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樛の誤解
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◇
師走も半ばに入った。樛は『Calme』のロッカールームで煙草をふかしながら、束の間の休息を取っていた。ここ最近の客入りは目を剝くほどで、おちおち休んでいる時間も取れない。今日だって客席が人で埋まってしまい、店の外には長い行列までできているのだ。
つい先月までは万年閑古鳥が鳴いていたのに、この栄転ぶりはどういうことなのか。くすんだ煙を天井に向かって吐きながら、店内へと続く階段に目を向けた。ここは防音になっていて聞こえないが、扉を少し開ければ唄瀬が弾くピアノの旋律が聞こえてくるだろう。
あのピアノを聴きたいがために客が殺到しているのだと思うと、誇らしい反面、嫉妬じみた複雑な感情が胸中に渦巻く。
唄瀬には才能がある。本人にその気と自覚がないだけで、本当はプロの世界でも十分通用するだろうレベルの才覚があるのだ。しかもここ数週間でその腕はさらに磨きが掛かったように思える。ほんの少し前までの、どこか迷いのある旋律ではなく、今はただひたむきで誠実な音を、一音ずつ丁寧に紡ぎ出していた。
なにか、心境に変化があったのは間違いない。それが美月の過干渉によるものでないことを祈るばかりだが……。
気になるのは、近頃、唄瀬が自分に向ける笑みが妙に弱々しいということだ。以前のように馬鹿正直な笑みをむけてくるでもなく、かといって不機嫌なのかといえばそれも違う。なにか躊躇いがちに、こちらの様子を伺っているような雰囲気なのだ。
『樛さん……俺』
もう何度聞いたか分からないそのセリフの先を想像し、樛は顔をしかめた。
ここ数週間、唄瀬はことあるごとにこうして何かを言いかけ、そのたび忙しさに押されて宙ぶらりんのまま去っていくのだ。家にいてもそうだ。唄瀬が何か言いたそうに口を開くたび美月があれこれと口を挟むせいで、結局その先の言葉を聞くことが出来ずにいる。
だが予想はつく。
樛は煙草を挟んだままの手をぶらりと垂れ下げ、きつく目を閉じた。
きっと、嫌になったのだ。美月の執着に気づき、束縛を感じて窮屈な思いをしているのだろう。最近の美月は唄瀬の帰宅時間まで厳しく口出しをする。遅くなればどこでなにをしていたのか、玄関に仁王立ちしたまま詰問さえしていた。あの活発で芯の強い唄瀬がしどろもどろになるほど、美月の説教は続く。
(そりゃ、嫌にもなるわな……)
母親でも彼女でもない女にあれこれ口出しされて、鬱陶しく思わない人間はそうそういない。が、唄瀬は変なところ真面目で実直な性格だ。美月の束縛を鬱陶しく思うこと自体、負い目に感じてしまっていても不思議はなかった。だからこちらの顔色を伺うような、卑屈一歩手前の態度で接してくるのだろう。
言いたいのは恐らく、あの家を出たいということに違いない。だがあの性格だ。無意味な恩義を感じてそれをストレートに言い出せず、うやむやな調子で言葉を濁してしまっているのだろう。
迷惑をかけているのはこちらなのだから、強硬な態度で突っぱねてくればいいものを。今時珍しいほど義理堅い人間だ。
深く刻んだ眉間の皺を片手で揉み解しながら溜め息をついた。
引導を渡すならこちらから。それも早いほうがいいと、頭では分かっている。だが、どう言い出せばいいのだろう。行く当てのないあいつに、出て行けと言えるほど自分が冷酷だったら良かったのだが。
「ああ……くそっ」
こんなことで頭を悩ますくらいなら、あの時見て見ぬ振りをすればよかったのかもしれない。
煙草の火を消して、カウンターに戻った。店内には唄瀬が弾くラフマニノフのピアノ交響曲第二番が静かに響いている。客たちは皆会話も飲食も忘れ、固唾を呑んでその旋律に聞き入っていた。
「お疲れ様です、オーナー」
ホールチーフの木村が囁き声で話しかけてきた。頷くだけで返し、ピアノに向き合っている唄瀬に目を向ける。
「ほんと、バイトにしとくのはもったいないですよね、彼」
木村はやや猫背気味の背中をコキコキ言わせながら伸びをする。安穏とした男だが、そつのない観察眼でスタッフの動きを読み、常に的確な指示を出すことができるため、ほかの従業員たちからも一目置かれる存在だ。勤務四年目で今年三十歳になった男は、鷲鼻を指の先で掻きつつ唄瀬を見つめていた。
「唄瀬君がいれば、『Calme』( ここ )は超安泰じゃないですか。今日だってこの入りでしょ? オーナー、唄瀬君が音大卒業したらいなくなっちゃうって本当なんですか?」
「ああ、まあ最初からそういう契約だからな」
「もったいないですよー」
木村は食い下がり、顔をくしゃくしゃと歪めた。
「んなこと言ったって仕方ねぇだろうが」
あくまでも唄瀬はバイト奏者として一時的に雇ったのだ。予想以上に客を引き寄せてくれているのはありがたい話だが、これが一過性のものだということは端から覚悟して掛からなければならないだろう。唄瀬がいなくなれば、この店は以前と同じように飽きられ、客足は遠のいていくに違いない。その懸念を木村がいちいち言葉にして伝えてくる。
