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真実
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悪夢の続きを見ているようだ。ありえない人物の唐突な出現に、なにがなんだか分からず、話し合いどころではなかった。
朝島に幾度となく舌打ちをされながらもなんとか要点を話し、朋久がそれに同意したことでなんとかその場を凌ぎ切った。
鬼塚久の正体が旧友だったなんて、一体どんな冗談だろう。
「なあ慧、後で少し話せないか?」
ほとんど無我のまま話し合いに参加していた慧は、いつの間にかそれが終わっていたことに気づき、呆然と顔を上げる。
夢にまで見た懐かしい顔が真っ直ぐに自分を見下ろしていた。だがそこには、記憶にあったような幼さは微塵もない。
十年の年月を経て再開を果たした旧友は当然、しっかりと大人の男に成長していた。あの頃にはまだなかった骨っぽさがあちこち見て取れる。
一番変わったのは雰囲気だろうか。あの頃は常にどこか斜に構え、あまり他人を寄せ付けないような空気を身にまとっていた。だが、今はまるで違う。
なにもかもを受け入れ、赦しているような温かな深みが、その気配にはあった。
「俺、お前に話したいこと山ほどあるんだぜ」
穏やかな瞳に見つめられ、どういう反応をしていいのか分からなくなってしまう。
こっちだって、聞きたいことは山ほどあった。
(どうして、お前が鬼塚久なんだ)
公表されている情報が確かなら、彼は自分と同じ性癖のはずだ。でも、まさかそんな、朋久に限ってそれはありえないはずじゃ――。
黙ったまま窺うように視線を向けると、朋久もまた沈黙し、自分の答えを待っていた。
「……仕事が終わったら」
懇願するような視線に負け、しずしず口を開いた。
「俺もお前と話したい」
たったそれだけの言葉に、朋久は心底嬉しそうな顔をした。
「そうか。良かった……」
「え?」
緊張が解けたかのように溜め息をつく朋久に、思わず目を向ける。
「いや……お前がその、……俺を避けないでくれるんだなと思って」
「あ……」
ほっとしたような言葉を耳にし、知らず肩が下がった。
十年前、自分は徹底的に朋久を拒絶したのだ。このまま朋久と一緒にいれば、いつか自分の気持ちが知られたときにどう思われるのか分かりきってしまったから。
ただ友達でいられればよかった。けれどそれは、今思えば本心ではなかったのだろう。あの頃の自分はきっと、朋久に対して、ただの友情よりも先を望んでいたはずだ。
それを隠し通す自信も、想いを告げて玉砕する覚悟もなかった。だから自分は、ただ朋久を拒絶することで自らの心を守ることにしたのだ。
〝気持ち悪い〟なんて言葉を、二度と朋久の口から聞きたくなかったがために。
「あれは、」
「分かってる。俺のせいだろ」
言い訳を口にしかけた自分を遮り、朋久は寂しげに微笑んだ。
その笑みを目にした瞬間、心臓が不自然に脈打った。じりじりと背中に不快な汗が滲む。
なにもかもを見抜かれている――。そんな確信があった。
そしてその確信を、朋久自らが肯定する。
「全部分かってるよ。だから……」
〝もう逃げないでくれ〟と。
朋久は切実な声でそう言った。
夕方六時にようやく仕事を切り上げ、息を切らして朋久との待ち合わせ場所へ向かった。新宿二丁目にある、朋久の行きつけだというバーの扉を押し開く。
「いらっしゃいませ」
営業用の笑みを浮かべて出迎えるバーテンダーに待ち合わせだと告げ、素早く店内に視線を這わせる。幸い店はそう込み合っておらず、朋久の姿は簡単に見つけられた。
入り口からは死角になる奥のボックス席で、朋久は気だるそうに煙草をふかしながらパソコンキーを打っている。仕事中なのだろう。見慣れない眼鏡姿に戸惑いながら、そっと近づいた。
「……来たか。まあ座れよ」
朋久は自分に気づいてほっと笑う。向かい合った場所に座り、自分も煙草に火をつけた。
