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過去から続く悪夢
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◇
ドン、という鈍い音がして心臓が縮み上がった。反射的に本から顔を上げ、目を見張る。
『東京の高校受けるってマジかよ?』
自分の机を拳で叩いた朋久は、これまで見たこともないほどに怒っていた。
『……だったらなんだよ』
そんなこと、お前に関係ないだろう。
心底煩わしく思い、本に視線を戻す。冷淡な対応に朋久は息を呑み、平手で本を弾き飛ばした。
『お前、俺と一緒に地元の学校受けるって言ったじゃねぇかっ! 裏切る気かよっ?』
鋭い激昂にも、心は冷めたままだ。
(裏切り……?)
口元が歪な笑みを形どるのを自覚し、俯くついでに本を拾い上げる。
(俺がいつ、お前を裏切った?)
好意を抱いた瞬間からか。傍にいたいと願った瞬間からか。
自分のこの想いが朋久を不快にさせるのなら、確かにそれは裏切りなのかもしれない。
だから。
『もう俺に構わないでくれよ』
『っ……なんで』
拾い上げた本の表紙を撫で、努めて平坦に告げた。傷つき、途方に暮れたような顔をする朋久から目を逸らし、席を立った。
『おい待てよ慧!』
『っ、放せよ!』
咄嗟に掴まれた腕を振り解こうともがく。だが朋久は自分を放そうとはしなかった。骨が軋むほど強く掴まれ、思わず顔を歪める。
『なあ、慧……頼むから、理由を教えてくれよ。なんで俺を避けるんだ』
縋るような声を耳にして、きつく唇を噛み締めた。なにも言うなと自らに言い聞かせ、衝動を押し殺す。
ただひたすら、怖かった。うっかり口を滑らせてしまうことが。この気持ちを悟られてしまうことが。
朋久と一緒にいると自分がひどく惨めに思えて仕方がない。あんな心無い一言に深く傷ついてなお、未だに自分は朋久を特別視している。
東京に行くことを決めたのは、物理的に距離をおきたかったからだ。
そうすればきっと、こんな胸の痛みなど綺麗さっぱり忘れられるだろう。朋久を好きになってしまった愚かな自分のことも、きっと忘れられる。
『慧、なんか言えよ。頼むから――ッ』
今思えば、この真摯な呼び掛けが最後通牒だったのだろう。だが自分は、なにも答えられなかった。
『……もういい。勝手にしろ』
失望したように腕を放され、無言で背中を向けられた。その背を目の当たりにした瞬間、鋭い痛みを胸に感じ、どうしようもなく涙が溢れた。だが朋久はそれに気づくことなく去っていく。
さようならも言い合えない別れを前に、脆い心はあっけなく壊れた。自らの決断が強固であったがゆえに壊れたのだ。
拭った傍から零れ落ちる涙を憎みながら、慧は奥歯を噛み締める。引きちぎられるような感情さえも拒絶し、自分自身を嘲笑う。
(全部俺が悪かったんだ。男の癖に男を好きになったから。友達だったあいつを好きになったから……だけど)
今回限りだ。こんな惨めな思いをするのは。
ゆっくりと凍りついていく自らの心を頼もしく感じながら、慧は静かに瞬いた。最後の雫が頬を伝う。
もう二度と、誰かを想って泣くことなんてしない。他人に期待なんかしない。
もう誰一人、信じてたまるか。
耳障りな電子音を耳にし、浅いまどろみから覚醒した。久しぶりに嫌な夢を見ていたような気がする。
午前七時。今日も仕事だと思い出し、起きて早々、気鬱になった。寝不足で痛む頭を押さえながらなんとかベッドを抜け出す。
熱いシャワーを浴びたはいいが、リビングが冷え切っているせいですぐさま体温が奪われていく。だがどうせ、今からエアコンをつけたところですぐに出掛けるのだ。やせ我慢し、壁に貼り付けてあるカレンダーをめくり取った。今日から暦は二月だ。
(というか、今日で何連勤目だ……? 十四、いや十五か)
もう丸二週間以上、まともな休日にありつけていないことになる。
