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願ってもない展開
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◇
深夜0時過ぎに火は消し止められた。が、ほぼ全焼になったアパートは鉄骨がむき出しになり、廃屋同然だ。自室のあった二階も無惨に燻っている。一目瞭然で、もう住むことはできない有様だ。
「お唄さん、そこにいたねぇ?」
大家の井田婆が野次馬の中からこちらへと歩み寄ってくる。すっかり腰の曲がったおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにしてこちらを見上げた。泣いているのか笑っているのか判断できない。
「井田婆、無事でよかったっす。怪我とかないすか?」
「よかったよぉ、安否確認できないのお唄さんだけだったからさぁ」
耳の遠い井田婆はやや噛み合わない返答を返してくる。いつものことなので気にしない。
「火事の原因、何か分かります?」
耳元に屈みこんでやや声を張り上げる。
「あ?」
皺だらけの口を大きく開けて井田婆は聞き返してきた。
「火事の、原因」
「菓子折りなんていらないよぉ」
ダメだこりゃ。弦也はがっくりと肩を落とす。周りがうるさすぎるのか一向に会話が成り立たない。とりあえず身近な野次馬に尋ねてみた。
出火の原因は不明だが、火が出たのは一階からだと聞き安心する。自分の煙草の不始末が原因かもしれないと、内心冷や冷やしていたのだ。
「とりあえず怪我人はいないっぽいですよ。不幸中の幸いだ」
そう教えられ、胸を撫で下ろした。
さし当たっての問題は、今夜からの寝泊りだ。
「どーすっかな……」
泊めてもらえる場所といえばいくつか候補はあるが、どこも気乗りしない。一晩の代償を求められても、絶賛片思い中の身にはきついだけだ。かといってノンケの友人宅に転がり込むのも気が引ける。
少し戻ればカプセルホテルがネットカフェがあるだろう。弦也は井田婆に挨拶をし、繁華街へと向かって歩き出した。その途中で知らず俯き、足元を見つめて立ち止まる。
今さらのように、ショックは遅れてやってきた。
まさかこんなことになるなんて。大学の教科書や集めたCDたちは灰燼に帰したのか。衣類も、今夜のために寝かせたカレーも丸焦げなのか。大学はあと四ヶ月強もあるのに宿無しになってしまった。新たに賃貸契約できるような金銭的余裕もない。地元は大分だ。帰るには遠すぎる。
緩く首を振って歩き出す。宛てもなくさまようのがこれほど心細いものだとは思ってもいなかった。
途方に暮れた弦也は思考散漫に歩き続ける。ふと気がつくと見慣れた『Calme』の正面入り口を見つめていた。ゴシック体で綴られた看板を見上げる。込み上げてきた懐かしさに視界が霞んだ。ここでバイトしていたのが、十年も前のような気がする。自分が思っている以上に、打ちのめされているらしい。
(しっかりしろ俺。弱気なんてらしくないぞ)
強がりながら鼻を啜る。押し開きの扉を開け、中に入った。軽快なジャズのメロディが響いている。
「いらっしゃ……て、あれ」
カウンターの中から声を張り上げた樛が目を見張った。弦也ははにかみ、一直線にカウンター席を目指す。
「お前帰ったんじゃなかったのか」
「ええ、まあ。……色々あって」
言葉を濁し、スツールに腰掛けた。
「ははん?」
樛はそんな自分を見て、したりと笑う。
「女と喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃないですって」
そんな可愛い悩みならどれほどよかったか。
カウンターに肘をつき、溜め息をこぼす。好きな人の前にいるというのに、心は未だ荒ぶったままだ。
「何か適当にください」
「適当とか、ガキがいっちょ前に大人ぶりやがって」
面倒臭ぇと苦笑いしながら樛はシェイカーに酒を注いでいく。
無意識に、その骨ばった指先を目で追った。やや深爪ぎみの指。太く引き締まった腕には筋肉の筋が張っている。
この人の体温は、高いのだろうか。それとも低いのだろうか。
一度でいいから触れてみたいと弦也は思った。
「なんだよお前、目つき悪ぃぞ」
「……生まれつきです」
まじまじと見つめていたことに気づき、目を逸らす。
