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破綻した夫婦
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◇
唄瀬を部屋に通した後、樛はぐったりと眠りに就いた妻の美月を抱きかかえ、ベッドに寝かせた。ベッドサイドにウィスキーの空きボトルが転がっているのを見て、思わず眉をひそめた。
「ったく……あれほど止められてるってのに」
自分の言うことはおろか、医者の忠告さえ無視するとは。
美月の微笑みを思い出す。いつ以来だろうか、あんな真っ直ぐな笑顔を見たのは。
寝顔をそっと撫でる。胸を刺すような痛みは一向に消えなかった。
美月と結婚したのは、もう六年も前だ。だがその選択は致命的な間違いだった。
(俺とじゃなきゃ、お前はもっと幸せだったんだよな……)
安らかな寝息を立てる妻を見下ろし、樛は顔を歪める。美月はあの一件以来、酒に飲まれたときにしか笑顔を見せなくなった。
美月に毛布をかけ、空きボトルを片付けた。リビングで煙草をふかしていると、飼い猫のリヴが擦り寄ってきた。
「何だ、腹でも減ったか?」
抱き上げると、喉を鳴らす。美月はちゃんと面倒を見ているのだろうか。
朝になったら、美月に説明しなければ。勢いで唄瀬を連れてきてしまったが、美月がそれにどんな反応を示すかわからない。激怒か、拒絶か、あるいはヒステリーを起こすかもしれない。浅慮だったとは思うが、あれほど落ち込んでいる唄瀬を放っておくわけにもいかなかった。
居場所がなくなるということがどれほど辛いことなのか、痛いほど理解している。
鈍く痛む頭を抑え、ソファに横たわった。
目が覚めたのは、微かなピアノの旋律を耳にしたからだ。幻聴であることを確信しながら身体を起こす。
リビングの隅に、埃をかぶったグランドピアノがある。思ったとおり、誰も弾いてはいなかった。
時計を見る。明け方五時を少し過ぎていた。まったく疲れは取れていないが、これ以上眠れそうにもなかった。早々に睡眠を諦めて立ち上がる。
シンクに溜まった洗い物を片付け、風呂とトイレを磨く。洗濯と朝食の用意を同時に行った。
「なにしてるの」
冷え切った声が背中に掛かる。美月は片手で頭を押さえながら、苛立たしげにこちらを見ていた。
「悪かったな、起こしちまったか」
「……」
美月は無言のまま冷蔵庫の扉を乱暴に閉め、ミネラルウォーターを飲む。
「なあ美月、」
「うるさいっ!」
言葉と同時にペットボトルが飛んできた。胸に当たったそれが床に落ちる。
「あなたの声なんか聞きたくもないの。もう黙っててよ!」
耳を劈くような声に、樛は押し黙った。いつだって、会話すら拒絶されてしまう。
「もう……帰ってこなくていいって言ったのに。なんで帰ってくるのよ……」
俯いた美月が床にくず折れる。震えるその肩に触れようとして、やめた。
「……夕べ、バイトの若ぇのが火事で家を失くしたんだ。行くところがねぇって言うから、連れてきた」
ピクリと、美月の肩が跳ねる。
「今、どこにいるの……?」
ゆっくりと顔を上げた美月は虚ろな声で問い掛けてきた。
一瞬、返答に窮した。それが却って答えになってしまう。
唄瀬がいる部屋は。
「信じられない……なんで、そんな無神経なことができるの……?」
「美月」
呼び掛けは届かず、美月は緩く首を振った。おぞましいものでも見るかのような目つきをしている。
「あなたなんか、夫でも父親でもないわ」
氷でできた言(こと)の刃が胸を裂いた。樛は視線を逸らして朝食の支度を続ける。あえて、何も感じない振りをした。ここで自分が傷つけば、彼女は自己嫌悪に陥ってしまう。
ふらふらと立ち上がった美月がテーブルに並んだ朝食に目を向け、それをなぎ払った。食器が床に落ちる音が響く。
「おい、美月」
「あなたなんか、いなくなればいいのよ」
呪詛のように呟いて、美月は自室に戻っていった。
床に散らばった食べ物と食器を片付ける。
「ダメだぞ、あっち行ってろ」
近づいてきたリヴを遠ざけ、ふと手を止めた。いつの間にか切ったらしい指先から血が滴り落ちている。
ここまで破綻しているのに、もう一度やり直せると思っているのか。
「……我ながら、まともじゃねぇよな」
樛は自嘲気味に笑った。
いつか彼女の心を取り戻せると信じていることが、すでに愚かしい。
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