うんざりしながらネクタイを締め、溜め息とともに玄関へと向かった。
ここ最近、巷で猛威を振るうインフルエンザのせいで従業員たちがバタバタと倒れていた。穴埋めに入れる者は暴君たる朝島の命に従って骨身を削るのが常だ。
だが明日こそは断固として有給を取りたい。その権利はあるはずだと一縷の望みを手に玄関のノブを捻る。
扉を開けた瞬間、ぬっと現れた人影に心臓が止まるかと思った。
「あ、おはよ」
「……脅かさないでくださいよ」
ほのぼのとした笑顔を向けてくる大翔に安堵の息をつく。
「ごめんごめん。チャイム鳴らそうと思ったらちょうどドアが開いたからさぁ」
悪びれた様子もない大翔に小さく呆れ、中に入れた。外はよほど寒いのだろう。大翔の鼻先が真っ赤になっている。
大翔と連れ立ってリビングに戻り、真っ先にエアコンをつけた。
「ココアでいいですか」
ヤカンを火にかけながら振り向く。まだ少しなら時間があるし、せっかく来た大翔を追い返すこともない。
「うん、ありがと。あれ、でも慧さん、今日は休みって言ってなかったっけ?」
スーツ姿の自分をまじまじ見つめ、大翔は首を傾げていた。
「潰れました」
「えー。残念……」
端的に答えると、大翔は悄然と肩を落とす。
「久々に慧さんと古本屋巡りしたかったのに……」
目に見えてがっかりしている大翔に苦笑し、ことさら甘ったるいココアを手渡した。
「スカイツリーにも行きたかったし映画も観みに行きたかったのに……」
大翔はマグカップを両手で包み込みながらなおも落胆している。
悪いことをしたな、などと思っては負けだ。
「仕方がないでしょう。他に代われる人がいなんですから。恨むならインフルエンザを恨んでください」
「……そんなの小学生の時から大っ嫌いだよ」
「ふっ」
むくれながらココアを啜る大翔に思わず笑ってしまった。子供じみた仕草と態度が、どういうわけか可愛くて仕方ない。
意識的に感情を破棄している自分と違い、大翔の表情は本当によく変わる。喜怒哀楽を包み隠さない性分はほんの少し羨ましく、多分に面白い。
「あーあ。デートしたかったなー」
笑ったことへの意趣返しか、大翔が上目遣いで恨めしそうに睨みつけてくる。
これだから大翔といるのは楽しいのだ。失いたくないと思う。最近は特に。
「はいはい。また今度行きましょうね。なんなら電車か飛行機で遠出しますか?」
「えっ! いいのっ? 泊まりっ?」
軽い冗談に見せかけて誘うと、大翔は分かりやすく機嫌を直す。これが犬なら確実に尻尾を振っていることだろう。
「泊まりでもなんでも構いませんよ。サイン会が一段落したらまとめて有給を取りますから」
「やった! じゃあオレ、今日どっかで旅行用のパンフもらってくる!」
飛び上がらんばかりにはしゃぐ大翔を目にすると、笑いが止まらない。
なんだかんだ絆されている気がするが、大翔といるときは素で笑えるのだから不思議だ。
「では私はそろそろ行きますね」
「あ、帰りって何時くらいになる?」
「さぁ……最近は定時で上がれることなんて滅多にありませんから。終わったら電話しますよ」
「うん、じゃあ待ってる。行ってらっしゃい」
上機嫌の大翔に送り出され、知らず笑みを零しながら外に出る。大翔はこのあと軽くシャワーを浴び、一眠りしてから出掛けるのだろう。
大翔は相変わらずモデルの仕事とバイトを忙しく掛け持ち、空き時間には演技レッスンに行くなど、朝から晩まで動き回っている。
こうして朝方突然訪れるのはたいてい徹夜仕事の後なのだと、なにかの折にふと気づいた。
会いたいから会いに来る。それが嘘でも世辞でもない本心なのだと気づいた時、心底呆れつつ、大翔を拒むことをやめた。
会いたいなら、勝手にすればいい。
自分だって大翔といるのは楽しいし、気が休まるのだ。今もたった十分程度顔を合わせ、ほんの少し言葉を交わしただけなのに、先ほどまでの色濃い疲労が消し飛んでいる。
だが、そんな安穏とした時間がいつまで続くか、分からない。
そう思い、ツキリと胸が痛んだ。
