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悪魔の誘い
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◇
飛鳥との待ち合わせ場所は赤坂のフレンチレストランだった。
「うわ……」
弦也は待ち合わせ時刻の五分前に到着し、思っていた以上に本格的な店構えにポカリと口を開けた。どっしりとした石造りの外観はどこかのホテルと見間違うほど壮大な雰囲気をかもし出している。しかも入り口にはドアマンまで立っている本格ぶりだった。
(こんな高級な店なんて聞いてないぞ)
誘われておいてなんだが、先に言って欲しかった。それならせめて着替えくらいしてきたのに。ジーンズにセーターを合わせ、こげ茶色のダッフルコートを羽織っただけという軽装は、明らかにこの店の雰囲気に合っていない。中に入っても浮くだけだろう。下手すればドアマンの失笑を買う。
せめてもの抵抗と安物のマフラーを外してコートのポケットにつっ込んだ。レストランの入り口からだいぶ離れた場所で中の様子を眺めていると、段々と落ち着かない気分になってきた。店内はちょうど夕食時とあっておしゃれなカップルの姿が目立っている。
幸せそうに笑い合う男女を目の当たりにすると、チクリと胸の奥が痛んだ。今頃樛も美月さんと一緒に夕飯を食べているのだろうか。あんな風に仲睦まじく。
(ダメだなあ……俺)
短く白い息を吐き出して足元を見る。擦り切れたスニーカーに目を落とすと、いっそう気持ちが沈んだ。
樛が既婚者だと知って、諦めようと心に決めたはずなのに。バイトも辞めて、さっさと距離を取ろうと思っていた。どう足掻いても、彼の心に触れることはできないのだから。
最初の晩から一夜明け、やっぱりお世話にはなれないと申し出た自分を引き止めてきたのは、意外なことに美月さんだった。
『部屋は余ってるし、使ったら? 行く当て、ないんでしょ?』
夫婦揃って自分を気遣ってくれているのだと思うと、その気持ちを無碍にするのも気が引けた。しばらくの間厄介になることに決めたが、それもそう長くは無理だ。
性懲りもなく、まだ樛のことが好きなのだ。毎日毎日、彼と同じ屋根の下にいるという事実だけで胸を締め付けられる。手に入らないと分かっていても、そう簡単には諦めることができなかった。いや、違う。
手に入らないと分かってしまったからこそ、余計に渇望しているのだ。
知りたい、触れたい、抱き締めて押し倒して、いっそのこと彼の全てを奪い上げてしまいたい。
傍にいれば、そうした劣情に押し負けてしまう日がいつか来る。それが何より怖いのだ。
この感情が原因であの二人の関係にひびを入れることにでもなったら、きっと一生、自分を許せないだろう。
ただ、樛には幸せでいて欲しい。そう願う自分は傲慢だろうか。
「唄瀬君」
呼びかけられ、思考を引きちぎるようにして顔を上げた。昼間と同じく漆黒のトレンチコートに身を包んだ飛鳥が優雅な足取りでこちらに歩み寄って来る。身長は大差ないのに、腰の高さというか、骨格の綺麗さというか、まるで違っていた。
「待たせてごめん。寒かっただろう」
「いや、全然平気っすよ。さっき来たとこなんで」
慌てて顔の前で手を振った。これ以上周りの人間に気を使わせたくない。
「ってか俺こんな格好なんすけど……」
自らの出で立ちを示して困惑をぶつける。
「ああ、平気だよ」
飛鳥はふわりと微笑んで颯爽と歩き出した。店の入り口へと続く幅広の階段を上り、ドアマン二人に微笑みかける。内心ハラハラしながら、飛鳥の背中に隠れるようにして後に続いた。
飛鳥が一言も口を利かないうちに、ドアマンはピンと伸びた背筋をさらに伸ばす。
「お待ちしておりました。飛鳥聖光様とお連れ様ですね」
「ああ」
飛鳥が端的に頷くと、ドアマンは恭しく腰を折って、無駄のない動作でサッと扉を開けた。
「どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」
慇懃な口調で見送られながら、店内に一歩足を踏み入れた。足元の絨毯が柔らかく沈む。
「お召しものをお預かりいたします」
