アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
アンラッキー
-
◇
エンターキーを押しパソコンから顔を上げる。椅子の背に深くもたれて息を吐き出した。長いこと画面に目を凝らしていたせいで視界がしょぼついている。何度か目を瞬いて壁掛けの時計に目を向けた。午後五時を少し過ぎたところだ。
発注確認も終わったし、これでやっと帰れる。慧は凝り固まった肩を交互に揉み解しながら立ち上がった。
「あ、志槻さん。お疲れ様です」
帰り支度を整え、事務所を出たところで安見とすれ違う。
「さっき秋村君が探してましたよ」
「……またですか」
今度はなにをやらかしたのだろう。こめかみを痛めつつ溜め息を吐いた。安見は眼鏡を指先で押し上げ、苦笑する。
「売場作り方に苦戦してました。ほらあの、『夕凪の海』って本。一昨日特番で紹介されたから急遽増注したやつです」
「ああ……」
確か今度映画化するとかいう本だ。売り上げを見込んで百冊ほど平積み販売する予定になっている。
「ポップの書き方も分からないみたいで」
「でしょうね」
軽く頷き、やれやれと小さく首を振った。どうせまだ読んでもいないに違いない。
書店店員の仕事には、大きく分けて二種類ある。一つは体力を使う作業。もう一つは神経を使う作業だ。納品されてきた無数の本を倉庫へ運搬し、売り場に並べるのは前者。とにかく体力勝負で、時に腰を痛める従業員もいる。本は重い。重量ももちろんそうだが、一冊一冊に書き手の魂が篭っているのだ。それを無体に扱うことは決して許されない。できるだけ丁寧に運び、開梱し、陳列する。『純読書店』では一日あたり平均二千冊の新商品が届くため、運搬陳列の作業だけでも相当の体力が必要になる。
その一方で、在庫の確認をしたり、発注をしたり、予約商品の問い合わせ電話を掛けたりと細かい作業もしなければならない。ミスをすれば即クレームに繋がってしまうから、全く気の抜けない作業だ。こういう責任の重い作業は基本的に正社員の仕事で、バイトには振り当てられない。ならバイトの仕事はなにか。
バイトは主に接客と補充を担当する。きつい体力勝負の陳列作業もバイトが率先して行うことが多かった。レジの合間に乱れた陳列を直し、売り場の商品が切れれば倉庫に赴いて在庫を補充する。これが主な仕事だ。けれど、それだけではない。
「秋村君って器用そうなのに、結構字が汚いんですよね……読めないポップじゃ意味ないのに」
安見の苦笑には同意だ。売れ筋商品や、メディアで取り上げられた小説は売り場の中でも目立つ場所に陳列される。その際、店員のお薦めと称して手書きのポップを取り付けるのが通例だ。内容のあらすじであったり、感想であったり、個人の采配にも寄るが、とにかく購買意欲を掻き立てるような文面を考えて商品の近くに張り出す。従業員であれば誰でも書くことができるが、やはりこれもバイトが書くというのが暗黙の了解になりつつあった。若く柔軟な発想を持つバイトにこそ任せられる仕事――と言えば聞こえはいいが、要するに面倒ごとを押しつけているだけかもしれない。
ポップを書くにはその本を読まなければならないからだ。そして正社員として馬車馬のように働いている人間にとって、そんな余計な時間はないらしい。
意外なことに、この『純読書店』に勤める正社員の中で、読書家なのは自分を含めてもほんの数人だ。本が好きで書店に入社しても、仕事に忙殺されて読書から遠ざかる――なんて皮肉なのだろうと多少悲しくもなった。
「少し様子を見てから帰りますよ。秋村君に任せては売れるものも売れなくなりそうだ」
冗談交じりに返すと、安見は可笑しそうに笑った。
「では、お疲れ様でした」
別れの定例句を述べ、売り場へと向かう。エスカレータを下りつつ店内を見下ろすと、問題のバイトはすぐに見つかった。一階の入り口正面にある売り場を前になにやら四苦八苦しているようだ。
「大丈夫ですか?」
山のような段ボール群に埋もれた茶髪頭を見下ろし、声を掛ける。呆れが多分に滲んだのは仕方がないだろう。
「慧さんっ! いいところに来たねっ?」
来たもなにも通り道だ。調子のいい第一声に思わず眉根が寄った。
「人を都合よく使う気ですか君は」
「だぁってさー、原田さんに『これ適当に並べとけ』って丸投げされたんだよ? 適当とか、そんなざっくり言われてもさ、全然分かんないよ」
だとしても少しは自分の頭で考えて欲しいものだ。サッと陳列を見る限り、まるでなっていない。入り口真正面からパッと人目を引くように並べればいいだけなのに、なにをそんなに手間取ることがあるのだろうか。
「とりあえず、ここに並んでいる本たちは移動です。そっちの段ボールを寄こしてください」
「え、ほんとに手伝ってくれるの?」
「……仕方がないでしょう。入り口付近で長々作業していてはお客様の邪魔になります」
完全にサービス残業だが、この程度は苦にもならない。手近な段ボールを取って寄こさせ、今現在平積みになっている本をいったんそこに詰め込んだ。手際よく、後々で並べる場所が近いもの同士を箱に入れていく。
その間、大翔はというと、なにもしていなかった。ただアホみたいに口を開け、こちらの作業を見つめている。これでは手伝っている意味がないではないか。
