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口は災いの元
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◇
樛のマンションの前でタクシーを降り、エントランスに駆け込んでエレベーターに乗り込んだ。ゆっくりと上昇する間も、もどかしくて堪らなかった。
『……どちらさん?』
インターホンを押し、樛の声を聞いた瞬間、頭の中で考えていたことが全て吹き飛んでしまう。
「あの……俺です。唄瀬です」
喉の奥がひどく乾いていた。束の間の沈黙にスッと体温が下がる。
もしかしたら、迷惑だったかもしれない。いや、もしかしなくても迷惑だっただろう。休日にいきなり押しかけているのだ。
「すみません……あの」
何を言えばいいか分からず、途方に暮れた。ややあって玄関の鍵を開ける音がした。
「どうした?」
僅かに開いた扉の隙間から、樛が顔を出す。ひどく疲れたような表情でこちらを見ていた。右手にウィスキーのボトルを提げている。
「あの、美月さんは……」
「いねぇよ」
端的な返答に肩が下がった。樛は妙に冷めた目をしている。
こんな樛は見たことがない。
「入るか?」
「あ、はい……」
掛ける言葉も見つからず、促されるまま中に入った。無言で背を向け、廊下を進む樛は、その間にもボトルに口をつけている。緩やかに上下する無骨な喉仏がやけに色っぽく見えて、慌てて視線を逸らす。
「美月になんか用だったのか?」
ソファに腰を下ろした樛が、こちらを見ないまま問い掛けてきた。ローテーブルの上には酒の空き瓶と満杯になった灰皿が放置されている。
弦也は躊躇いつつも首を振った。
「いえ……あの、美月さんと別れたって、本当なんですか」
言ってしまってから、口を噤んだ。なんて無神経な質問だったのだろうと後悔してももう遅い。
樛はボトルを傾かせた手を止める。
「誰から聞いた?」
「誰って言うか……噂になってて」
正直に答えると樛は僅かに片頬を吊り上げた。
「まあ、噂ってのは案外簡単に広まるもんだよな」
その言葉は、噂を否定するものではなかった。それに、今この場に美月さんがいないということは、やはり……。
座れ、と促され、樛の隣に腰を下ろした。
「俺の、せいですか……?」
「あ?」
恐る恐る問うと、樛が目を丸くした。そのあとでゆっくりとその目が据わる。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。なんでお前がそんなこと心配してんだ」
「だって、俺が、樛さんにあんなこと言ったから……った!」
かなりの力で後頭部を叩かれた。
「バァカ。それとこれとは全然関係ねぇよ」
吐き捨てるように言い、さらにボトルを煽る。
その言葉にどこか安堵する自分がいた。けれどそれを悟られたくなくて、口を開く。
「じゃあ、」
「どうして、って聞きたそうな顔だな」
喉の奥で笑いながら空いていたグラスにウィスキーを注ぎ、手渡してくる。受け取ったが、どうしても口に運べなかった。
「聞いたとこで面白ぇ話じゃねぇぞ」
そう前置きされても、聞きたかった。樛の全てを知りたかった。
そんな意思を見抜いたのか、樛は長々と嘆息し、呟いた。
「ずっと前から、あいつとは終わってたんだ」
明かされた二人の過去は、あまりに衝撃的なものだった。
長らく子供ができず、不妊治療の末に授かった息子を流産で亡くしたこと。それ以来夫婦の絆は途絶えたこと。そして彼女がほかの男性と浮気をしていたこと。それに気づきながら見て見ぬ振りをしていたこと。
樛は感情も抑揚もない声で淡々と語った。意識的にそうしているのは明らかだった。
「俺はずっとあいつを苦しめてきたんだ」
「でも、それは樛さんのせいじゃ」
「俺のせいだよ。あいつは何も悪くねぇ」
その言葉だけがやけにはっきりとしていた。
悪くないなんてことはない。だって、こんなにも想ってくれている樛を裏切って、ほかの男と浮気をしていたのではないか。
