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どうして
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◇
新年早々、ぎょっとするようなニュースが飛び込んだ。
「知ってた? オーナーって結婚してたんだって!」
「えー? 嘘ぉ」
樛の名前が出たことで、うっかり聞き耳を立てたのがきっかけだ。
ロッカールームは男女兼用で、一応カーテン一枚の仕切りはあるものの、声は筒抜け状態だった。新しくシフトに入った女子高生と、前々から働いていたホール担当の女子大生が甲高い声で喋っている。
「ほんとなんですかぁ? あたしちょっといいなって思ってたのにぃ」
媚びるような声を聞きつけ、ムッと顔をしかめた。
(先に目をつけたのは俺だぞ!)
叫び出したいのを堪え、タキシードに袖を通す。
告白以来、樛とはあまり話せていない。翌日、樛の自宅に残してしまった教科書やもろもろも私物を受け取って、忘れていた合鍵を返した。樛はいつもどおりだったが、こちらの胸中は穏やかではなかった。
あの告白に対する反応が何もないのだ。それは確かに、面と向かってはっきりと断られるよりはいい。けれど、今までとまったく変わらない態度で接せられると、一世一代の覚悟が虚しく思える。
内心で大きく溜め息をついている間にも、姦しい笑い声は続いていた。
「みっちゃんとオーナーじゃ親子にしか見えないって」
「だぁってぇ。オーナーかっこいいじゃないですかぁ」
甘ったれた口調が癇に障る。
(だから、最初に目をつけたの俺だから!)
臍を噛みながらロッカーを閉めた。
「でも、結婚してたんだぁ……残念」
「それがね、最近離婚したんだって」
「はあっ?」
思わず声を上げたのは自分だった。慌てて口を押さえる。
「……今の誰?」
「さあ?」
ひそひそと訝るような言葉が聞こえたが、それどころではなかった。
「え、で? 何でしたっけ?」
「だから、最近オーナが離婚したって話よ」
「えー? なんで?」
「さあ。でもちょっといい話よね。私アタックしちゃおっかな」
「えーずるいですよぉ」
きゃっきゃとはしゃぎ合う声に、弦也は呆然とするしかない。
樛が離婚した? 美月さんと?
「なんで……」
そんな話、一言も聞いていない。
噂の内容より、そのことの方がショックだ。
(いや待て。ありえないだろ。あの二人が別れるなんて)
あれほど円満そうだったのに、この短期間で離婚に発展するまでこじれるとは思えない。
噂は所詮、噂だ。頭から信じて掛かるのは馬鹿馬鹿しい。
そう自分に言い聞かせながらも、嫌な汗が背中を伝う。
もしも噂が真実なら? 原因になったのは自分かもしれない。あの告白が、二人の絆に亀裂を入れたのではないか。
そんなはずはない。けれど、万が一そうだったら。
自分は取り返しのつかないことをしたかもしれない。
心臓が破れそうなほど不規則に脈打った。
その日のバイトは散々だった。上の空で演奏していたためミスを連発し、挙句指先がひどくかじかんで演奏が止まってしまった。曲への冒涜だとお客さんから野次が飛んだのは痛恨の失態だ。
自分のメンタルがここまでピアノに影響するなんて。飛鳥にあれほど言われたのに、全く成長していない。
お客さんたちだけではなく、従業員にまで気遣わしげな視線を向けられ、正直いたたまれなくなった。バイト終了時刻、逃げるようにしてロッカールームに引き上げる。
(皆、俺のピアノを楽しみにしてくれてるのに)
期待を裏切ってしまった。これでは奏者失格だ。
仕事とプライベートを切り離せない自分の不器用さが恨めしい。
悄然としながらタキシードを脱ぎ、私服に袖を通した。
一つ救いがあるとすれば、今日に限って樛が珍しく休みを取っていたことだ。おかげでこんな無様な演奏を聞かれずに済んだ。だが、そのことが却って自分の焦燥感を煽っていることも確かだった。
樛と話したい。直接会って真実を確かめたい。その思いだけが空回りし、唯一のとりえであるピアノすら疎(おろそ)かになってしまった。