「なにをしているんですか。君は空いたところに本を並べてください」
呆れと若干の苛立ちをもって命じると、大翔はハッと我に返ったような顔をした。慌てすぎたのか既に並んだ本の山を崩してしまい、「ヤバ……」と呟いてこちらを窺ってくる。
(商品を落とすなよ)
胸中では毒づいたが、いちいち取り合うのも面倒で見てみぬ振りをした。黙々と本を詰め、終わると同時に大翔の作業を手伝う。ものの十分足らずで売り場作りは終了した。
「すげー。あっという間だ……」
「君が時間を掛けすぎなんですよ……。ほら、さっさと後片付けしてください」
呑気に感心する大翔を軽く睨みつけ、てきぱきと指示を飛ばす。中身の詰まった重い段ボールを台車に積ませ、従業員用のエレベーターで二階へと運ばせた。自分は空いた段ボールと細かなごみを一つにまとめて店の裏口へと運ぶ。
まだまだやることは山積みだ。
いささか疲労しながらエスカレーターで二階へ上がる。こちらが指示したとおり、大翔は先ほど詰めたばかりの本を段ボールから取り出し、著者と出版社別に棚へ陳列しなおしていた。だが、よく見ればかなり間違っている。
「なにこれ、どこ?」
「それは隣の棚です。S―3。これはS―5」
「ってか、よく覚えてるね? 生き字引?」
大翔は本を受け取りながら苦笑した。否定はしない。
「まあ、長く働いていますからね」
この店の棚については、自分の家の書棚よりも詳細に把握している自信があった。
「かっけぇー」
「人を茶化す暇があるなら働いてください」
自分は完全にボランティア作業だというのに、この男はちゃっかり自給千百五十円を懐に納めるのだ。その程度のことに腹を立てるほど狭量ではないが、〝責務〟という言葉を多少は理解して欲しいと思う。
これはれっきとした仕事で、遊びではないのだから。
そう言うと、大翔はなにやらむず痒そうに微笑み、後は黙々と本を棚に突っ込んでいった。少々雑な手つきが気になるが、細かい男だと思われるのも癪なのでいちいち口にするのは控えた。なにはともあれ、まともに仕事をしてくれればそれでいいのだ。
三箱分の段ボールを空にし、小さく折りたたみながら隣の棚を覗き込む。大翔に振り与えたのはたった一箱だが、やはり慣れていないせいかペースが遅い。
「そっち、終わりましたか?」
「うん、あと三冊」
「終わったら事務所に来てください」
「りょーかーい」
軽薄な返答を聞き流し、畳んだ段ボールを片手に事務所へと向かう。
「あれ、志槻さん? まだいらっしゃったんですか」
休憩中だったらしい安見にそう言われ、結局戻ってきてしまったのだと気づいて溜め息が漏れた。
「思っていた以上に手間取っていましてね。放っておくわけにもいかなかったんですよ」
「……志槻さんって、なんだかんだで新人に優しいですよね」
苦笑なのか愛想笑いなのか、安見が微笑する。
(優しい? 俺が?)
価値もないような、てんで的外れな評価にこちらも苦笑を返した。
「そんなことはありませんよ」
本当に、そんなことはない。優しいという漢字は〝人を憂う〟と書く。だが自分には他人を思って一喜一憂できるような繊細な感情はないのだ。本心をぶちまけるなら、他人のことなど心底どうでもいい。
だがそれでは仕事をする上でなにかと支障をきたすため、せめて優しい振りをするくらいの処世術は身につけてきた。
こんな偽りの優しさを、人は〝偽善〟と呼ぶのではなかったか。
「またまたぁ。そんな謙遜しなくていいのに」
冷やかすような言葉は背後から聞こえた。振り向くまでもなく、大翔の発言だと知れる。
「終わったんですか」
「うん。合ってるか分かんないけど、とりあえず適当に突っ込んできたよ」
「……そうですか」
このバイトに〝正確さ〟と〝迅速さ〟は期待できそうもない。慧は偏頭痛を溜め息でやり過ごし、自分のデスクについた。安見は真向かいの席から楽しそうな視線を向けてくる。
「で? オレ、なにすればいいの?」
「ポップですよ。ね? 志槻さん」
安見が大翔に言い、こちらに確認を取る。頷くと同時に大翔が顔を歪めた。
「えー。オレ、あれ超苦手なんだよね。なに書けばいいのか分かんない」
「それ以前に、君は『夕凪の海』を読んだんですか?」
「うん、結構前に読んだよ。でもなあ……あんま内容覚えてないし」
大翔はまたしても断りなく隣の椅子に腰を下ろし、デスクに頬杖をついて嘆きを吐露する。
「ならもう一回読めばいいんじゃないですか? ポップなら明日でもいいでしょうし……いいですよね?」
安見はこちらに視線を向け、どうかと問い掛けてきた。もちろん、問題はない。が……。
「めんどくさいよ、そんなのー」
大翔は机に突っ伏して駄々をこねる。
「ってかさー、オレ、小説の映像化ってほんと嫌いなんだよね。だってさ、小説って文字だけじゃん?」
「当たり前でしょう」
なにを愚かしい。思わず失笑すると、大翔はガバリと顔を上げた。
「文字だけだから、想像できるわけじゃん。読んだ人によってその想像も違ってさぁ。それが面白いのに、映像化なんてしちゃったらイメージが固定されちゃうじゃん。しかもそれがさ、自分のイメージと違ったらガッカリするよね?」
「ああ、確かに。それは私も嫌かも」
大翔の言い分に、安見が同意する。口には出さないが自分も同意見だった。
「でしょっ?」