「おらよ。クウォータ・デックだ」
「どうも」
カクテルグラスに注がれた琥珀色の液体をゆっくりと飲み下す。ライムの香りがさっぱりとしていて飲みやすい。
ゆっくりとグラスを傾けながら、しばし呆然としていた。火事のことも、これから先のことも、何も考えたくない。
不意にジャズのメロディが止み、我に返った。気づけば店内に客は自分一人だった。もうすぐ閉店の時間だ。
「それ飲んだら帰れよ。さっさと仲直りしちまえ」
樛はグラスを磨きながら薄く笑う。行く当てのない自分はどこに帰ればいいのだろうと途方に暮れ、溜め息をついた。
「だから、喧嘩なんかじゃないですよ。そもそも俺、彼女いないですし」
ゲイの自分に、そんなものがいるはずもない。
「へえ?」
樛はやや驚いたように片眉を吊り上げた。
「意外だな。お前、面は悪くねぇのに一人か」
「この顔、女性に人気はないんすよ」
苦笑で返す。樛に外見を褒められたことで、擦れていた心が俄かに明るくなった。我ながら現金なものだ。
「んじゃ、何で落ち込んでんだよ」
「え?」
「とぼけんな。ひでぇ顔してんぞ」
「あ……」
そんなに顔に出てしまっていたか。グラスをカウンターに置き、視線を落とす。
火事の一件を手短に話すと、樛は一瞬言葉を失った。
「そりゃお前……大事(おおごと)じゃねぇか」
いつになく真面目な口調で言う。
「大丈夫ですよ。大した私物は置いてませんでしたし。強いて言うならお気に入りの目覚まし時計が痛いですね」
心配されるのが嫌で空元気を装った。グラスを回し、一気に煽る。温度の変わったカクテルはすっかり風味が落ちてしまっていて、もったいないことをしたなと残念に思った。
「ただ、大学卒業までまだ少し時間があるんで、その間だけでもどっか寝泊りできるとこ探さなきゃいけないんすけど」
愚痴に聞こえないよう、わざと明るい声を出す。樛は精悍な眉を微かにひそめた。
「どっかって……当てはあんのか?」
「まあ、なんとか……」
言葉を濁して立ち上がる。これ以上ここにいると、樛に余計な気を使わせてしまいそうだ。代金をカウンターに置き、コートを羽織った。
「ごちそうさまでした。また明日、バイトにはちゃんと来ますから」
笑顔が引きつっている自覚はあっても、ごり押しで背を向けた。
なんでこんな時にここにきてしまったのだろう。こんな、情緒が乱れているときに。
(あーダメだ……泣きてぇ)
甘ったれた弱音を喉の奥で殺す。
「おい唄瀬」
出口に向かい歩き出したところで、背中に声を掛けられた。
「お前、俺んち来るか?」
「え?」
耳を疑い、振り返る。
「え、え、樛さんの家にっすか?」
何だそのサプライズは。
「マジでいいんすか?」
食い気味にカウンターへと舞い戻った。樛は鼻先で笑う。この冷めたような、からかうような笑い方が本当に好きだ。
「なんだお前、最初からそういうつもりだったんじゃねぇのか」
「え、いやいや、全然そんなつもりなかったですけど」
弦也は慌てて手のひらを顔の前で振る。そうしながらも、心のどこかで期待していなかったとは言えない自分に気づいてしまった。
樛の家に置いてもらえたら、などと厚かましくもそう思った自分を悟られたくなくて、殊勝な顔を取り繕った。
「そんな迷惑なこと、お願いできませんって」
「ああそうかよ。じゃ、この話は無しだな」
あっさりと頷いた樛が軽く手を振る。ハエを追い払うような仕草。
「やっぱりお願いします」
マッハの速度で頭を下げた。厚かましいのは重々承知。呆れられても文句は言えない。
だがこんな美味しい機会、みすみす逃したら男じゃない。しかも言い出してくれたのは樛の方なのに。相手の好意を無下にするなんてとんでもなかった。
下げた頭に短い笑い声が掛かる。
「端っからそー言ゃいいんだよ」
投げやりな口調で了承をもらった。
「あ、ありがとうございますっ」
内心飛び上がりたいほどの興奮を覚えつつ、努めて殊勝な態度で礼を言った。
急転直下、青天の霹靂。まさか片思いの相手と同居することになるなんて。
「片付け終わるまでちょっと待ってろ」
「俺も手伝います」
黙って待っていられるものか。弦也は意気揚々と腕まくりをした。
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