手馴れた様子でコートを脱ぐ飛鳥に倣い、もたつきながらもコートを脱いで店員に預けた。
いち大学生には縁遠い内装と雰囲気に気圧されて、身体が強張っている。かじかんでいるわけでもないのに指先が上手く動かなかった。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
そんな内心の動揺を見抜いたらしい飛鳥がいつもどおり悠然とした微笑みを向けてくる。
店内は広々としていた。真っ白なクロスが掛かったテーブルの間をホールスタッフたちが滑らかに行き来している。
ファーストフロアからサードフロアまで吹き抜けの天井になっていて、中央に豪奢なシャンデリアが吊られていた。輝かしい光に目を細めながら、緩やかな螺旋状になった階段を案内役に導かれて怖々と上る。どうやら階を上がるごとにテーブルや壁際の調度がグレードアップしているようだ。ファーストフロアとサードフロアでは、明らかに客層が変わっている。
案内されたのはサードフロアの窓際に面したテーブルだった。
「こちらのお席になります」
促されるまま椅子に腰掛けると、素早く膝にナプキンが掛けられた。
飛鳥があらかじめ話を通してしていたのだろう、給仕のスタッフは簡単な注文確認をした後、音もなく立ち去る。
「俺、こういう店ってテレビとかでしか見たことないっす」
「ふうん? それって、別に珍しくもないってことだよね。〝華やかさ〟のテンプレってことだ」
下らないよ、とテーブルに頬杖をついた飛鳥が乾いたことを言う。
「下らないとは、これまたずいぶんなご挨拶ですな」
突如後ろから渋い声が聞こえた。思わず肩が跳ねる。
「おっと、失礼。驚かせましたかな」
声の主がテーブルの脇に立ち、にこやかな顔を向けてきた。肌の浅黒い五十半ばほどと思しき男性だった。たっぷりと蓄えられた口ひげが印象的だ。お仕着せに合わせた黒の蝶ネクタイが奇妙にマッチしている。
一度見たら忘れられないタイプの人間だった。
「やあトムさん。久しぶりだね」
頬杖をついたままの飛鳥がのんびりと挨拶をする。トム、と呼ばれた男だが、どう見ても日本人の容貌なので、それが愛称であるのは間違いない。
「相変わらずふてぶてしいですな、坊ちゃん」
小さな瞳を暖かく細めてトムは言う。飛鳥は泰然とした雰囲気を崩さないまま小さく苦笑した。
「もう坊ちゃんはよしてくれないか。僕はこう見えて二十七になったんだ」
「おや、もうそんなになられますか。いやあ、年の巡りは早いものですね」
トムは口ひげを太い指で弄びながら感慨深げに頷いている。
「あ、この人はトムさん」
置き去りにされている気がして困惑顔でいると、飛鳥は思い出したようにこちらに目を向けた。
「本名は戸原武蔵(とはらむさし)って言うんだけど、まあそれはどうでもいいね」
「どうでも良くはありませんが、まあ、瑣末なことですな。どうぞお気軽にトムとお呼び下さい」
「はあ……」
なんとも間の抜けた返答しかできない。
「お二人は、その、お知り合いなんですよね」
そんな分かりきったことしか聞けない自分が馬鹿みたいだ。弦也は口を開いたことを後悔しつつ、二人の返答を待った。
「うん、知り合いっていうか、僕の父だけど」
「ああ、お父さんなんです――お父さんっ?」
鸚鵡返しの途中で声がひっくり返った。途端、二人が息を合わせて吹き出す。
「なんか、すごいびっくりしてる」
「我々がかくも似つかぬ親子であるからでしょうな」
互いに肩を震わせ、くすぐったさに耐えるような顔で笑い合っている。弦也は唖然とそんな二人を見比べた。
本当に似ても似つかない親子だ。トムは熊のように大柄で、肌も浅黒くやや強面だ。それに比べて飛鳥は色白で華奢。甘く整った顔立ちに類似点はほぼない。
「驚かれたようですな」
ただ唯一、その微笑み方はよく似ている。内奥を悟らせない、謎めいた笑み。
「うちの坊ちゃんがお世話になっております」
「え、いや……お世話になってるのは俺のほうで」
恐縮されることに恐縮し、意味もなく頭を下げ合った。
「相手にしなくていいよ唄瀬君。トムさんはちょっと変わってるんだ」
「あ、そこは似てますね」