肯定を得た大翔は活気づき、ただでさえ滑らかな口をさらに饒舌にしていく。
「本はもっと個人的な世界でいいんだよ。自分だけのイメージで、その世界にのめりこめばいいんだって。文字だけなのは、そのためでしょ」
わざわざ映像化する意味が分からない、と大翔は鼻息荒くまくし立てる。
少なからず、いや、多分に驚いた。まさか自分と同じようなことを考える人間がいようとは。
小説は世界。この現実世界とは完全に切り離された場所にある、崇高なフィクション。そこにのめりこみ、束の間、スリルと幸福を共感できればいい。心が沸き立つような一文に出会えさえすれば、ただそれだけでその本には価値があるのだ。白い紙に無機質な黒い文字が並んでいるだけの世界が、どれだけ愛と救いに満ちているか。
自分が恋愛ドラマを嫌煙する理由の一端を、大翔がつまびらかにしてくれたような気がする。映像ではダメなのだ。あれはあくまでも現実世界の延長線上にある。役者が迫真の演技をすればするほど冷めてしまうのは、それがリアルだからだ。
リアルな世界に愛はない。救いもない。それを知っている自分にとって、映画やドラマは無価値も同然だったのかもしれない。
「……君も意外と面白いこと言いますね」
なおも持論を含んだ熱弁を垂れる大翔を、素直に賞賛したくなった。大翔は驚いたように言葉を止め、こちらを見て目を丸くする。
「え、オレの話、面白かった?」
「ええ、多少は」
頷いてやると、大翔は飼い主に褒められた犬のような顔つきではにかんだ。こういう、喜怒哀楽がそのまま顔に出るタイプは本来苦手なのだが、大翔に限っては好ましく思える。こいつはこのままでいいとすら思った。
愚直なまでに素直で。ほんの少し羨ましい。
「ですが、ポップはきちんと書いてください。君の仕事でしょう?」
「うえー。ほんっと厳しいよね」
きっぱり命じると、大翔は再びデスクに突っ伏した。それを見て安見が小さく吹き出す。
「さっきの話を、ポップにしちゃえばいいんじゃないですか?」
「……ん? なにそれ、どういうこと?」
「『映像に惑わされるな。文字で感じろ』みたいな内容だったら、インパクトあるかなって」
「うわっ! それいいかも」
たおやかな微笑みを見せた安見の提案に、大翔は俄然やる気を見せて食いついた。
「案としては悪くないと思いますよ」
こちらとしては、本が売れてくれればいいのだ。あまり過激に映像化を批判するのはマズイが、そうでなければいくらでも書きようはある。
「なんて書こうかなー」
大翔はシャープペンをクルクル弄り回しながら宙を仰いだ。二分ほどそうして唸り、やおら猛然とデスクに覆いかぶさる。下書き用の紙に殴り書きした煽り文句は『ラストチャンス! 映画を観る前に読むべし! きっと想像と違うはず。どっちが好きかはあなた次第!』――だいぶ字が汚いが読めないことはない。
それにしても、なんというか。
「直球ですね」
「ダメ?」
ダメ、ではないが。
「うーん、もうちょっと捻りが欲しいですね」
安見も微かに眉をひそめて唸る。同感だ。
「ええー……。難しいよー。『文章に勝る映像なし』とかは?」
「あー、うん。そっちの方がいいかも」
「そ? んじゃあ……」
大翔は書いたばかりの紙を丸めて新しい用紙を手に取った。なんだかんだ文句を言っていたが、こうしているのは楽しそうに見える。
結局小一時間ほど費やし、十枚近くの用紙を無駄にした後で、大翔はなんとかポップを完成させた。煽り文句は『映画を観る前に。この本を読まなかったこと、後悔したいですか?』と言う、原型があるのかないのか判然としないものになった。ただ、インパクトだけは絶大だ。
「できたっ! これ売り場に貼り出せばいいんだよね?」
「ええ。お疲れ様です」
大翔にしては上出来の文字で書き上げられたポップを一瞥し、感慨も込めずに言う。迂闊に褒めるとどこまでも調子に乗るタイプだと理解しているからだ。
「では、私はこれで上がります。お疲れ様でした」
とにかくこれでやっと帰れる。内心やれやれと首を振りながら立ち上がった。
「あ、はーい。お疲れ様でーす」
「え、帰っちゃうの?」
安見と大翔が顔を上げ、正反対の反応をする。当然、大翔の言葉は無視した。
「待ってよ、オレも売り場戻るから」
完成したポップを大事そうに抱え、大翔が自分の後ろを追ってくる。ちょろちょろと。本当に鬱陶しい奴だ。
「まさか、貼り出しまで手伝えとか言いませんよね?」
「あ、バレた?」
「……」
呆れて物も言えない、なんて言葉を体感する日が来るとは思っていなかった。じろりと鋭く睨みつけ、顔を背けて早足で歩く。
「そんな怒んないでよー」
大翔はどういう神経なのかヘラヘラと笑いながら後をついてきた。怒ってなどいない。振りをしただけだ。大翔もそれを見抜いているのだろう。始終楽しげな笑みを崩さないバイトに内心舌打ちしながらエスカレーターを降りた。先ほど作ったばかりの売り場に直行する。
「貼るなら目立つとこだよね?」
「当然でしょう。せっかく作ってもお客様の目に留まらないのでは意味がありません」
そんな分かりきったことを、敢えて訊ねてくる人間は心底面倒くさい。適当にいなし、一分もかけずにポップを張り出した。
「……なんか感動」
大翔は売り場を俯瞰し、口元を綻ばせた。そういえば、このバイトが売り場を一から作り上げたのは初めてだったかもしれない。