自分が未だこの『Calme』で樛の傍にいられるのは、ピアノがあるからだ。樛だけではなく、ここに訪れる客の多くが自分の演奏を認めて、期待をかけてくれているからこそ、ここにいられる。
従業員の中には、掃除も接客もせず、ただひたすらピアノを弾いているだけの自分を「客寄せパンダ」と揶揄してくる者もいる。彼らは忙しなく、また休みもなく動き回り、押し寄せる客たちに最高のもてなしをしている。それが重労働なのは間違いない。ただでさえ人手が足りない中、日ごと増える客を効率よく回転させるため、より多くの仕事をこなさなければならない彼らからしたら、ピアノの前でひたすら演奏に没頭している自分を疎ましく思うのも当然だ。少し前、自分も彼らを手伝いたいとさりげなく相談してみたが、樛にそれを止められた。
大事な指を怪我でもされちゃ困る、と。その気遣いは嬉しかったし、同時に重いプレッシャーにもなった。
つまるところ、自分が認められているのはピアノの腕だけだ。それをなくして、ここにいる権利はない。自分のために頑張ってくれる従業員たちや、自分のためにわざわざ遠いところからやって来てくれるお客さんたちのために、一曲一曲を真剣に演奏する義務があるのだと、はっきり自覚させられた。
ピアノだけが、自分と樛を繋いでいる。それを失くせばもう二度と彼の傍にいられない。
だからこそ、今日の自分がしでかした失態を許せないのだ。自分の演奏が客と従業員たちを失望させた。
(せっかく認めてくれてたのに……)
さっき自分に怒鳴り散らしてきた中年の男は、妻と娘を連れていた。「やる気がねぇなら辞めちまえ!」と一喝したその表情は憤怒に満ちていて、傍らで彼の娘が怖々と父親を見ていた。
(あの人だってきっと、娘さんを音楽に触れさせたかっただけなんだ)
きっと彼は、もっと純粋な気持ちで、〝ピアノはすごい〟〝音楽は素晴らしい〟と娘に伝えたかったのだろう。そのために演奏を聞きに来て、それがあの体たらくだったら、怒るなと言うほうが間違っている。
(あの人はたぶんもう、ここには来てくれないだろうな……)
誰かの期待に応えられなかった時ほど、悔しくて情けない思いをすることはない。
今日の演奏を引きずれば、確実に客は離れてしまうだろう。樛に「客を集められないなら、もう要らない」と引導を渡されでもしたら、自分がどうなってしまうか分からない。
ただ、傍にいたい。その思いで始め、未だ続けているバイトだ。自分の心のありよう一つで存続が危ぶまれるなんて堪ったものではない。
「よしっ」
弦也は両手で自分の頬を叩き、気持ちを切り替えた。
樛に会いに行こう。そう決め、コートを羽織る。
「よ、お疲れ様」
その時、ホールチーフの木村が階段を下りてきた。
「お疲れ様です」
頭を下げると、木村は鼻に皺を寄せる独特な笑顔でこちらを見る。
「今日はどうした? ずいぶん荒れてたじゃないか」
「すいません……ちょっと気になることがあって」
恐縮しながら言う。木村は「そっか」と呟いて椅子に腰を下ろした。
「オーナーのことか?」
「えっ?」
いきなり図星を突かれ、声が裏返ってしまった。木村はククっと忍び笑いを洩らし、低い位置からこちらを見つめてくる。
「こないださ、お前がオーナーに告ってるの聞いちゃったんだ」
「え……」
一瞬頭が真っ白になった。あれを聞かれた。
(嘘だろ……)
「あ、心配しなくていいぞ。誰にも言ってないし、僕にそういう偏見もない」
スッと血の気が引いた自分に、慌てて木村が片手をかざす。
「そう、ですか」
かろうじて口から漏れたのはそんな言葉だ。まだ頭の中がぐらぐらしている。
「採用当時から思ってたんだけどさ、お前の演奏って、なんかどの曲も甘酸っぱいっていうか、恋心駄々漏れって感じなんだよな」
苦笑され、耳まで熱くなった。そんなに分かりやすかったのだろうか。
「それがいいんだって、オーナーは言ってたよ。『音楽は誰かを思って作られてんだから、誰かを思って弾きゃいいんだ』って。……まさかその対象が自分だとは思ってなかっただろうけど」