うっかり本音が漏れる。しまったと慌てて口を噤んだが、飛鳥はムッとするどころか却って笑みを深めた。初めて見るような、心底嬉しそうな微笑みだった。
「しばらくは日本(こちら)にいらっしゃるのですかな?」
「まあね。久しぶりの休暇なんだ」
「それはなによりですな。坊ちゃんは昔から根を詰めすぎるきらいがおありですから」
慈しむような視線に肩を竦め、飛鳥は薄く笑った。
なんとも不思議な親子関係だ。弦也も肩の力を抜いて笑う。程よく緊張が解れた。
「ごゆっくりとお楽しみくださいませ。また近いうちにお会いできるのを楽しみにしておりますよ」
「ああ、またねトムさん」
丁寧に会釈したトムがひとつ微笑んで去っていく。飛鳥はその背を一秒ほど見つめ、視線をこちらに向けた。
「驚かせてすまなかったね」
「いやそんなことはないっす。まあ、だいぶ驚いたのは確かですけど」
苦笑にならないよう気をつけながら返す。飛鳥は已然頬杖をついたまま、つと窓の外を見た。
「本当は、ここに来るつもりなんかなかったんだけど……」
「え?」
「古巣巡りの候補の中に、この店は入ってなかったんだ。父にも、会うつもりはなかった」
淡々とした声で言う飛鳥の横顔に、これといった感情は見て取れない。理由を問うべきか否か迷い、結局無言を通した。飛鳥としても、相槌を求めての発言ではなかったらしく、料理が運ばれてくるまでじっと窓の外に目を向けていた。
「君さ、最近失恋でもした?」
味も質も完璧だが量に乏しい高級料理を次々胃に落とし、コースの最後にデザートが運ばれてきたとき、出し抜けに飛鳥が問い掛けてきた。ちょうど赤ワインの入ったグラスを傾けていた弦也は危うくむせ返りそうになる。
「な、なんすか急に」
「図星だね」
確信を得たように薄い唇を吊り上げ、飛鳥は瞳を細めた。
「相手は同性かな」
「っ……」
弦也は息を飲み、顔を強張らせる。
この人は時々、恐ろしい。その洞察力も、切り返しの素早さも、相手の懐に踏み込むときの容赦のなさも。
「なんでそんなこと聞くんですか」
「単純に興味があるからだよ。それ以外、僕が他人に質問をぶつけることなんてない。興味のない相手になんか、なにを聞いても興味を持てないからね。そんな無意味なことはしない」
さらさらとした言葉は見かけ以上に冷淡なニュアンスを含んでいた。
「僕が質問をするのは、君に興味があるからだ」
「俺、に?」
それは一体どういう意味なのだろう。興味、と一口に言っても、その種類は多様だ。ただの好奇心なのか、知人としての懸念なのか、暇つぶしに近い遊び心の可能性だってある。それとも、飛鳥もまた自分と同じ性癖で、そういった意味での興味なのか。
(いや、それはいくらなんでも自惚れすぎだろ。この人が俺にそんな、恋愛的な意味で興味を持つわけない)
ならば、やはりからかわれている可能性が一番高いわけだ。
「確かに、失恋しましたよ。相手は男です。それがどうかしましたか?」
内心ひどく警戒しながら、わざとつっけんどんに返した。そんな虚勢をあっさりと見抜いたらしい飛鳥が鼻先で笑う。
「そうやって開き直っちゃうところがまだまだ子供だね、君は。ピアノにもその性格が滲み出てる。……上手くならないわけだ」
それは心臓の一番柔らかい部分に針を刺すような言葉だった。さすがにムッとして目の前の男を睨みつける。
「性格とピアノの腕は関係ないっすよ」
「そんなことはないよ。荒っぽい性格の人間は荒っぽい演奏しかできないし、臆病な人間はコンピュータじみた無機質な演奏しかできない。そして、幼稚な君は幼稚な演奏しかできてない」
不可視の銃弾が身体に穴を開けていくようだ。ただでさえきつい自分の眦がさらにきつくなっているのを自覚する。
飛鳥は鋭い視線を難なくかわして、指を組んだ。
「まあ、ピアノのことはどうでもいいんだよ。今は君の失恋の話だ。同性を好きになって、それからどうして失恋したのか。気になるのはそこだよ。告白して振られた?」
「違いますよ……」
ずけずけと人の心にあがりこんでくる飛鳥を煩わしく思いながら視線を逸らす。
「相手に彼女がいた、とか?」
「……」
二手目で既に核心をついてくるあたり、侮れないと内心で舌打ちをした。
「彼女どころか、既婚者でしたよ」
半ば自棄気味に吐き出す。飛鳥が僅かに目を見張った。