「まあ、君にしては上出来ですね」
「ほんと? ……まあでも、ほとんど慧さんが手伝ってくれたし、オレ一人じゃ今でも終わってないと思う」
一瞬目を輝かせた大翔は、すぐさまそれを伏せ、意外にも殊勝なことを言い出した。分かっているのなら問題ない。大翔がこちらを見つめ、照れたようにはにかむ。
「ほんとありがとね、慧さん」
「……別に、仕事ですから」
真っ直ぐすぎる言葉は苦手だ。思わず突き放すような言い方になった。それでも大翔は嬉しそうに笑う。
なにがそんなに楽しいのだと眉をひそめ、大翔から目を逸らした。それと同時に入り口の自動ドアがスライドし、小気味良い入店チャイムが鳴り響く。つい癖で腕時計を確かめると、午後六時半だった。ちょうど、これから混み合う時間だ。
「ではお先に失礼します。頑張ってください」
邪魔になる前に退散しようと決め、半身で大翔を振り返って言う。大翔は口元を綻ばせたまま頷いて、小さく手を振ってきた。まったく、どこまでも子供じみた奴だ。
人々の行き交う自動ドアを抜け、外へ一歩踏み出しかけた。一瞬立ち止まってしまったたのは、チリッとうなじに嫌な予感が走ったからだ。
(今の子……なにか持ってたな)
すれ違った客を無意識に振り返る。気にかかったのは一組の親子連れだ。よくいるヤンキー風の母親と連れ立った四、五歳くらいの女の子が手になにかを持っていた。恐らく、ファストフード店などでテイクアウトにしたドリンクのカップだ。
当然と言えば当然だが、店内への飲食物の持ち込みは厳禁だ。入り口のドアにもそうした旨の貼り紙をしてある。だが母親は携帯の画面に夢中でその張り紙に気づいた様子がなかった。娘の方はなにやら上機嫌でドリンクのカップを振っている。微かに氷が擦れる音がするから、中身が入っているのは明白だ。
店の中でぶちまけられでもしたら堪ったものではない。
慧は顔をしかめ、一拍ほど迷った。自分はもう店員の格好をしていないし、いきなり注意すると面倒なことになりそうな客だったからだ。けれどそんな保身は本当に一瞬で、すぐさま踵を返す。だが。
嫌な予感というのは高確率で当たるものだ。
「お客様――」
少女がなにかにつまずいて体勢を崩したのと、こちらが口を開きかけたのはほとんど同時だった。少女の手からカップが離れ、空中に弧を描く。
全てががスローモーションのように映った。
マズイ。そう思った瞬間にはもう、遅すぎる。ビタンッ――というような音を立てて、少女が床に倒れこんだ。間髪いれずけたたましい泣き声が響く。
「わっ、冷たぁっ!」
例の売り場でポップの位置を直していたのだろう。ちょうどしゃがんで入り口に背を向けていた大翔に、飛散したドリンクの中身が掛かる。
「え、な、なに……?」
唖然と大翔が入り口側を振り向いた後、数秒ほど誰も動かなかった。
(なんてことをしてくれるんだ……)
慧は絶句しつつ胸中で嘆く。中身はコーラかなにかだったらしい。大翔の背中も、せっかく作ったばかりの売り場もかなり悲惨なことになっていた。
最悪にも程がある。
「あ、あんたなにやってんだよっ?」
色を失くした母親の怒声が聞こえたことで、ようやく周囲が我に返った。
「だ、大丈夫ですか?」
何人かの従業員が集まり、転んだままの少女に声を掛ける。少女は打ちつけた膝が痛いと泣くばかりだ。
「ったくドンくさいんだよ、あんた。あれだけ〝こぼすな〟っつっただろ!」
母親はきつい眦をさらに吊り上げて娘を怒鳴っている。そんなことをする暇があるなら早く泣き止ませて欲しいのだが。
「ってかアタシ、これ弁償しなきゃなんないわけ?」
ドリンクが掛かってしまった売り場の本を顎で示し、母親が顔をしかめる。これにはその場にいた誰もが眉を引きつらせた。
「そんなん、当たり前じゃん……」
ぼそりと、俯いたままの大翔が呟く。気持ちは分からないでもないが、黙っていろ。
「あ? なんか言ったかてめぇっ!」
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。大丈夫ですから、ね?」
いきり立った母親に穏健主義の伊藤なぎさが割って入る。バイトリーダーでもある彼はこうしたトラブルにめっぽう弱く、いつも以上に臆病そうな顔をしていた。
「弁償なんかぜってぇしねぇからなっ! ガキがやったことだろ」
母親は無責任に吐き捨て、舌打ちしながら娘を睨みつける。娘は怯えたように俯いた。
「……ごめんなさい」
舌足らずな言葉だったが、確かにそう聞こえた。
「うるせぇ! 謝ったくらいで許されると思うなよクソガキ!」
母親とは思えない一喝がフロアに響き渡り、他の客までもが怖々とした視線を向けてくる。
このままではマズイ。考えるより先に口が動いた。
「子供の不始末なら、親であるあなたの監督不行き届きということになりますから、当然弁償の義務があると思います」
「はぁ?」
母親は呆気に取られたような顔をして、口をひん曲げた。まともに視線がかち合う。
一触即発の空気に周囲が青褪めているのが分かった。
「なんか文句あんのかよ?」
「ええ。せめて一言くらい謝罪していただきたいものですね」
自分にとっては大した苦労でもなかったが、せっかく作った売り場を台無しにされたのだ。そのことに謝罪を要求する権利くらいはあるだろう。