あの日、教科書を取りにここに来たとき寝室から聞こえてきた彼女の声を思い出す。あの時はまさか、相手が樛じゃないなんて思いもしなかった。
あの優しい美月さんが、影ではそんなことをしていたのだと思うと、胃が不快感に満たされる。あの笑顔は偽りだったのか。
(そんなの、許せねぇ)
ぎゅっと拳を握り込んでグラスを睨みつける。
「俺なんかと結婚しなきゃ、あいつは今頃、ちゃんと母親になれてたんだ。当たり前みてぇに笑って、温けぇ家庭を持ててただろうな」
樛は自嘲気味な笑みを浮かべ、喉を鳴らしてウィスキーを飲み干した。
今さらになって、ようやく気づく。樛は自分自身が嫌いなのだと。大切な人を幸せにできなかった自分に負い目を感じているのだ。だから必要以上に他人と距離を置き、一人でいることを好んでいる。
今だって、こんなに近くで話しているのに、樛はどこか遠い。固く閉ざされた壁を挟んでいるかのようだ。
音もなく立ち上がった樛が別の酒瓶を持って戻ってくる。
「これ以上は身体に毒っすよ」
「うるせぇ。お前に説教される覚えはねぇよ」
小バエでも払うかのような仕草で手を振り、直接口をつけてボトルを煽った。自棄になっているかのような飲みっぷりに何も言えなくなってしまう。
その時、弦也の胸中に湧き起こったのは怒りだった。ひとえに、美月への。
樛がここまで傷ついているのは彼女のせいだ。別れを切り出したのは樛で、彼女はそれを受けた。事情を知らない人間から見れば非道なのは樛だと誰もが思うだろう。
樛はただ、「あいつには幸せになって欲しかった」と言った。それが本心からの言葉なのは間違いない。だからこそ、身を切るような痛みに耐えて別れを切り出したのだろう。そんなことは、この樛を見れば一目瞭然だった。
これだけ想われておきながら、樛を一人きりにしたなんて。
彼女は樛を裏切った。あの優しい笑みの裏で、ずっと樛を傷つけていたのだ。
(俺なら絶対、そんなことはしない)
誓って、樛を傷つけるようなことはしない。そんな傲慢な考えが行動に出た。
「おい何す……っ!」
強引にボトルを取り上げ、口づける。樛が目を見開いて硬直したのをいいことに、乾いた唇を割って舌を滑り込ませた。
「んっ……! んんっ!」
ぎょっとしたように身を引こうともがく樛を渾身の力で押し倒す。必死に顔を背けようとする顎先を掴んで固定し、さらに深く口づけた。
酒の味がする唾液をねっとりと絡め取り、逃げ回る舌を捕らえてきつく吸い上げる。やっぱり苦い。
「ふっ……んっ!」
ふと触れ合った頬に彼のひげが掠り、たまらなくなった。
(この人が好きだ。ずっと、ずっと、こうしたかった……)
溢れる感情のまま、執拗に舌を追い回す。樛が身体の下で膝を蹴り上げ猛抗議してくるが、無視した。酔っ払いの抵抗などあってないようなものだ。
唇を離さないまま左手を動かし、樛が着ている濃紺のセーターの下に滑り込ませる。指先が冷たかったのか、ビクリと樛が身体を浮かせた。予想していたよりもがっちりとした腹筋を指先で撫でる。
そっと唇を離すと、鋭い視線が向けられた。
「お、い……やめろ……っ」
酸欠になったのか樛は胸を大きく上下させながら呻く。
「お前と、んなことするつもりはねぇ……っ」
はっきりと告げられても、動揺することはなかった。
少し前なら、ここまで強引に踏み切れはしなかっただろう。樛と美月が円満な夫婦だと思っていたときは、樛にこうして触れたいと思うこと自体が後ろめたくて仕方がなかった。
飛鳥に〝奪ってしまえ〟と唆されたとき、そうしたいと思った自分自身に恐怖した。大切な人たちをこの手で傷つけてしまうかもしれないと。
けれど現実はどうだ。二人はとっくに破綻していて、樛はずっと傷ついていた。そしてそれは自分のせいではない。樛のせいでもない。
美月のせいなのだ。
確かに、最愛の子供を授かり、それを失ったのは美月のせいではない。誰のせいでもない。二人の苦しみは想像もつかないし、慰めの言葉を口にする権利は自分にないだろう。だが。