「とりあえずなんか飲むか?」
「いい。それより、一つ聞かせてくれ」
仕事中もずっとこれが気になってなにも手につかなかったのだ。煙草の煙をゆっくり吸い込む間に心を決め、思い切って訊ねてみた。
「お前、本当にゲイなのか?」
単調直入に問うと、朋久は面食らったように目を見開く。それから、そっと目を伏せて頷いた。
「――ああ。正真正銘のゲイだよ」
「……そう、か」
今の今まで半信半疑ではあったが、こうしてはっきりと肯定されれば疑うこともできなくなった。
「気づいたのはな、中学んときだ。……お前はあんま聞きたくねぇかもしれないけど、聞いてくれるか?」
もとよりそのつもりだ。雑に頷き、視線を逸らす。
「俺な、ずっとお前のことが好きだった」
「…………は?」
訥々とした言葉の意味を理解するのに時間がかかり、だいぶ反応が遅れた。
耳を疑いながら朋久を見る。
「お前今なんつった?」
「いやだから、お前のことが好きだったんだよ。一年のときからずっと」
「は……」
あまりの衝撃に言葉もない。
(一年のときからって……)
自分が朋久に特別な想いを抱き始めたのは二年生で同じクラスになった、そのさらに後だ。
それよりも前から――自分が朋久を好きになる前から、朋久は自分が好きだったという。
俄かには信じがたい話だ。
唖然とする自分から目を逸らし、朋久はなおも言葉を続ける。
「〝おかしい〟なんてことは百も承知だった。同じ男を好きになるなんて普通じゃねぇって。でも、自分じゃどうすることもできなかったんだよ」
自分の気持ちを押し留めることができなかったと、朋久は息苦しそうに呟いた。
「お前さ、二年の終わりっころにあったスキー教室覚えてっか?」
「ああ、わざわざ長野の飯綱高原まで連れてかれたやつな」
「そんときに泊まった旅館でよ、俺とお前の布団、隣同士だったの覚えてるか?」
覚えている。明け方まで下らない話をしたことも。
忘れるわけがない。あのときには既に、朋久を特別な存在だと認識し始めていたのだから。
「先に寝たのはお前だったよな」
「ああ。お前があまりに下らない話ばっかするから、退屈で寝落ちた」
それは嘘だ。本当はずっと話していたかった。けれど見回りの教師が部屋の前を通ったことで慌てて寝たふりをし、そのまま眠ってしまっただけだ。
「お前が寝た後、俺、お前にキスしちまったんだぜ」
「……マジかよ」
衝撃もいっそ突き抜ければ冷静になれるものらしい。
「つか、その後が本気でヤバかった。他の奴らもいるってのに勃ちっぱでよ」
「朋久……頼むからもう黙ってくれ……」
赤裸々な告白にいたたまれなくなり、思わず待ったをかける。頬も耳も、触れれば火傷しそうなくらい熱い。
朋久が自分を好きだったなんて、冗談みたいな話だ。フィクションの中でだって、これほどの喜劇はそうそう見かけない。
「あー、すっきりした」
呆れる自分に朋久は長々と溜め息をつく。憑き物が落ちたような表情で笑い、テーブルに肘をついた。
「『すっきりした』じゃねぇよタコ。俺はなに一つ納得してない」
「ま、そりゃそうだよな。……悪い」
ムカついて毒づけば、朋久はふと表情を暗くする。
(そうだ、俺はまだなにも納得してない。お前がゲイだって言うなら、なんであの時――)
自分の心を抉るような言葉を、笑いながら口にしたのだろう。なんで、幸せそうな他人を嘲って、こちらの心を踏み躙るような言葉を聞かせてきたのだ。
「こっから先は完全に言い訳だからよ、ムカついたら遠慮なくぶん殴ってくれ」
自責するような目でそう前置きし、朋久はどこか遠くを見る。
「お前が突然俺を避けるようになった理由は、ちゃんと分かってるつもりだ。理由は一つしか思い当たらねぇ」
「……言ってみろよ」
「お前も俺が好きだったんだろ」
躊躇いなく図星を差され、反射的に顔を歪めた。これでは肯定しているのと変わらない。
「……やっぱりそうか。じゃあ俺は、とんでもねぇ馬鹿野郎だな」