それに、と慧はこちらの顔色を窺っている大翔を一瞥した。背中一面、びしょ濡れだ。ある意味、一番の被害者は大翔ではないだろうか。
「おい、どうした」
騒ぎに気づいたのだろう、レジにいた原田も眉をひそめて駆けつけてくる。原田は助け起こされた少女と売り場の惨状、それからずぶぬれになった大翔の哀愁漂う姿を順に見つめ、『あーあ、やっちまったか』という顔をした。同情的な視線をこちらに向けてきた原田に、一つ首を振って返す。厄介な客だと伝えたつもりだ。だが――。
強面の原田が登場したことで、母親はサッと顔色を変えた。こちらが怯むほどの速さで頭を下げる。
「す、すんませんっ! アタシがちゃんと見てなかったから」
驚くほど変わり身が早い。殊勝な顔を取り繕う母親に、従業員たちは皆、今にも笑い出しそうな顔をしていた。大翔にいたっては、思いっきり肩を震わせて笑っている。
「いいんですよ。それより、お嬢ちゃんに怪我がなくてよかった」
答える原田も苦笑いだ。予想外の展開ではあるが、事態が収拾したことに誰からともなく安堵の息が漏れた。
「いやもう、マジすんませんした。弁償っていくらすっか?」
「ああ、それは店長と相談させてもらいますわ。ま、一部負担ってことになると思うんで、あまりご心配なく」
原田は如才ない応対をしつつ事務所へと移動していく。去っていく親子から視線を剥がし、大翔に手を伸ばした。
「大丈夫ですか」
「うん……」
力ない声を発し、大翔が自分の手を掴んで立ち上がる。汚れた本を数冊手に取って唇を尖らせた。
「最悪。せっかく頑張ったのに」
「……まあ、仕方がありませんよ。君に非はない」
「でもさ、」
「どちらかと言えば、私の方に非があります」
うっかり吐露した後悔に大翔が目を丸くする。そう。あの時、たった一拍でも保身を考えた。面倒な客に関わりたくない、と。その意識がこの事態を呼び起こしたのだ。
「すみません、私がもっと早く呼び止めていれば」
「いいんだって、そんなの。慧さんが謝ることじゃないし」
大翔は慌てたように両手を振る。
「でもどうしよう、これ……」
自分の背中を振り仰ぎ、溜め息をこぼす。とてもじゃないが仕事を続けられる状態ではなさそうだ。仕方がない。
「君はもう上がってください。私が代わりに入りますから」
「え?」
他に妙案もなく、諦めにも似た心境で言うと、大翔は困惑した笑みを顔に浮かべた。
「帰れってこと? どうやって?」
「どうって、」
要領を得ない問いに目を瞬き、合点がいく。大翔は電車通勤だ。だが今の状態で、この時間の満員電車に乗れるはずもない。タクシーも無理だろう。なら、どうすればいいのか。
二人でしばし沈黙し合う。
「大翔」
聞こえた声に振り向くと、原田が駆け足で戻ってきた。店長に事情を説明し、親子を引き渡してきたのだろう。手にはなぜか大翔の鞄を持っている。
「とりあえず、ここは俺が片付けっからよ。お前、今日はもう帰れ」
大翔に鞄を差し出しながら原田が言う。
「ああ、うん。でも……」
鞄を受け取りつつ、大翔は困ったように目を伏せた。
「あー……その格好じゃ帰れねぇよな」
原田もすぐさま事情を察し、憐れむような目で苦笑する。原田は腕を組み、低く唸った後で、視線をこちらに向けた。
「志槻、お前んちで着替えさせてやれねぇか? 歩いて七、八分だろ?」
「え」
軽い口調でなされた提案に目を見張る。
その手があったか、という思いと、なにを勝手な、とい思いが交錯し、二の句を見つけられない。
「え、で、でもさ、それじゃ慧さんに迷惑じゃんか。……でしょ?」
謙虚な言葉とは裏腹に、大翔が期待するような視線を向けてきた。
(まったくこの馬鹿は……)
素直すぎるというのも欠点になり得るのだと、知らず溜め息が漏れる。
「別に構いませんよ」
元はと言えば自分にも責任の一端があるだけに、断るのも気が引けた。まあ、悪い案ではないし、着替えとシャワーを貸すくらいでグチグチ言うのも大人気ないだろう。
大翔が分かりやすく瞳を輝かせる。
「え、マジで? ほんとにいいの?」
「四の五の言っていないで、さっさと帰りますよ。……後はよろしくお願いします」
「おう。任せとけ」
尻尾があったら猛然と振りまくっていそうな大翔に呆れ、原田に後を任せて店を出る。
「あ、ちょっと待ってよ慧さん」
原田にエプロンを押し付け、慌てたように大翔が追ってきた。こいつと並んで横断歩道を渡るなんて、妙な感じだ。
「慧さんちって、そんな近いんだ」
「ええ。駅から五分圏内ですし、便利な場所にありますよ」
「へぇー、いいなぁ。オレなんか八王子じゃん? 電車で一時間だよ。乗り換えもあるし超めんどい」
大翔は片手を振りながら不平不満を垂れ流す。
「なぜそんな遠くから、わざわざバイトに来ているんですか?」
もっと近場で探せばいいものを。疑念とともに半歩後ろの大翔を振り仰ぐ。大翔は口元に柔らかな笑みを浮かべていた。
「まあ、どのみち撮影はこっちが多いからさ。それに、あのバイトって叔父さんの紹介のだから断れなくって」
すれ違う人々の視線を集めながら、大翔は照れたように微笑む。
「叔父?」
気になる単語を耳にし、首を傾げる。あの店に身内がいるということだろうか?
「うん、原田さん。オレの叔父さんなんだよ」
あっさりと頷いた大翔の言葉に目を剝く。原田?
