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もどかしい片想い
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◇喫茶BAR『Calme(カルム)』に、重厚なクラシックピアノの旋律が響く。
ショパン、〈英雄のボロネーゼ〉を弾きながら、唄瀬弦也(うたせげんや)は時計を気にしていた。鍵盤から僅かに目を上げ、正面の壁掛け時計を見る。体内時計はほぼ正確で、十時少し前だった。
(あと十分でシフト上がりだ)
内心ガッツポーズを取りながら、鍵盤を叩く。ラストメロディをことさら荘厳に弾き上げ、十時ピッタリに演奏を終了させた。
まばらな拍手に立ち上がり、店内を振り返る。今日も客入りはいまいちだった。やや照明を落とした薄暗い店内で、弦也は深々と一礼した。客席より一段高くなった舞台を降りるとき、入れ替わりのジャズバンドたちと目礼し合う。ここからはより、大人の時間だ。
テーブル席が六、カウンター席が八の中堅的規模な喫茶BAR『Calme』。朝の九時から夕方四時まではランチとアフタヌーンティが楽しめる喫茶店、午後八時から深夜一時までが軽めのディナーとお酒を楽しむBARになっている。
私立音大の四年生である弦也はここでピアノ奏者として週五日間、アルバイトをしていた。目的は人前で演奏する機会を増やすため、という口実。
本当は……。
地下のロッカールームに移動し、演奏用のタキシードを脱ぐ。ピッタリとした正装は若干窮屈だ。タイを解き、ロッカーの内側についた鏡に顔を映す。
いつもどおり目つきの悪い自分に睨みつけられ、多少気分が落ちた。昔からこの人相の悪さが原因でよく人に恐れられてきたものだ。大学に入ってからはそれがより顕著になった。耳が隠れないほどの短髪を明るめの色に染めたのも一因だろうか。
我ながら、タキシードに似つかわしい容姿とは思えない。溜め息を吐き出し、いつもどおり私服に着替えた。マーブルグリーンのスキニージーンズと黒のデニムシャツ。身長だけは百八十五センチと恵まれているので、ファッションで苦労したことはなかった。ただ、どんな服を着ても「ヤンキーみたいだ」という周囲の評価は不変だが。
(ふん、勝手に言ってろよ)
負け惜しみのように胸の中で呟く。女子に人気のないこのルックスだが、同じ男性からは概ね好評なのだ。それで十分。
ロッカールームの入り口の扉が開く音がした。弦也はピンと背筋を伸ばす。
来た。
「おう、お疲れさん」
「お疲れ様です!」
快活に振り返り、声を張り上げる。相手が苦笑を返してきた。
「元気いいな、唄瀬。さては何か嫌なことでもあったな?」
オーナーの樛(つが)が靴音を響かせながら階段を下りて来る。
「別に何もないですよ。……前から気になってたんすけど、なんで〝嫌なことがあったか〟って聞くんすか?」
合う都度同じ質問をされるので、純粋な好奇心から訊ねてみた。樛は鼻先で笑い、肩を竦めて見せる。
「そりゃお前、〝いいことあったか〟って聞いて〝ありました〟って答えられちゃ腹立つだろ。若ぇ奴のラッキー談なんかお呼びじゃねぇよ」
バーテン服の胸ポケットから煙草の箱を取り出しながら樛征史(せいじ)は底意地悪く言った。
樛は今年、三十四歳らしい。『Calme』のオーナー兼バーテンダーだ。
やさぐれた雰囲気に似つかわしい無精ひげと、ほのかに色気の漂う精悍な面差しは女性客からかなりの人気を博している。雄のフェロモン駄々漏れの無骨な指先でシェイカーを振る姿が客の視線を釘付けにしていることを、この男は知っているのだろうか。
「どうせ聞くなら不幸話のほうが楽しいしな。他人の不幸はなんちゃらだ」
煙草に火をつけた樛の横顔には僅かだが疲労が滲んでいた。二十二歳になったばかりの自分とは明らかに違う、大人びた目元。成長と老いの狭間にあるような安定しきった肌の質感に、弦也はしばし見惚れていた。
がっしりと引き締まった身体に、しなやかな背筋。その小麦色の肌地を指先で辿ったら、この男はどんな顔をするだろうか。
「ん、なんだ。お前も吸いてぇのか?」
「え、ああ、はい」
呼びかけられて我に返る。まじまじと見つめてしまっていたらしい。
「ほらよ」
差し出されたラークメンソールをもらい、火をつけた。一息吸って、思わず噎せ返った。
「な、なんすかこれ、強すぎっ……」
許容量を越えるタールの味に舌を吐く。樛は喉の奥で低く笑った。