自嘲を浮かべ、喉の奥で低く笑いながら朋久はグラスを手に取る。いつからここにいたのか知らないが、とっくに氷も溶けたそれは決してうまそうには見えなかった。
「お前が俺を避けるようになったのは、屋上で俺がゲイのカップルを嗤った次の日からだったもんな……本当は、あのときやっとお前の気持ちに気づいた。いや、どっちかつーと確信が持てたって感じか」
シニカルな笑みを絶やさない朋久が、どことなく怖かった。この十年という月日の中で、朋久は自分が知らない男になっている。
この男が無邪気に笑うことはもうないのだ。じゃれあうような会話もできない。
こうして自分と対面していても、朋久はなぜか一歩身を引いた場所から自分を見ている。
まるで罪悪感を押し隠そうとするかのように。
「なあ、朋久……なんでお前、あんなこと言ったんだ? お前が俺と同じで、俺のことが好きだったなら、あのカップルを嗤った理由はなんだよ?」
今でもはっきりと覚えている。朋久の言葉。
『気持ち悪ぃよな、あんなの』
繰り返し夢に見た。自分の心が壊れる音まで鮮明に覚えている。
自分の問いに、朋久はなかなか答えようとしなかった。どう見たって不味いだろう酒を飲み干し、沈黙したまま無為にライターを弄っている。
「……ガキだったんだ、俺は」
やがてようやく口を開いたかと思えば、零れ出したのはそんな言葉だった。まったく要領を得ない返答に苛立ち、ライターを奪い上げる。
「そんなんじゃ分からないだろっ。もっとちゃんと答えろよ!」
煮え切らない態度に思わず怒鳴ってしまった。
教えて欲しかった。あれが本心じゃなかったと言うのならなぜ、あんなことを口にしたのか。
その返答いかんでは、二度目の決裂もあり得る。
「試したんだよ、お前を」
試したんだ、と繰り返し、朋久が短く息を吐いた。一瞬、笑ったのだとは気づけないほど歪な笑みだった。
「あの時、お前が一緒になって、あの男たちを笑い飛ばしてくれりゃいいと思った。『あんなのは普通じゃねぇ、本当に気持ち悪いよな』ってよ。そうなりゃ、俺もお前を諦めるしかねぇ。お前が心底、あのゲイたちを嫌悪するなら、それはそれで仕方ねぇって」
朋久は十年越しの秘密を暴露する。
「でも本当は薄々、お前の気持ちにも気づいてたんだ。もしかしたら、お前と俺は両想いなんじゃねぇかなって。もしそうだったら、どれだけいいか……。お前の気持ちを確かめるなら、今しかねぇと思った」
だからあの時、たまたま見かけたゲイのカップルを出しに、こちらの反応を窺おうとしたのだ。それがどんな結果をもたらすかも考えず。
「最低だろ? でも、あの時の俺にはあんな方法しか思いつかなかったんだ。なんつっても、面と向かって告白できる相手じゃねぇからな」
自分は男で、朋久も男で。相手の気持ちは分からないけれど、自分の気持ちを押し隠すにも限界を感じている。
あの瞬間、自分たちは決定的にすれ違ってしまった。けれど、裏を返せばその瞬間まではまったく同じだったのだ。
「まさか、あんな馬鹿みてぇな賭けで、お前をそれっきり失うことになるなんて思わなかった」
独り言のようにも聞こえる呟きに慧は束の間押し黙る
自分は、もうずっと長いこと、下らない勘違いに振り回されてきたわけか。
朋久に裏切られたなんて。思い違いもいいところだ。
もしもあの時、自分が真っ向から朋久に憤り、その真意を問い質していたら、もっと違う未来があっただろうに。
要するに未熟だったのだ。自分も、朋久も。〝普通〟とかけ離れた自分の心に向き合うには、互いに人間として未熟すぎた。
「……俺ももっと早く、お前と話せばよかったな」
あの程度で壊れてしまうような関係なら、どの道長くは続かなかっただろうが。
「慧……」
なにがしかの痛みに苛まれているのだろう瞳にそっと笑いかけた。長いこと自分の胸を貫いていた氷の刃がゆっくりと溶け出していく。
馬鹿みたいだと思った。こんな下らない行き違いで、十年という歳月を無駄にしてきたなんて。
「な、なんだよっ?」