「既婚者って、そんなに年上だったの?」
「ことし三十四で、奥さんとラブラブですよ」
「へぇ、君は思ってたより冒険家だね。元から年上好きなのかな」
「まあ、そうですけど」
弟がいるせいか、年下にはどうも食指が動かないのだ。好きになるのは年上ばかり。それも世間擦れしていて、少し斜に構えたような大人の男ばかりだ。無骨で逞しい身体をしている中年が好みなのは、羨望に近い憧れを持ってしまうから。自分が逆立ちしてもなれないタイプの男にこそ惹かれてしまう。
樛は好みのど真ん中を見事に打ち抜いた。一目見た瞬間、彼を抱きたいと心の奥が震えたのだ。あんな電光石火の一目惚れは今まで一度も経験したことがなかった。
「へえ……年上好きか。面白いね」
「なにがですか」
年上に片想いして、告白する前に玉砕したことのなにが面白いというのだろう。他人事だと思って楽しむのは勝手だが、まだ新しい傷口を悪戯に引っ掻き回すのは勘弁して欲しい。
「それであのピアノか……、うん、君らしいね」
飛鳥はなにやら呟いて一人で納得している。この話はもうこれでお終いにしたかったので、問い返すことはせずにデザートを口に運んだ。クランベリーのフロマージュは甘さ控えめで、口に入れた瞬間にとろける。
こういう美味しいものを食べると、どうしても考えてしまう。樛はこれが好きだろうか、一緒に食べて感想を言い合いたかったな、と。
さすがにここまで未練たらしいと自分でも呆れるほかない。
「またその人のことを考えてるだろう?」
デザートに手をつける気がないのか、飛鳥はテーブルの上で両手を組んだまま鋭い一言を放ってくる。ぎくりと首の後ろが引きつれた。
なんだってこうも絡んでくるのだろう。弦也は眉間に深い皺を刻んで飛鳥を睨みつけた。
「そうやって〝してやったり〟って顔で馬鹿にすんの、やめてくださいよ。俺がなに考えてようが飛鳥さんの迷惑にはなってないでしょう」
自分でも小生意気な口を利いていると自覚してはいるが、どうにも腹立たしい。
飛鳥は真っ向からの視線に動じるでもなく、ほんの少し小首を傾げてこちらを見つめてきた。
「僕といるのに、他の男のことばっか考えてる君が悪いんじゃないか」
「……それ、どういう意味なんすか」
薄い唇が紡いだ言葉の意味を図りかね、思わず眉をひそめる。
「さっきから俺に〝興味がある〟とか、そんな思わせぶりなことばっか言いますけど。からかってるつもりなんすか?」
だとしたら相当に意地の悪い人間だと、内心軽蔑にも似た感情が鎌首をもたげる。だが。
「鈍いね君は」
飛鳥は呆れたように笑い、背中を椅子にもたれさせた。
「はっきり言わないと分からないなら教えてあげるけど、僕は君に提案をしているんだ」
「提案?」
「そ」
軽く頷いて、今度はズイっとテーブルに身を乗り出してくる。距離が近づいたことで、涼やかな瞳にかかる長い睫の影までもがはっきりと見て取れた。
「今夜、僕と寝てみないか、ってね」
一瞬理解ができずに全身の機能が完全に停止した。爆ぜる直前の爆弾を手渡されたような気分だ。
「……は?」
真っ白な頭でかろうじて聞き返したところで、既に爆弾は破裂している。結果、理解も何もできないまま、衝撃だけが脳を伝った。
「失恋の痛みを忘れるには、代わりに熱中できることを見つければいいんだよ」
飛鳥はニッコリと空恐ろしいまでに澄んだ笑顔を見せる。
「今夜だけでも、楽になりなよ。今の君は、感情に振り回されたままで鍵盤を叩いているだろう? 荒っぽいし、惨めで、聞くに堪えない。まるで音の暴力だ」
胸を刺すような批評に息を詰める。
「だけど、さ」
飛鳥はそこではっきりと言葉を区切り、ことさら瞳を細めた。禁忌を教唆するペテン師のような、甘く危険な気配に魅了されそうになる。
「君の心を苛むその厄介な感情が消えれば、全部元に戻るんじゃないかなって、僕は思うんだよ。だから――」
スッと躊躇いのない動作で顔を寄せ、耳元で囁く。
「手に入らない人のことなんて、いっそ綺麗さっぱり忘れちゃいなよ」
弦也にはその低く掠れた囁きが悪魔の声に聞こえた。
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