドイツに向けて飛び立った。
同行している五代は、私の怒りを察してか、話しかけて来なかった。
フランクフルトの空港に降り立った時は、少しほっとした。
入国審査のゲートに並び、ネクタイをしていない首元が寒いので、スカーフを衿の中に巻き付けた。
五代はジャケットを羽織ろうとしているが、機内持ち込み用のショルダーバッグが邪魔なようだ。
バッグを持ってやると、「ありがとうございます。」とにこりと笑った。
後ろ襟がひっくり返っていたので、直してやった。
「監督、何と申しますか…、お母さんみたいですね。」
「選手にも言われます。今朝は何食べた?体を冷やしていないか?夜更かししていないか?選手の健康に気を 配るのも私の役目だから。その選手たちの元にようやく帰って来れた…。」
結の記憶は戻らない。私を見ても結局思い出せないようだった。
結には誠に申し訳ないと思っている。
でも、私のことを忘れて生きて行けるのなら、それはそれで良いのかもしれない。
結とは終わったのだ。
私にあるのは、もはやブラオミュンヘンの選手とファンだけだ。
「すみません。監督にはいろいろ辛い思いをさせてしまいました。」
今度は五代が手を伸ばし、私のスカーフを少し整えた。
続いて、五代は自分のバッグの中を何か探していたが、私は入国審査のカウンターに呼ばれた。
次に私と五代は、手荷物受取所に移動した。
日本からの便なので、いつもなら日本人が多いが何せパンデミックで乗客が10分の1しかいない。
日本人よりもドイツに帰国するドイツ人が多い。機内もドイツ語ばかりが聞こえた。
大柄なドイツ人が、こちらに移動して来る。その中に、青い上着に白いパーカーの若者が見え隠れした。
私は二度見し、目を疑った。
「監督、トランク!」
五代が急いで、私の取り損ねたトランクを降ろしてくれた。
結?
結か?
五代も気づいた。
なぜ結が、ドイツのフランクルフルト空港に?
パリに帰ったのではなかったのか?
東京で見たスーツ姿の男性もいた。楠本さんの代わりのパリバレエ団職員だろうか。
結が、私に気付いた。近付いて来る。
「またお会いしましたね。先日はありがとうございました。」
記憶を失ったまま結は、にこやかに私に話しかけてきた。
「こちらこそ、ありがとうございます。」
「道ノ瀬さん、ドイツにいらしたのですか?パリへお帰りだと思っておりました。」五代が言った。
「ええ、フランクフルトで公演にゲスト出演するのです。」
「監督、サッカーの監督なのでしたね。僕もサッカー好きです。」
結は記憶があいまいで、無邪気な子供のような言い方をした。
「嬉しいです。」私は話を合わせた。
五代へも結は微笑んだ。結が五代を見ている。
その笑顔が、何が起きたのか、みるみる凍り付いた。
「道ノ瀬さん、どうかしましたか?」五代が聞いた。
「その、ポケットチーフ…。」結が、五代のポケットチーフを見ている。
私は結の視線の先を見てギョッとした。
五代の胸にあったポケットチーフ。先ほどまではなかった。バックの中を何か探していたが。
私の締めているスカーフと共布だ。
そうだ、五代が初めての逢瀬の記念にと、私から抜き取っていったものだ。
私は驚き、五代の表情がわずかに強張るのが見えた。
「監督、参りましょう!」五代が私の腕を掴んだ。
「待って!」
「東郷さん!」”東郷監督”でなく、結は以前と同じ呼び方で私を呼んだ。
「どうして、五代さんと一緒にいるの?いつから?!」
「いつからふたりは?!」
結の剣幕に、乗客が皆振り返る。周囲はドイツ人で日本語はわからない。けれどこのただならぬ状況はわかる。
「付き合っているんだね!」
「東郷さん、きっとあなたを奪い返すから!
好き!今でも!好き!大好き!」
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