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夫婦の終わり
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◇
「唄瀬君は?」
玄関を開けるなり案の定、美月が急き込んで問い掛けてきた。僅かに頬が上気している。樛はその視線を真っ向から受け止められず、顔を背けて靴を脱いだ。
「出てった。ダチんとこに泊まるから、世話になったっつってな」
意識的に淡々と告げると、見る見る間に美月は青褪めて、唇を震わせたまま絶句する。
「そんな顔すんなよ。あいつがいつか出てくのはお前だって分かってただろ」
そう言うと、美月は床にへたり込んでしまった。声を上げて泣き出す。
「美月」
伸ばしかけた手を、止めた。彼女の身体から微かに酒の匂いがする。
ドクリと、心臓が不自然な鼓動を響かせて軋んだ。
唄瀬が来てから、美月が酒に逃げることはなくなったはずだ。なのにどうして、今、彼女の身体からその香りがしているのだろう。
「美月……お前」
口をついて出そうになった言葉を、喉元で押し殺す。
――誰と会った?
自らの脳内で響いたその問いに、舌打ちが漏れた。美月がビクリと肩を震わす。
余計なことを言う前にリビングに向かった。ソファの前に置かれたローテーブルの上にビールの空き缶が数本残されているのを見て、ますます眉間の皺が深くなる。
ずっと、知っていた。美月は自分がいない間に、この家に他の男を連れ込んでいる。その罪悪感から逃れるために、溺れるほど酒を飲むのだということも。
今日も、恐らくそうだったのだ。
確信し、思わずテーブルを蹴り飛ばす。らしくもない自分の行動に目を見張った瞬間、美月の泣き声がピタリと止んだ。
(何やってんだ俺)
感情的になっている自分に動揺する一方で、どうにでもなれという破滅的な思考が脳を侵蝕し始めた。
「どうしたの……?」
そろそろとリビングに入ってきた美月に、半身を向ける。美月は怯えたような顔をして自分を見ていた。
「お前、誰と会ってんだ?」
「え……?」
いつもなら、なにも気づかない振りをして、決して踏み込まない領域に、この日初めて足を踏み入れた。
なぜそんなことをする気になったのか、自分でも分からない。ただ、放っておけばいつまでも続くだろうこの歪んだ関係を、衝動のままぶち壊してしまいたかった。
「俺が何も知らないとでも思ってんのか?」
自分でも残酷な言い方をしていると分かっているが、どうにも歯止めが利かない。
美月は何も言わず、紙のように真っ白な顔で視線をさまよわせていた。
こうなったのは全て自分のせいなのだ。
樛は舌打ちとともに髪を乱暴に掻き回し、ソファに腰を下ろした。
「全部知ってんだよ。お前がここに男連れ込んでんのも、そいつとなにしてんのかも」
言い放ってから、後悔した。けれどもうどうしようもなかった。
心臓が萎縮しそうなほどの沈黙が続く。リヴが不穏な気配を察したのか、取り繕うように鳴いた。
「いつから……?」
しばらくして、か細い声が聞こえてきた。
「いつから気づいてたの?」
事実上の肯定に、なぜか心が軽くなった。
これでやっと終わりにできる。そう思うと、これ以上美月を責め立てる気概が失われた。
ソファの背もたれに身体を預け、ふと笑う。
「かなり前からな」
いつ、とはっきり答えられるわけではない。ただ、それに気づくきっかけはいくつもあったのだ。一つ一つは些細なことで、もう覚えてもいないが、確信するには十分過ぎる気配がこの家に残されていた。
少なくとも一年以上前から、気づいていたのだ。なのに自分は一言もそれに触れず、知りながら口を噤んでいた。
どちらが卑怯かと問われれば、まず間違いなく自分だろう。
美月がゆっくりと床に座り込むのを、視界の端で捕らえる。
「……別に責めちゃいねぇよ」
彼女を幸せにできなかった自分に責める権利などない。
上着のポケットから煙草を取り出し、火をつける。美月が蛇蝎のごとく嫌っていたため、この家でタバコを吸うことはしなかった。
けれど今日くらい、許されてもいい気がする。
長々と煙を吐き出し、たっぷりと時間をかけて吸った。室内には重苦しい沈黙が漂っている。こんなとき唄瀬がいたら、と頭の片隅で考え、そんな自分に呆れ果てた。
(これはどう考えたって俺が自分で蹴りをつけなきゃなんねぇことだろ)
唄瀬は関係ない。