「嘘でしょう……?」
「いやほんと。あの人、母さんの弟なんだよ。あんま似てないけどね」
大翔はあっけらかんと笑う。開いた口が塞がらなかった。似てないどころの話ではない。一体どんな遺伝ミスがあったら、あの熊とこの青年が血縁者になるのだ。
「……今年一番驚きました」
「うん、そんな顔してる。っていうかそれ、原田さんに失礼だよ?」
「失礼なのは君です」
からかうような声に顔をしかめ、歩調を速めた。責任転嫁は百も承知だ。
人込みをかいくぐり、住宅街へと足を向ける。ほんの一、二本通りを曲がっただけで、街の喧騒は嘘のように遠ざかっていく。
「うう……背中が寒い」
背後から吹き抜ける追い風を受け、大翔が身体を震わせた。九月も後半になると、湿気を含んだ風も一気に冷たさを増す。連日の曇天もすっかり見慣れた。
「じきに着きます。まずはシャワーで温まった方がよさそうですね」
風邪でも引かれたら困る。そう思って口にした言葉に、大翔は破顔一笑した。
「慧さんって、ほんと優しいよね」
「……」
またそれか。否定の言葉を返す気力を削がれ、無言で歩き続けた。そうこうしているうちに自宅マンションが見えてくる。
「え、ここ?」
二十階建てのマンションを見上げ、大翔があんぐりと口を開けた。ここへ来る誰もが、皆似たような反応をする。
「家賃、高そう……」
「そうでもありませんよ」
怖々と後ろについてくる大翔に端的な答えを返しつつ、エントランスをくぐった。慧が三年前から住んでいるマンションは築八年とこの近辺で最も新しい。エントランスも広々としていて、左手には簡易ながらも休憩スペースまで設けられていた。二台の自販機が仲良く並び、ボタンを七色に光らせている。
エレベーターのボタンを押し、小洒落た模様が刻まれた銀色の扉を意味なく見つめた。
「何階なの?」
「十六階です」
「うわ……金持ちだなー」
微苦笑する大翔を斜めに見上げ、視線を逸らす。新築で、高層で、駅近。なのに家賃は八万ぴったりという破格の値段だ。つまり訳アリ物件なのだが、そんなことはどうでもいい。越してから三年、なんの問題も起きていないのだから。
甲高い到着音とともに扉が開いた。中は質素な蛍光色だ。要するに見掛け倒しなのだが、大翔はそれに気づく様子もなく十六階のボタンを押した。
特に話すこともないので、互いに黙ったまま目的の階に到着するのを待つ。狭い箱の中、至近距離で並ぶと甘いコーラの香りが鼻についた。身体に張り付くシャツが気持ち悪いのだろう、大翔はしきりに背中を気にしている。
エレベーターを降り、右の角部屋へと向かった。
「……どうぞ」
扉を開け、大翔を先に中へと通す。
「おじゃましまーす……」
おっかなびっくりといった様子で中を覗き込み、
「ひっろ! てか広すぎじゃん。慧さん、ほんとにここ一人で住んでんの?」
大翔は目を見開いた。
「いいから早く入ってください」
入り口を立ち塞がれるのは迷惑だ。大翔はほんの少し気圧されたような顔をして、すごすごと靴を脱ぐ。
そういえば、寝る目的以外で他人を家に上げたのはこれが初めてだ。そう気づき、我ながらイカレているなと苦笑が漏れた。
玄関からリビングまでは、廊下というほどの距離もない。
「やっぱり、慧さんって綺麗好きなんだね。無駄なものとか、置かない主義?」
「知りませんよそんなこと。荷物はその辺にでも置いてください」
「うん。……うわ、なにこれっ!」
大翔はなおも物珍しそうに周囲を見回し、壁一面の書棚に目を向けて絶叫した。これもまた珍しい反応ではないため放置し、洗面所へ向かう。冷たい水で丁寧に手を洗った。これは慣習だ。この時期に手洗いやうがいを怠ると、必ずと言っていいほど風邪を引く。
ハンカチで手を拭きながらリビングに戻ると、大翔は依然として壁際の書棚に釘付けになっていた。膨大と言ってもいいだろう本の数に絶句しているらしく、あんぐりと口が開きっぱなしだ。
「なに呆けてるんですか。シャワー、浴びるんでしょう?」
「え、ああ、うん……そうだった」
我に返ったらしい大翔が気の抜けた顔でこちらを見た。驚きなのか呆れなのか、大翔はまじまじと自分を見つめてくる。
「なんですか」
痛いほどの視線を真っ向から受け、腕を組む。つい突っかかるような口調になってしまった。
「いや、なんかさ、本が好きなのは知ってたけど、ここまでとは思わなかったから」
「読書馬鹿だとでも?」
得意の冷笑も、大翔相手では効果がない。緩く首を振った大翔が書棚を仰ぎ、どういうわけか満足そうな笑みを浮かべる。
「敵わないなぁって、思っただけ。オレなんか十年かかってもこんなに読めないよ」
読書は好きだけどね、と小さな呟きを加え、大翔は肩を竦めて見せた。だから、なんだと言うのだ。読書量など人それぞれで、敵うとか敵わないとか、そんな勝負事ではないだろうに。
「こんなに読むって、すごいよね。うわ、この本って絶版になったやつじゃんっ! すっげ、オレ読みたかったやつ全部ある!」
大翔は賞賛の言葉とともに書棚を眺め回している。おもちゃ屋ではしゃぐ子供のような大翔に、どういう顔をすればいいのか見当もつかない。結局眉間にシワを刻んで溜め息を零した。
「ねぇ、この本ちょっと借りちゃダメっ?」
ハードカバーの本を両手で突き出し、大翔は無邪気な顔で問い掛けてくる。どうやら当初の目的を完全に忘れているらしい。
「……シャワー、浴びないんですか」
「ああ、うん。浴びる」
溜め息とともに問い掛けると、大翔ははたと目を見張って頷いた。
「風呂はあっちですよ」
浴室の扉を指し示すと大翔は名残惜しそうに本を書棚に戻し、
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
と気軽な言葉を吐いて浴室へと向かった。その後ろ姿を目の端に捉えつつ、ソファに腰を下ろして脱力する。なんだか、おかしなことになったものだ。
ネクタイを解きながら立ち上がり、寝室へと向かう。クローゼットの扉を開いて、しばし迷った。大翔と自分は、悔しいが体格が違う。彼が身につけられそうな衣服を数着手に取ってリビングに戻った。それらをソファに放り投げる。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、シンクにもたれて一口飲んだ。浴室から微かに聞こえる水音が意識の表層を撫でていく。
これから寝るという訳でもないのに、神経が過敏になり始めていた。ここ最近そういったことから遠ざかっているというのも原因の一つだろう。
男にしか興味を持てないと自覚したのは中学の半ば頃だった。見目の良さが異性の気を惹き、ひっきりなしに告白されることが多かった時期だ。何人かとは、気まぐれでセックスもした。だが、それで満たされたことは一度もない。
あの頃から、自分はどこか恋愛ごとに関して達観していたような気がする。ちょうど両親の夫婦仲が悪化し、離婚の話がちょくちょく聞こえていた時期でもあるからだろう。連日連夜の罵り合いを耳にすれば、永遠の愛を誓い合ったはずの夫婦ですら終わりを迎えるのだと冷めた苦笑が漏れた。母の不貞、父の浮気、兄の非行、そして家庭は崩壊――。絆だの愛だの、そんな言葉が虚しく聞こえるような状況は、慧が中学を卒業するまで続いた。
あの頃、唯一自分の居場所と呼べるのは学校だけだった。そこには自分の全てを理解してくれるたった一人の友人がいたのだ。行き場のない苦しみや荒れてひび割れた心を優しく解きほぐすような、芯の通った低い声を、今でも時折思い出す。同い年とは思えないほど逞しい背中を、凛々しく大人びたあの横顔を、ほんの少し心に思い浮かべただけで、胸が締付けられるように痛むのだ。
(朋久(ともひさ)……お前は今、どこでなにをしているんだ?)