肩を揺すって笑う彼の言葉に、胸の奥がじんわりと暖かくなった。今このタイミングで自分にそれを伝えてくれる木村の気遣いが嬉しい。
「実は、変な噂話を聞いて」
「どんな?」
「それは……」
思わず言いよどんだ。まだ確かではない情報を悪戯に流すのは、無責任に噂を広めるのと同じだ。
そんな逡巡を察したのか、木村は「ま、いいよ」と軽く頷いた。この人はこんな風に、物事を俯瞰して最適な立ち位置を見極めるのが上手い。視野が広いのか、心が広いのか。いずれにしても自分とは正反対の性格をしている。
木村は膝頭の上で手のひらを組み、小さく溜め息を洩らす。
「オーナーは自分のこと全然話さないし、口が悪いから誤解されがちだけど、ほんとは全部計算してるんだよな。あの毒舌は他人との距離間を保つための道具であって、本心とはかけ離れてることが多い。知ってたか?」
問われ、曖昧に首を動かした。そんな気はしていたけれど、なぜそんな風に樛が人を遠ざけているのかまでは分からなかったからだ。
「僕はオーナーの過去を全然知らない。知ってるのは元々サラリーマンで、結婚を機に仕事を辞めてこの店を起こしたってことだけだ」
木村は樛が既婚者だと言うことを知っていたらしい。美月にも会ったことがあるという。
「でも、どのくらい前かな……理由は分からないけど、あの人が時々すごく暗い顔をするようになったんだよ」
木村の言葉に目を見張る。
樛の暗い顔なんて、見たことがない。自分の前ではいつも皮肉げな笑みを見せていたし、そうでなければ美月さんに微笑みかけていた。
(俺の知らない樛さんがいるんだ)
本人が意図して隠している、本当の彼が。
樛は今、どんな気持ちでいるのだろう。つくづく、彼のことを何も知らないのだと思い知らされ、きつく拳を握り締めた。
表面だけしか知らないのに、それで満足していたのだ。目には映らない心の裏側で何を思い、抱えているのか。知ろうともしなかった。
こんな自分に「好きだ」なんて言われても、嬉しくなかっただろう。あの告白がうやむやにされたのは樛の温情だ。本心では怒鳴り散らしたかったかもしれない。「なにも知らねぇくせに」と、冷たく突っぱねるだけの権利を持っていて、樛はそうしなかった。
その優しさに甘えていたのは自分だ。
「最近もちょっと変だった。お前の告白が原因かなって思ってたんだけど、どうも違うっぽいよな」
ぎくりと強張りかけた自分に木村は首を傾げる。しばらくそうしてたが、結局それ以上の推測を口にしなかった。
「ところでお前、今からオーナーに会いに行くんだよな?」
「はい」
「じゃ、ちょうどいいや」
木村は邪気たっぷりの笑みを浮かべる。
「今日はあの人がいないせいで殺人的なシフト組まされてるんだ。ホール担当の僕がバーテン兼務なんてどう考えてもイカレてるだろって、文句言っといてくれよ」
「はあ……」
呆気に取られつつ頷くと、木村は「よし」と力強く立ち上がった。
「任せたぞ」
一瞬だけがっしりと肩を掴み、木村は颯爽と去っていった。きっとこの後も閉店までカウンターで仕事をするのだろう。『Calme』(この場所)には、樛の代わりに仕事をしてくれる木村がいる。
だがこの世界のどこにも、本当の意味で樛の代わりになる人間などいないのだ。
弦也はマフラーを巻きながら裏口から出た。気の急くままタクシーに乗り込み、樛のマンションへと向かった。
美月さんがいてくれればいい。噂が嘘であればいい。そう思う心の中に、醜い本心が見え隠れしている。
もしも噂が本当なら、今度こそ樛を手に入れられるかもしれない。
そんな不埒な考えが一瞬でも脳裏をよぎったことに、弦也は気づかない振りをした。
だから、間違ってしまったのだ。もしもこのとき、自分がどれほど盲目的になっているのか、少しでも振り返る余裕があったら。
あんな徹底的な拒絶を受けずに済んだかもしれないのに。
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