声を殺して笑う自分に、朋久はひたすら困惑している。だが次第に可笑しくなってきたのだろう。気づけば二人して、腹を抱えながら笑っていた。
「なんか夢みてぇだ。お前とまたこんな風に笑い合えるなんてな」
ひとしきり笑った後で朋久が言う。
「俺はどっちかというと悪い夢から覚めた気分だけどな」
苦笑しながら返した。
幾度となくあの日の別れを夢に見た。自分の選択を後悔し、途方に暮れて泣きじゃくる夢を。
本当はずっと後悔していた。あの時、振り向くことなく去っていく朋久の背中を追いかけられなかったこと。あれが最後のチャンスだと分かっていながら、自分は結局、最後の最後まで呼び止めることができなかった。
二度と他人など信じるものかと、泣きながら心を閉ざしたことを今でも覚えている。その決意がどれほど愚かだとしても、ひび割れた自らの心を守るためにはそうするしかなかったのだ。
「俺はずっと、お前を憎んでた。ただ好きでいることすら、ただ傍にいたいと思うことすら許してくれないのかって。でも、今思うとそれってただの自己完結だよな。お前が俺の気持ちに対してどう思うかなんて、伝えてみなければ分からないことなのに」
そんな大切なこともしないで、一方的に朋久を拒絶した。どうせ拒まれるなら、自分が傷つく前にこちらから拒絶してしまえばいいと。
あの時、朋久がどれほど傷ついていたかなんて、考えたこともなかった。自分の心を守ることしか考えていなかった。
「悪かった。なにも言わずに避けたりして……俺も卑怯だったよな」
「そりゃこっちの台詞だ。そもそも俺が下らねぇこと言ったのが原因だろ」
互いを庇い合いながら視線をかわし、苦笑する。やはりどことなく、あの頃のようにはいかなかった。
この十年、自分たちはそれぞれが別の道を歩んできたのだ。決して交わらず。
でも互いが知らないところで、自分たちの絆はまだ繋がっていたのかもしれない。
長年、鬼塚久のファンであることを告白すると、朋久は呆気に取られて目を見開いた。
「読んでくれてたのか……」
「ああ。一冊も洩らさず読んでる。発売初日に買うくらいのファンだよ」
正直に頷く。
「そうか……。ありがとな」
穏やかに目元を綻ばせ、朋久は一笑した。懐かしいその笑みを目の当たりにしても、もう心が痛むことはない。
それこそが過去を振り切った証だと信じて、慧は立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「ああ。……待ってる奴がいるんだ」
首を長くしながら自分の帰りを待っているだろう男を思い浮かべて頷く。
ただ単純に、会いたいと思った。できることなら、今すぐにでも。
顔が見たい。声が聞きたい。話がしたい。触れ合って、繋がりたい。
切実な感情がとめどなく溢れた。こんな感情に名前はあるのだろうか。
「サイン会、絶対成功させような。俺も全力でサポートする」
「ああ。よろしく頼むぜ」
頼もしそうに頷く朋久と軽く握手をし、店の出口へと向かった。
「慧」
ふとした呼び掛けに振り向けば、朋久はまだ自分を見ていた。寂しげなその瞳に映り込んだ感情を知った瞬間、気づいてしまった。
自分はもう、朋久の想いには応えられない。この心は既に、朋久を求めてはいないのだと。
この世には永続するするものなんてなに一つない。どんなに望んでも、時間とともに移ろい、失われていくものがある。
感情も、関係性も、変わってしまう。
朋久と再会できたことも、和解できたことも、良かったとは本当に思う。でもだからと言って全てをやり直したいとは思わないし、そんなことは不可能だ。
「またな」
たったそれだけ口にし、朋久に背を向ける。ほんの僅か、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
だが振り向くことはせずに、歩き出す。店を出てすぐ、走った。
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