自分は大翔と、あとどれくらい一緒にいられるだろうか。
大翔は自分と、いつまで一緒にいてくれるだろうか。
明日には、いや、もしかしたら今日にでも、自分たちの関係は破綻してしまうかもしれない。そう思うと、堪らないほど切なくなった。
永続する関係なんてない。永続する感情もない。大翔はいつか必ず自分に飽きて、もとある場所へ――正当な男女の世界へと戻っていくのだろう。
自分はまた、一人になる。それを心底嫌だと思っているのに、きっと自分はその時、大翔を追い掛けはしないのだろう。
だってそれは、大翔のためだから。普通じゃない自分が、普通の男のためにしてやれることと言ったらそれしかない。
ただ黙って、潔く手を離してやることくらいしか、自分にできることはないのだ。
慧は小さく唇を噛み、身を切るほど冷たい外気に晒されながら早足で職場へと向かった。
午前中は取り立ててなんの変哲もなく、いつもどおりの連綿とした流れ作業で眠気を誘う。勤務中に欠伸をするなど怠慢も甚だしいと、生真面目に重い目蓋を瞬いて自らを叱り続けた。
そんな重篤な眠気が一気に吹き飛んだのは、休憩時間もあと五分で終了という午後二時過ぎのことだ。
「志槻さーん、ちょっといいですか?」
コンコンと気遣うようなノックが聞こえた後で、そっと事務所の扉が開かれる。顔を現した安見は大きなマスクで顔面を防備し、ウイルス対策を徹底していた。
「上に例の作家さんがお見えになってます。サイン会の件で責任者と話したいって」
「本当ですかっ?」
思わず椅子を蹴り倒すほどの勢いで立ち上がる。眠気も気だるさも一気に吹き飛んだ。
「すぐ行きます」
忙しなく必要な書類を掻き集め、慌てて事務所を飛び出す。
あの鬼塚先生と対面できる日が、よもや今日だったなんて。
もどかしくエレベーターを待ちながら、慧は俄かに浮き足立った。
ゆったりと稼動するエレベーターに苛立ちながら三階へと向かい、はやる気持ちを抑えて通路を歩く。
左右に三つずつ並んだ部屋のうち、五つは完全に書庫だ。残る一つは重役や厄介なクレーマーなど、一時的な来客に備えた応接室となっている。
扉の前で立ち止まり、深呼吸を二回繰り返した。期待と不安が入り混じり、心臓が激しく鼓動している。
この扉の先に、あの鬼塚久先生がいるのだ。どんな男かまったく予想もつかないし、もしかしたらかなりの年輩かもしれない。
だが、たとえどんな男だろうと、あれだけ素晴らしい作品を書く人物だ。敬意と尊重を持って対峙しなければ。
(――よし)
万全の接客スマイルを浮かべる準備を整え、扉をノックする。
「志槻か。入れ」
最初に聞こえたのは朝島の声だった。許可を得て扉を押し開く。
「失礼します。わたくし、サイン会の責任者を仰せつかっております、志槻――」
「慧……?」
部屋に入ると同時に丁重な自己紹介を口にした。それを遮ったのは低い男の声だった。
唐突に名前を呼ばれたことに驚き、頭を上げる。
簡素なソファから腰を浮かしかけている男と視線をかわし――。
心臓が凍りついた。
無意識に力が抜け、持っていた書類が弧を描いて床に散らばる。
「慧、だよな?」
どうして。
かろうじて頭に浮かんだ言葉はそれだけだった。どうして、どうして、どうして――。
呼吸も忘れて同じ疑問を繰り返している自分に、その男はゆっくりと近づいてきた。
「やっぱ、そうだよな……?」
信じられないというような顔をしながらも、男の目には喜悦が浮かんでいる。まるで今にも泣き出しそうなほど。
「どう、して……」
慧はただ、頭の中で氾濫する言葉を口から零す。見間違いであって欲しかった。人違いであって欲しかった。
全てが夢であって欲しかった。例え悪夢でも、目が覚めたらなにもかもを笑い飛ばせたはずだ。
〝ずっとお前に会いたかった〟と。あの頃より数段低くなった声で、朋久はそう言った。
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