「なっさけねぇな。若ぇくせによ」
一本を根元まで吸いきって、吸殻を携帯灰皿にしまいながら、樛はふと腕時計に目を落とした。
「やべ、時間だわ」
小さく呟き、
「じゃあな唄瀬。今日の演奏、悪くなかったぜ」
そう言い残して去っていく。樛の休憩時間は僅か五分足らずだ。
「はぁー……」
項垂れ、ロッカーに頭を打ち付ける。指に挟んだまま燃えていくだけの煙草の臭いが、やけに虚しい。
この数分間だけが、彼と他愛もない会話をする唯一の好機だというのに。
もう一口だけ煙を吸い込み、細く吐き出した。喉がひりつくほど重い煙だ。
「今日も、何も聞けなかった……」
好きな食べ物、嫌いな音楽、誕生日、彼女の有無、自宅の方角。聞きたいことはリストのように連なっていたはずなのに。
今日できた質問は、なぜいつも〝嫌なことがあったか〟を聞くのか。
「バカか俺」
もっと生産的な質問をすればよかった。次の機会に繋がるような、少しでも彼の内奥に近づけるような、そんな質問を。
彼に近づくために始めたバイトなのに。
友人の誘いでここに始めて客として赴いたとき、カウンターの内側でシェイカーを降っていた樛に一目惚れをした。まさに電光石火の勢いで恋に落ち、ピアノ奏者としてバイトに入ったのだ。あれから既に三ヶ月。
毎夜の如く樛を組み敷く妄想で悶々と欲を吐き出す自分に、いい加減じれてきた。このままではいつか暴走してしまう気がする。
ゲイの自分には、おいそれと恋人を作る機会がない。それ相応の場所に行けば一夜の相手には事欠かないが、やはりどうしても物足りないのだ。身体が満たされても、心は飢え続ける。
どう見てもストレートな年上の男に片思いするのも不毛だと言えば不毛には違いない。だが彼をひと目見るだけでも、一言話すだけでも、飢えた心が束の間満たされるのなら僥倖だ。そう思い始めたバイトだった。が……。
実際は満たされるどころか余計に飢えてしまっている。三ヶ月経っても好物一つ聞き出せないなんて、どうかしている。
「ああ……俺の意気地なし」
自らを罵倒し、ロッカーを閉めた。
従業員用の裏口階段から地上に出る。十一月の外気温に身震いした。東京はめったに雪が降らないけれど、その分冷え込みがきついように思う。寒さに弱い自分にとっては迷惑な話だ。
自宅への道を早足で歩く。繁華街に程近い路地裏の喧騒をやり過ごし、大通りへと出た。遠くに響く消防車のサイレンも、気の早いクリスマスのイルミネーションも、煙った埃塗れの街中に溶け込んでいる。
途絶えることのない車の列と人いきれの街。こんな人口密度の高い都市で運命的な出会いをした自分は、果たして幸運といえるのか否か。
「望み薄だしな……」
呟きは溜め息に変わる。千代田区西の、やや寂れた住宅路に入った。
私立音大に通うのは、本当に金のかかる進路だった。決して貧乏な家計ではないが、高校生の弟や、まだ小学生の妹のことを考えると、なるべく家計の負担は減らしたい。そう思い、せめて学費以外の支出は自分でまかなうことにした。安普請のアパートを借り、自炊で食費を切り詰める日々を送っている。父母の評価は上々だ。
しかしこんな日々も大学卒業まで。あと四ヶ月ちょっとしかない。卒業後の進路は未定だが、ぼちぼち就職のめどを立てなければならないだろう。第一希望としては『Calme』の正社員。今はその地固めだ。
この先何十年と樛の傍で仕事ができるかもしれないと考えると、それだけで顔がにやけてしまう。
一人で不審に笑いながら外灯もまばらな住宅街を自宅に向かって歩いていると、ふと違和感に気づく。いつもは閑散とした道の先がやけに騒がしい。
先ほど耳にした消防車のサイレンが反響して聞こえた。
(どっかで火事でも起きたのか?)
ほとんど興味も持たず、そう思う。所詮は他人事だ。こちらに実害がなければそれで問題ない。一般的な無関心さで歩き続ける。
しかしサイレンと喧騒は自宅に近づくにつれ大きくなる。比例して不安と嫌な予感が膨れ上がった。
「おいおい……まさか俺のアパートじゃないだろうな……」
弦也はほとんど駆け足になりながら呟く。
まさかほど当たるものはない。
アパート前に着いた弦也は野次馬に紛れて唖然と口を開けた。轟々とおぞましい音を立てて燃え盛っていたのは、やはり自分が住んでいるアパートだった。
「マジかよ……」
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