(んなこと、お前に言われなくても分かってるっつの)
段々鬱陶しくなり、乱暴に右手を振った。
「ま、こっちは細々とでも店が続きゃそれでいいんだよ。唄瀬が辞めて前みてぇに閑古鳥カァカァでも、こんな忙しい毎日よかよっぽどましだ」
本音と建前を五割ずつステアして言うと、木村は鼻白んだような目でこちらを見た。
「ちょっとは真面目に考えてくださいよ。僕だってね、ここより条件のいいとこ見つけたら即効辞めちゃいますよ? そしたらオーナー一人で店切り盛りする気っすか?」
「ナマ言ってんじゃねぇよ」
いつになく真剣な口調で言われ、思わず舌打ちをする。言うときは言う奴だと知っているが、今この状況であまり耳の痛いことを言われたくない。
「お前に辞められたらマジでぶっ倒れっからな、俺」
暗に「頼りにしている」と告げ、軽く頭を小突いてやると、木村は照れたようにはにかんだ。そんな顔を見ていると、こいつもなかなか憎めない。鼻先で笑いつつ、頭の中では僅かな不安が赤々と点滅していた。
木村の言うとおり、『Calme』のスタッフ不足は確かに悩ましい問題だ。ホールスタッフはチーフの木村とバイトが二名。キッチンスタッフは三名いるが、うち二人は学生で、やはり唄瀬と同じように学校卒業までと期間限定で働いている。つまり、じきに辞めることは確定しているわけだ。
そうなると、シフトの調整上、どうしても人手が足りなくなってしまう。機械ならいざ知らず、人間は二十四時間ずっと働き詰めすることはできないのだ。
「ったく、面倒臭ぇな……」
ほかにも、夜の時間に生演奏している唄瀬のような奏者たちが幾人かいて、その人件費もそこそこかさむ。だが、こればかりは絶対に削れない。
音楽を、楽器からじかに紡ぎ出される音の魅力を、訪れる人々に感じて欲しい。樛はその信念だけでこの喫茶BAR『Calme』を起業したのだ。CDやラジオを流せばそれで十分だと思う人間もいるだろうが、自分は違う。奏者と聴く者の間に何かしらの障壁が生じてしまうような音楽はそこら中に溢れている。そしてそういった旋律は日常に埋もれ、すぐさま忘れられていくのだ。
人は自分の目で見たものしか信じない傾向にあるという。いつだって確かなのは自らの五感なのだと、人は無意識にそう確信しているのだ。ならば音だってそうだろう。自らの耳で楽器から直接飛び出す音を聞くのと、ネットの動画や焼付けのCDというワンクッションを挟んだ音を聞くのと、どちらの方がより強く記憶に刻まれるか、答えは聞くまでもない。
巻き戻せば何度でも同じ旋律が聞こえる音楽は安定している分、何度聴いても不変であるがゆえに飽きられるのも早い。だが、自分のすぐ傍で奏者が楽器を弾き、その姿を目に映しながら聴くメロディはいつでも新鮮だ。時に間違うこともあるし、奏者のコンディションによっては聞くに堪えない雑音でしかない日もある。
まったく同じ演奏は二度とできないということを、まったく同じ時間は二度と巡らないということを、誰もに痛感して欲しい。だから樛は、生演奏にこだわるのだ。たとえ経営不振によって人件費が押されようと、奏者たちに解雇を告げることは絶対にありえないと断言できる。
そういう点ではつくづく、唄瀬の存在は大きい。彼の演奏を聞きたいがために人が集まっているという事実は、自分が固く信じてきた何かを目に見える形で実現しているように思えた。
今だって、誰もが彼の演奏に息を飲み、この一瞬を切り取るように意識を集中させている。彼らはきっと、二度と巡らないこの時間を記憶のどこかに強く焼きつけて帰るだろう。そしてふとしたときに、まざまざと、この旋律や唄瀬の反り気味な広い背中を思い出す。
ここはそんな風に、消せない記憶を、奏者と客が一体になって作り上げる空間であって欲しい。そう願って作った店なのだ。
まだ誰にも、そんな青臭い話をしたことはないが。
樛は自らの思考に苦笑いし、未だ続く演奏になどまるで興味ない振りをしながらグラスを磨き始めた。
唄瀬が大学を卒業し、いざこの店を辞めるとなったら自分はどうするだろう。別に店が潰れなければ、以前のように客足が少なくても構わない。だが、唄瀬が奏でるピアノの音がこの店からなくなることを想像すると、ほんの少しだけ寂しいような、惜しいような気がしてしまう。
(だからって、一生この店で働けなんて言えるわけねぇしな……)
本人が望むならまだしも、唄瀬は前途有望な若者なのだ。こちらの勝手な都合でその未来を決め付けることなどありえない。そうでなくても、唄瀬は自分から離れたがっているだろうに。
どうにかして、決着をつけなければ。これ以上、美月が彼に負担を掛けている事実を看過するべきではない。
今夜も上機嫌で唄瀬のために夜食を作っているだろう妻を思い、樛は知らず盛大な溜め息をこぼす。だがそれは、演奏が終わった瞬間に破裂した拍手の音に掻き消され、本人の耳にすら届くことはなかった。
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