「なあ美月……」
四本目を口にしたとき、その言葉はごく自然に口から漏れた。
「別れるか」
「え……?」
美月はぎこちない動作で顔を上げる。懸命に、今聞いた言葉の意味を理解しようとしているのがその表情から知れた。
樛はビールの空き缶に吸殻を落とし、無言のままソファから立ち上がる。リビングの入り口で呆然と座り込む美月の脇を抜け、自分の私室に入った。ベッドとタンス、それと本棚くらいしかない私室はがらんとして埃っぽい。ここに踏み入るのもずいぶん久しぶりだなと思いながら、タンスの一番下の引き出しを開けた。
そこには、いつか外した結婚指輪を重石代わりに、一枚の紙が入っている。それを持ってリビングに取って返し、ダイニングテーブルについた。
「美月、座ってくれ」
髪をテーブルの中央に置き、美月を呼んだ。声のトーンから逆らえないと踏んだのか、美月はのろのろと立ち上がってこちらに近づいてきた。
テーブルの上を見た美月は大きな瞳を見開いて硬直する。視線はその紙の文字をじっと凝視していた。
「座ってくれ、美月」
樛はもう一度、今度はできる限り優しく、座るように促した。だが美月は凍りついたように動こうとしない。仕方なく立ち上がり、自分と向かい合う席の椅子を引いて美月を座らせた。
自分たちの間に、一枚の紙がある。夫婦の関係に終止符を打つための紙だ。
既に自分の名前を記した離婚届を片手で滑らすようにして美月に差し出した。
「ずっと渡そうと思ってたんだ」
本当はもっと早くこうするべきだった。自分と言う存在から彼女を解放するためには、これしか手段はない。
「悪かったな。回り道させちまって」
心の底から申し訳なく思った。自分と結婚しなければ、こんな思いをさせることもなかったのだ。
美月は手のひらで口を覆い、見開いた瞳から大粒の雫をこぼしている。
「……一つだけ、聞かせてくれねぇか」
この期に及んで未練がましいとは思ったが、どうしても聞いておきたいことがあった。
「そいつはいい奴か?」
美月が定期的に会っている人物に、心当たりがないわけではなかった。以前、美月がまだ音楽教室に勤めていた時分、人当たりがよく気さくな上司がいると聞いたことがある。確実にそいつだと言えるわけではないが、美月の性格からして、相手は特定の一人だろうと気づいていた。
美月は一途だ。それは過去の自分が一番よく知っている。
互いの心が離れても、その形まで変わってしまうことはない。
「答えてくれ。俺はただ、それだけを知りてぇんだ」
見苦しく問い重ねると、美月は上目遣いでこちらを見つめてきた。傷つき果てた瞳を見たとき、自己嫌悪はピークに達した。
どうして、こんなに大切な女を幸せにしてやれなかったのだろう。結婚当初、必ず幸せにしてやるんだと意気込んでみせた自分が呪わしい。
(俺に、他人を幸せにする才能はなかったってことだ。独りよがりで生きてたんだから、当然っちゃ当然だよな)
ふがいない自分を直視すると、消えてしまいたくなる。せめて、時間を戻せたらいいのだが。
美月と出会う前まで。最初からやり直せたらどれだけいいだろう。
ややあって、美月は頷く。自らに言い聞かせるかのように、何度も。そのたび瞳から涙が零れ落ち、離婚届が濡れていく。
「……そうか」
それなら、いい。
「俺に言えた義理じゃねぇけどよ……今度こそ、幸せになってくれ」
約束だぞと念を押したくなる衝動を堪え、席を立った。
「ごめんな、美月」
身体を震わせて泣きじゃくる美月を置き去りにして私室に向かった。カビ臭いベッドに倒れ込む。
神経がささくれ立っているのか、睡魔は一向に訪れなかった。
鈍く痛む額を押さえつつ、いささか長すぎた今日という一日を振り返る。朝から晩まで働いて、唄瀬にとんでもない告白された挙句、美月に別れを切り出すことになるとは。
今日一日でなにもかもがひっくり返ってしまった。同じ時間は巡らない。二度と過去には戻れない。その持論がここまで酷な未来を引き寄せるとは思ってもみなかった。
明け方に、美月が家を出て行く気配がした。扉が閉まる音を聞き、目を閉じる。
胸を刺すような後悔と安堵が溢れ出した。奥歯を噛み締めて嗚咽を堪える。
(これで良かったんだ。やっとあいつを自由にしてやれた)
この先の彼女に幸せな未来があって欲しい。ただひたすら、それだけを願った
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