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決意
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ホテルを飛び出した弦也は、自己嫌悪に苛まれていた。
本格的な冬が迫っているのだろう、夜の空気は乾き切っていて冷たい。マフラーを忘れたことに気づいても、今さら取りには戻れず、とぼついた足取りで夜の街をさまよった。
帰るとは言っても、帰れる場所もない。今、樛たちがいるであろうあの温かな家に踏み込む勇気はなかった。
終電間近な駅は人もまばらだ。構内のベンチに腰を下ろし、項垂れる。これからどうすればいいのだろう。
まだ樛が好きだと自覚しても、どうしようもない。彼には家庭があって、大切に想う人がいるのだ。もうずっと前から。
諦めようとすればするほどに想いは募ってしまう。どうしてもっと早く出会えなかったのか、神様を恨みたい気分にもなった。
大学卒業まであの家で厄介になるなんて、もう無理だ。引き止めてくれた二人には感謝しているけれど、限界が近い。これ以上、樛のそばにいれば自分がどうなってしまうか、予想がつくだけに恐ろしい。
弦也は深々と溜め息をつき、コートのポケットから携帯を取り出した。手当たり次第に友人に電話をかけ、しばらく泊めてくれないか打診する。だがどいつもこいつも薄情な答えしか返してはくれなかった。
アドレスを片っ端から消化し、最後の綱も切れたところで舌打ちが漏れる。手前勝手な八つ当たりだと分かっていても、苛立つ感情は抑え切れなかった。
両親と飛鳥以外で、唯一かけられなかった番号に目を落とす。
「樛さん……」
小さく呟くと、胸が張り裂けそうなほど痛んだ。アパートが火事でなくなったあの夜、ぶっきらぼうな口調でそれとなく労わってくれた彼を思い出す。厭世的でひねくれている樛だが、その本質はとても穏やかで優しいと知っている。気落ちした自分を放って、見てみぬ振りをしなかったことが何よりの証拠だ。部下とはいえただの他人で、無関心と無関係を貫くことはいくらでもできたはずなのに、彼はそうしなかった。
だから、余計好きになってしまったのだ。浮かれて舞い上がった結果がどん底でも、諦めがつかないほどに。
触れられなくてもいいから傍にいたい。ほんの少しだけでも、彼の心に自分自身を刻み付けたい。そんな浅ましい願望が湧いては消える。
分かっているのだ。こんな感情を持ってあの夫婦の傍にいれば、いつか取り返しのつかないことになると。二人の絆を引き裂くようなことは絶対にしたくないのに、頭の片隅では、いっそのことぶち壊してしまいたいという凶暴な思考が疼いている。
壊れ始めているのは、自分のほうだ。飛鳥はそれを鋭く見抜いたからこそ、今夜の誘いをかけてきたのだろう。全部忘れてしまえと言ったのは、そうしなければ押し潰されてしまいそうな自分の弱さを見抜いたからだ。
ことあるごとにピアノの腕や旋律を揶揄してきたのもある種の挑発で、強引に一線を越えさせるための起爆剤のつもりだったに違いない。
無理やりにでもしてしまえばよかったのかもしれないと、遅すぎる後悔が胸に押し寄せてきた。綺麗さっぱり忘れ去ることはできなくても、樛を手に入れられない苦痛を、一瞬でも忘れることができたかもしれない。
握り締めた携帯が静かに震えた。弦也は力なくそれを見つめ、硬直する。着信だ。しかもよりにもよって、一番声を聞きたくない相手から。
「樛……さん」
どうしてこのタイミングなのか。まるで見計らったかのような間の悪さに顔をしかめる。
出ようか出まいか、迷った。だが緊急の用事かもしれないと言い訳して、結局通話ボタンを押す。
「はい……」
第一声が情けなく萎んでいることを自覚し、慌てて背筋を伸ばした。少しでも、気分が沈んでいることを気取られたくなかった。
『今どこだ?』
端的な質問が鼓膜に飛ぶ。
「え? あ、ええと……」
弦也は間の抜けた返答をし、辺りを見回した。自分が駅にいることすら、薄っすら忘れかけている。
「赤坂駅の中にいます。ちょっと、知人と食事してて」
『そうか。今晩はどうすんだ? 帰ってくんのか?』
さばさばとした口調で問われ、返答に窮した。
正直に言うと、帰りたくない。けれど心のどこかで、樛の顔を見たいと思う自分もいるのだ。あの斜に構えたような、皮肉げな笑顔を見たいと、この期に及んで愚かしくもそう思ってしまう自分が。
『早く帰って来いよ。大学行ったにしちゃ遅せぇって美月のやつが心配してんだ。ガキじゃねぇんだから自由にさせてやれって言ったんだけどよ、聞かねぇんだこれが』
電話越しに肩を竦めて苦笑する気配が伝わってくる。その言葉に嫉妬を覚えた自分を無視して、深く息を吸い込んだ。声が震えないよう、一息に言葉を吐く。
「心配かけてすんません。すぐ帰りますから、美月さんにも伝えといてください」
『おう。じゃ、待ってっから。……気ぃつけて帰って来いよ。東京は男でも危ねぇからな』
言葉尻に真剣な響きが合った。思わず頬が綻ぶ。こんな些細な気遣いでも、救われたような気がしてしまう自分が馬鹿みたいだ。
もう誤魔化せない。
揺らいでいた心が、一点に定まる。闇に光が集まるように、砕け散っていた感情が明瞭な決意に収斂されていくのを、自分でもはっきりと感じた。
「はい。ありがとうございます。また後で」
自分でも思った以上に柔らかな声が出た。電話を切っても、心はほんのりと温かいままだ。
まだ少しチクチクと痛むが、この痛みを失くすことは当分できそうもない。ならばいっそ、当たって砕けてしまえばいいのだ。
弦也は心を決め、先ほどとは打って変わって毅然とした足取りで歩き出す。
樛に想いを伝えよう。それで全ての決着がつく。玉砕は目に見えているが、それでいいのだ。
もう二度と、自分の心を裏切ってはならない。その思いだけを胸に、弦也はギリギリで終電に飛び乗った。
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