久しぶりに心の中でその名を呼ぶ。自分が知っている友人の顔は、十五歳のままで止まっている。ただ、傍にいたい。傍にいて欲しい。それだけで十分だとさえ思った相手は、後にも先にもあの男だけだった。
あれを恋というには、あまりに苦く、苦しいだけのものだったけれど。
(でも俺は……あいつのことが好きだった)
今だからこそ、そんな自分を嘲笑うことができる。家庭のいざこざを目の当たりにし、居場所もなにも見い出だせなかったあの頃の自分は、ちゃんと分かっていたはずなのだ。この世界には永遠と名のつくものは一つもないのだと。絆も、愛情も、友情さえ、いつかは必ず壊れ、消えてしまうものだということを。
分かっていたはずなのに、なぜ期待をしたのだろう。朋久だけは、ずっと自分の傍にいてくれるのではないか、なんて。
『気持ち悪(わり)ぃよな、あんなの』
たった一言、いつものように快活な笑顔であの男が言い放った言葉は、十年経った今でも深く心に突き刺さったままだ。
放課後、屋上から下校する生徒たちを見下ろしていた。意味のある行動じゃなく、ただ朋久となんでもない時間を過ごすのが好きだったのだ。他愛ない会話をするだけで良かった。本当に、それだけで十分救われていたのだ。
屋上からは全てが見渡せた。グラウンドも旧校舎も、正門も、少し顔を上げれば商店街を行き交う人々さえも見下ろせた。潰れかけの映画館も、市民プールの濁った水も、鮮明に覚えている。
たまたまだった。その男たちが目に入ったのは。商店街の端、個人経営の小さな書店から出てきた男たちは、恐らく二十代初めか半ばで、この頃の自分たちにとっては完全な大人だった。
『おい、慧。見ろよあれ』
鼻白んだような、どこか嘲るような声で朋久がその男たちを指差した。目を向けて、ドキリとした。男たちは臆面もなく手を繋いで歩いていたからだ。互いに笑みを交わし合い、肩をぶつけながら歩き去っていく。
二人はどう見ても、友人の域を超えた関係なのだろうと理解できた。
自分も、朋久とあんなふうに歩きたいなんて、ほんの一瞬、思ったかもしれない。けれどそんな想いは、続く朋久の言葉で粉々に砕け散った。
『気持ち悪ぃよな、あんなの』
その言葉は、なにもかもを否定するものだった。もう、ただの友人としてすら、傍にはいられない。そんなことを突きつけられ、慧は呼吸の仕方さえ見失った。心臓が消えてなくなるのではないかと思うほどきつく締め付けられ、全身を巡る血液が凍りつくのを、どこか他人事のように感じていた。
『そう……だな』
あの時、自分はどんな顔をしていただろうか。
『お前も、そう思うよな』
上手く、笑えていただろうか。下らない冗談を笑い飛ばす時のように。
あの日以来、朋久とまともに話すことはなくなった。同じ高校へ行こうという約束も反故にし、両親の離婚が成立したのをきっかけに家を出て、高校では寮生活をした。
中学を卒業するまで、朋久は幾度となく自分に話し掛けてきた。いつもと変わらない優しい声で、屈託ない笑みを浮かべて。その全てが嘘のように思えた。拒絶はいつしか嫌悪にすり替わり、近寄られることすら苦痛になった。
『なんで俺を避けるんだよ』
困惑と苛立ちをぶつけられたこともある。でも、もう二度と信じる気はなかった。そもそも勝手に期待した自分が悪いのだと、あの頃はまだそこまで割り切れていなかったのだ。
あれから十年経った。なのに自分はまだ、あの時のことを引きずったまま生きている。
自分で切り捨てたものの重みを痛感しながら、十年も。
「馬鹿らしいな……」
自嘲を洩らし、ミネラルウォーターのボトルを持ったままソファに腰を下ろした。ガラステーブルの上に放置していた本を開く。今朝方少し読んだままだった。また、恋愛小説だ。こんなものが一体なんの気休めになるのか。我ながら滑稽に思いつつ、文字を追う。
「慧さーん、パンツ貸してくんない? ベタベタしてて履けない」
どのくらい時間が経ったのか、浴室の扉が開いた。腰にバスタオルを巻いただけの大翔が屈託ない笑みを向けてくる。
「パンツ……ですか」
警戒心の欠片もない大翔にげんなりしながら、本にしおりを挟んで立ち上がった。
「新品のなんてありませんけど」
「いいよ、オレそういうの気にしないからさ」
「そうですか」
こちらとしては気にして欲しいところだが、汚れた下着を再び身につけろなどと言うつもりもない。寝室に引っ込み、適当な下着を持って大翔に差し出す。
「ありがと」
本当にまったく気にしていない様子で受け取った大翔が、その場で下着を身につけた。
(デリカシーとか、こいつに期待するだけ無駄だな)
せめて視界に入れないようにするくらいの配慮は持ち合わせているつもりなので、さっさとソファに戻って本の続きを読む。だが、下着を身につけたとはいえほとんど裸に近い状態で大翔がリビングに入ってくると、嫌でも集中力が削がれた。
