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嵐の予感
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◇
「どうしたんすか、難しい顔して」
私服に着替えた木村にそう声を掛けられ、樛はハッと意識の焦点を戻す。ロッカールームの椅子に腰掛けたまま、ぼうっと考え事をしていたらしい。いつの間にか火をつけた煙草が根元まで燃えている。
『俺、アンタのことが――』
先ほど聞いた唄瀬の声が耳から離れず、ずっと頭の中をぐるぐると巡っていた。
「さすがに疲れてますね。やっぱ朝からはきつかったですか」
「ああ……まあな」
言われ、曖昧に頷いた。開店時間の朝九時からシフトに入っていたバイトが体調を崩したとかで、今日はその穴埋めに入ったのだ。
朝九時から深夜一時まで。何時間労働なのか、あえて考える必要はないだろう。ここは自分の店で、人手が足りないのも自分のせいだ。文句を言うなら自分に、と思い苦笑が漏れた。
夜の時間は酒とつまみ目当ての客が多いが、昼間はごく普通の喫茶店として稼動する。いつもと違った客の回転率に辟易したのは確かだ。ウエイターが少ないせいで、いつもはカウンターから離れない自分も、せかせかと店内のテーブルを行き来しなければならなかった。
正直、疲労困憊といった状態なのは認める。だが、家にいるよりこの店にいる時間の方が長いのは、今に始まったことではない。元々体力には自信があるし、この程度の肉体労働でへこたれるほど年を食ったつもりもない。
頭を悩ませ、精神に疲労を与えているのは別の問題だと、樛は自覚していた。が、それを目の前の安穏とした男に伝える気は毛頭ない。
「さすがに年にゃ敵わねぇな」
「ちょっと、やめてくださいよ」
わざと茶化すと、木村が本気で顔をしかめる。
「僕とオーナーって四つしか違わないんですよ。それだけの差で老成した発言されちゃうと、僕までオッサンって思われるじゃないですか」
「誰がオッサンだ誰が」
冷やかすような言葉に本気で顔をしかめると、木村は快活に笑った。
それに釣られた振りをして僅かに頬を持ち上げる。しかし、頭にこびりついた声のせいで、その笑みはひどく引きつったものになった。
唄瀬の言葉と表情を思い出し、眉をひそめて煙草に火をつける。
ここ最近様子がおかしいと思っていた唄瀬が、本格的におかしなことを言い出した。
性的な対象として好きだとか、抱きたいとか。思い出しただけで思考が停止しそうだ。あれは一体どういう意味だったのだろうか。
どことなく晴れやかな唄瀬の顔が頭をよぎる。一歩遠ざかったところから、諦めと誠実さを覗かせながら唄瀬は自分に言った。
『この先もアンタのこと、ずっと好きでいます』
言葉にならない呻きが唇から漏れ出し、深々と項垂れた。それをどう解釈したのか、木村は同情的な苦笑いを浮かべる。
「お疲れ様です。早く帰ってよく休んでくださいね。オーナーにまで倒れられたら、この店終わりますから」
「ああ、はいはい」
適当にいなし、手を振ると、木村は「それじゃ」と言ってロッカールームを出て行った。
一人ぽつねんと取り残された空間で、何度目になるかも分からない溜め息をこぼす。
唄瀬が何か迷っているのは分かっていた。だがそれは当然、美月の過干渉が原因だろうと思っていたのだ。それに嫌気が差して家を出たがっているのだと。
半分は当たっていた、と言えるだろう。結果として唄瀬はあの家を出て行った。
勢いよく吸い込んだ煙が肺を焼く。椅子の背にもたれて宙に吐き出すと、視界がくらくらと歪んだ。
唄瀬は一言も、美月を責める言葉など口にしなかった。そんなことを露ほども考えていなかったのだと、今なら分かる。
ならば差し当たって、唄瀬が家を出たがっていた理由は自分と言うことになる。
「誰が、誰を好きだってんだよ……」
まさかあいつが自分をそんな風に見ていたとは思いもよらなかった。
追いかけても無駄だと分かった、と唄瀬は言っていた。それでもずっと好きでいると。
普段の自分であれば、「馬鹿言ってんじゃねぇ」と笑いながら一蹴したはずだ。だがそうすることができないほど、唄瀬の目は真剣だった。
どさくさに紛れて重ねられた唇を、無意識に舐める。純朴と誠実の塊みたいなあいつが、とっさにあんなことをしてくるとは予想できず、反応すらまともに返せなかった。
男に好意を寄せられていた、という事実だけで頭がパンクしそうだというのに、その相手がよりにもよって唄瀬とは。
自分にとって唄瀬は、ある意味では特別な存在だ。ピアノの腕前に目をつけて即雇用したが、最初はその溌剌(はつらつ)さと毒気のない笑顔が煩わしかった。何がそんなに楽しいんだと、内心、疎む気持ちが強かったような気がする。だが一緒に働くにつれ、その裏表のない性格を好ましく感じるようになった。自分とは百八十度違う、活力に溢れた若さを頼もしく思い、同時に羨ましくも思った。
家でどれほど寂寞とした居心地のなさを感じても、職場に来ればそれを忘れられる。行き場のない苦しさも、束の間忘れていられた。そこで唄瀬が屈託ない笑顔に触れ、胸を突くようなピアノの旋律に耳を傾けるのは、自分にとって確かな救いだった。
最近は仕事そっちのけで、唄瀬のピアノを聴くためだけにここに来ている、と言ったらさすがに無責任だろうか。
家で美月に監視されながら、そうとは気づかず真剣にピアノを弾いている唄瀬を見るのは辛かった。あんな、まともに手入れもされていないピアノで文句一つ言わず、こちらが息を飲むような演奏をしてみせる唄瀬の真正直さが、時々直視できなくなる。
さっきだってそうだ。馬鹿正直に心情を吐露する唄瀬に、自分はなに一つ気の利いた言葉を返せなかった。
唄瀬は、一つ誤解をしている。それに気づいても、何も言えなかった。
美月と自分がとっくに破綻した夫婦仲だということを、唄瀬は知らないままだったらしい。当然と言えば、当然だ。
美月は唄瀬が来てからこっち、ずっと明るい笑顔でいたのだから。出会った頃と同じ微笑みを、自分に向けてくれていたのだから。
だがそれも、今日限りだ。唄瀬が出ていたことを知れば、また以前のようにひたすら自分を憎悪し、排斥しようと癇癪を起こすだろう。
「あー……くそ面倒臭ぇ」
いっそ何もかもを投げ捨てて遠くに行きたい。そんなことが許される立場でないことは百も承知だが。
唄瀬が何を思ってこんな自分に好意を持ったのか、まったく持って理解不能だ。無責任で閉塞的な性格をしていると自認する樛は、すっかり短くなった煙草を揉み消す。
とにもかくにも、帰らなければならない。美月に唄瀬が出て行ったことを知らせるために。
どれほどの波風が立つか、想像するだけで腰と頭が重くなった。
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