それでも樛は美月を想い、その幸せを願っていた。自らを責め続け、彼女の裏切りを看過しながら。樛が傷ついているのは、美月のせいだ。
彼女を卑怯だと思う自分は狭量だろうか。
「俺、アンタに言いましたよね。アンタとどうこうなりたいわけじゃないって。覚えてますか?」
樛の目を覗き込みながら問い掛ける。樛は困惑だけを浮かべてじっと黙り込んでいた。
「あの時言ったことは、本心じゃないんすよ。ほんとはアンタのこと、美月さんから奪いたかった」
「お、前、何言ってんだ……」
掠れた声を聞き、弦也は微かに微笑んだ。美月に対する残酷な気持ちを、このときようやく自覚した。独占欲が急速に肥大する。
ここで、止まればよかった。のちのちになってそう思うことになるが、今はただ目の前の男を自分のものにしたくて仕方がなかった。
だから言葉にしてしまったのだ。
「あの人がアンタの妻じゃなくなって良かったっす。これでやっと、堂々とアンタを口説ける。あんな女、最初っからアンタに釣り合う女じゃなかったんすよ」
その瞬間、鼓膜に鋭い音が響いた。一拍遅れて左の頬がカッと熱くなる。
平手でぶん殴られたのだと知ったのはその後だった。
「取り消せよ」
心の底から凍りつくような冷徹な声が聞こえ、自分がとんでもないことを口走ったのだと気づく。
「取り消せっつってんだよ」
怒気を孕んだ唸り声に、身体が震えた。樛はあらん限りの憎悪を込めた目で自分を見ている。
「あ……すみ、ません、俺」
「あいつに釣り合わなかったのは、俺の方なんだよ! 何も知らねぇくせに、知ったような口利いてんじゃねぇ」
ひび割れた瞳に睨みつけられ、思わず身体を離した。その隙に起き上がった樛がソファを下り、寝室に消える。
戻って来たとき、何かが乱暴に投げつけられた。厚い封筒が床に落ちる。
「給料だ。それ持って消えろ。……二度とその面見せんじゃねぇ」
そう言って、樛は再び寝室に戻り、けたたましい音を立てて扉を閉めた。
後には鼓膜を劈くような静寂が残る。
唯一の糸が切れた。その事実に足が竦んで動けない。
どんな後悔も、過去を取り戻せはしないのだと、このときになって初めて思い知った。
呆然としながら樛のマンションを出て、弦也は自分を呪う。
あんなことを言うつもりはなかった。どうして、あんな言葉を口にしてしまったのだろう。
樛を傷つけることはない。そう誓った自分が、樛の一番大切な人を罵るなんて。
「最低だ……俺……っ」
消えてしまいたい思いが胸中に溢れ返り、涙となって零れ出す。
張られた頬の痛みが心臓を貫いたまま残っていた。そっと手のひらを添え、唇を噛み締める。
『何も知らねぇくせに』
吐き捨てられた一言が心に風穴を開けた。
樛の話を聞いていたのに、どうして何も理解していなかったのか。
美月さんがどんな思いで他の男と寝ていたのかなんて、知りたくもないと思ってしまった。ただ樛を裏切った事実だけを見て、稚拙な優越感に浸りたかった。自分ならそんな馬鹿げたことはしないと。
だけど、彼女だってきっと、苦悩しなかったわけではないのだろう。樛の想いに気づいていなかったわけではないのだろう。
夫婦のことは夫婦にしか分からない。ただの他人でしかない自分が、分かったような気になって踏み込んでいい領域ではなかった。今さらそう思い至っても、もう遅過ぎる。
もう終わりだ。何もかも。自分自身で壊してしまったものは、どう足掻いても取り戻せない。
「ごめんなさい樛さん……っ……ごめんなさい」
何度口にしても、許されはしない。それだけのことを自分はしてしまった。
樛は自分を信じて、全てを包み隠さず話してくれたのに。それを一番手酷いやり方で裏切ってしまった。
血が滲むまできつく唇を噛み締めても、涙は止まらない。仄かに苦い口づけを思い出し、嗚咽が漏れた。
もう二度と、樛には会えない。それだけが確かだった。
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