「あー、さっぱりした。コーラって乾き始めるとベタベタしてほんと気持ち悪いんだよね」
参ったと肩を竦めて笑い、大翔がこちらに歩み寄ってくる。
「オレも水、もらっていい?」
「どうぞ。冷蔵庫にありますよ」
答えながら、ふと視線を向けた。思っていたよりも、悪くない身体つきだ。
大翔は意外にも着痩せするタイプらしい。服の上からでは分からなかったが、かなり引き締まった身体をしている。絹のように滑らかで白い腹筋も、スッと背中に走る溝も、ボトルを傾けて反った喉がゆっくりと上下する様子さえ、まるで一つの芸術品のようだ。洗練された美しさとでも言うべきか。濡れた前髪を全て後ろへ流しているのも、見慣れないせいか色っぽく映る。
大翔の一挙一動を無意識に目で追ってしまい、我に返って顔を背けた。
「あ、着替え用意しといてくれたんだ。これ、着ていいの?」
「ええ。着られそうなもの、適当に着て下さい」
考えていることが顔に出ない性格なのを、今ほど感謝したことはなかった。大翔は決して好みのタイプではないが、それでも意識せずにいられない。自分はそういう性癖なのだ。見目のいい同性には、どうしたって目が向いてしまう。
けれど、それを悟られないだけの処世術は身につけていた。知られてしまえば、どんな嫌悪を向けられるか。嫌というほど知っている。
「慧さんの私服って初めて見たかも」
「そうですか」
大翔はVネックのシャツやチノクロスパンツを興味深そうに広げ、なにやら勝手に感心している。
ゲイだなんて知られたら、きっとこんな風に無警戒な笑顔を見られなくなるだろう。そう考え、待てよ、と自分の思考に半畳を入れた。
(別に、こいつに警戒されたところでなんの問題もないはずだ)
嘲られようが気色悪がられようが、関係ないはずだ。他人はもとよりそういう生き物なのだから。
なのになぜ、それを嫌だと思っているのだろうか。
「あ、やっぱちょっとちっちゃいかも」
「すみませんね。君と違ってタッパがないもので」
らしくもない自分の思考に苛立った結果、思っていたよりきつい口調になった。大翔が驚いたように動きを止め、いつものごとく顔色を窺ってくる。
「ごめん。でも、別に嫌味のつもりで言ったんじゃないよ?」
「……いいから早く着なさい」
裏表なく返されると、却って自分の卑屈さが浮き彫りになったような気がして、思わず視線をそらした。
若干窮屈そうだが、大翔はなんとか衣服を身に着けたようだ。雑な手つきで濡れた髪を拭いながら自分の隣に腰を下ろしてくる。
どうしてこうも近い場所に、臆面もなく陣取ってくるのだ。適切な距離感というものが、この男にはないのだろうか。
まあそれも、自分の性癖を知らないからこそだろうと、慧は顔に出さず自嘲した。
「ドライヤーなら洗面台にあったでしょう。きちんと乾かさないと風邪引きますよ」
「うん……でもちょっとめんどくさい。疲れたし」
ソファにもたれた大翔は、本当に疲れたような顔をしていた。やはり、せっかく作った売り場が台無しにされたのが堪えたのかもしれない。
「あ、そうだ!」
気落ちしているかと思えば、大翔は突然、バネ仕掛けのように身体を起こして立ち上がる。浮き足立った動作で書棚に向かい、一冊の本を手に嬉々として戻って来た。先ほど借りていいかと打診してきたハードカバーの小説だ。
「これ、ずっと読みたかったんだ。絶版になっちゃってて、図書館にもないし、ネットのは高くて買えなくてさぁ。今読んでもいい?」
「別に構いませんが……」
大翔が手にしている本は、確かにネットでプレミアがつくほど希少なものだ。西洋文学として五十年以上も前に流行った冒険小説は全部で二十三巻にも及ぶ。全て揃えるのに丸二年かかった。
「私もそれ、ずいぶん奮発したんです。汚さないでくださいね」
「うん、大丈夫!」
勢いよく頷いた大翔が、早速表紙をめくり始めた。他人の持ち物だという認識はあるようで、その扱いは思いのほか丁寧だ。一ページ、一ページを、慈しむように繰っていく。
それを横目に、慧も読書を再開した。時計の針が微かに鳴るだけの部屋に、二人分の息遣いと紙の擦れる音が混じる。
ふとした拍子に肘先が触れ合い、大翔の体温が伝わってくるたびに、意識が現実世界へと引き戻された。それを煩わしく思わなかったのは、本に俯く大翔の横顔があまりに純粋だったからかもしれない。
大翔も今、現実世界にはいないのだ。文章の海を泳ぎ、自分だけの想像世界に没頭する真剣な横顔に、知らず笑みが零れた。
僅かに肘先を触れ合わせたまま、慧もまた自分だけの世界に引き篭もる。孤独であって、孤独ではないこの時間を、共有しているようで、まったくしていないこの時間を、慧は少しだけ気に入ってしまった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
3 / 10