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背中を押されて
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◇
まだ夢を見ているみたいだ。
弦也はベッドを背に床に座り込み、そっと微笑む。振り向けばうつ伏せに眠る樛の寝顔があった。微かにいびきが聞こえる。
先ほど隣で目を覚ましたとき、この穏やかな寝顔を見て、なぜか泣きそうになってしまった。
(こんなに幸せでいいのか俺……っ)
そのまま見ているとまたぞろ触れたくなってしまうと分かったため、こうしてベッドを這い出し、無駄かもしれない抵抗を自分に試みているのだった。
暖房の効き始めた室内でぼうっと天井を見上げる。こんな日が来るなんて、今朝まではまったく思っていなかった。もう二度と樛には会えないのだと、触れることはおろか顔を見ることも許されないのだと思っていたのに。
幸せすぎるのもまた一つの苦痛なのだと、今日初めて知った。いつまで、樛は自分を傍に置いてくれるだろうか。そんな不安が頭をよぎり、己の女々しさに溜め息が漏れた。
背後で樛が身じろぐ。はっとして振り返れば、樛が気だるそうな瞳でこちらを見ていた。
「あ、水飲みたいっすか? 持ってきますね」
胸中の不安を気取られたくなくて、返事も聞かず立ち上がる。コップを持って戻ってくると、どうにか身体を起こしたらしい樛がそれを受け取った。一口飲んで顔をしかめる。
「……喉痛ぇ」
「変に声我慢するからっすよ」
行為の間、ずっと自身の腕に噛み付いて声を堪えていた樛を思い出してそう言えば、
「うるせぇ」
樛はさらに顔をしかめて視線を逸らす。僅かだが確かに耳が赤くなっているのを見て、俄かにテンションが上がった。
(つ、樛さんが照れてる……っ)
内心いたく感激しながらも、自制心を持って樛の隣に腰を下ろす。
「煙草、取ってくんねぇか」
「あ、はい」
ベッドサイドの棚に放置されていた箱を取って渡す。樛はくわえた煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。自分も許可を得て一本もらい、浅く煙を吸い込む。樛の好きなラークメンソールはやっぱり重い。
噎せないように慎重に吸っていると、樛がふと口を開いた。
「お前、進路はどうなってんだ?」
「え、進路っすか? まだ、何も決まってないっす」
答えたと同時に、飛鳥に誘われていたことを思い出す。フランスでの公演会に同行しないか、というあの話を聞いたのは今日のことだ。その後の出来事が衝撃的で完全に忘却していた。
あの話を聞いたとき、行きたいと思ったのは本心だった。けれど今は違う。せっかく樛とこうなれたのに、それをむざむざ打ち捨てるようなことは絶対にしたくない。
胸中で諦めをつけ、樛に笑顔を向ける。
諦め、という時点で未練があるのだという事実はこの際無視した。
「俺、この先もずっと、『Calme』で働きたいっす。ピアノ奏者だけじゃなくて、もっとちゃんとお客さんに接することもしたいし、皆の手助けができたらって、ちょっと思ってたんすよ」
自分を受け入れてくれる多くの人たちのために、何ができるか。何をするべきか。しっかり考えなければならない。
樛は「そうか」とそっけなく頷き、黙り込んだ。その態度に少しばかり焦る。何かまずいことを言っただろうか。
しばらくの間、室内は静まり返っていた。何か言うべきかと迷い、薄く口を開いたとき、樛はふと口角を上げてこちらを見た。
「お前が働きてぇってんなら、ずっといりゃいい。俺もお前にゃいてもらいてぇしな」
「ほ、ほんとっすかっ?」
その答えに心の底から安堵し、声が上擦った。樛は今、自分にいて欲しいと言った。その言葉だけで胸が一杯になる。
「ずっと、いてもいいんすか? ほんとに?」
「ああ」
急き込んで問うと、樛は穏やかな苦笑を浮かべて頷く。あまりの嬉しさに思わず歓声を上げ、ガッツポーズを取ってしまった。
樛はそんな自分を呆れたように眺めつつ、灰皿に煙草を押し付ける。
「だから……行って来いよ」
「え、」
ピタリと動きを止め、樛を見つめた。
「ど、こに……?」
掠れた声で愚問を吐く。樛は答えなかった。束の間、呼吸が止まる。
樛は視線を逸らし、立てた膝に頬杖をつく。
「お前にとって悪い話じゃねぇだろ。あいつが言うとおり、もっと広ぇ場所でお前の腕を試すにゃ、いい機会なんじゃねぇのか」
肩の力がふっと抜ける。じわじわと心が揺れ始めるのを、強引に無視して首を振った。
「嫌です。行きません」
「嫌って、お前なぁ……」
「だって俺、アンタの傍にいたいから……っ」
一分でも、一秒でも長く。三ヶ月も離れるなんて、絶対に無理だ。耐えられるはずがない。そう言うと、
「甘ったれてんじゃねぇ」
樛に思いっきり後頭部をはたかれた。妙に懐かしい感じがして、まじまじと樛を見つめる。樛は呆れたように眉をしかめ、久しく見る説教じみた顔をこちらに向けていた。
「お前は視野が狭めぇんだよ。ピアノもそうだけどよ、一つのことにのめり込んじまうその性格じゃ、ホール任せんのも不安しかねぇ。全体を見ねぇと誰かが怪我すんぞ」
一つのことに捉われ視野が狭窄した状態では何事も務まらないと、樛は真剣な口調で言った。
耳が痛いような言葉の途中で俯いた自分の頭を、大きな手のひらが乱暴に掻き回す。
「それにお前、本当は行きてぇんだろが。なら行きゃいいんだよ。お前が我慢する理由なんかどこにもねぇ」
「でも、だって……」
そうしたら、樛と離れてしまう。距離だけならまだいい。けれど心まで離れてしまったら。
そんな不安を察したのか、ふと樛の手つきが優しくなった。
「行ってから決めろよ。この先どうしてぇのか、選択肢はいくらでもあんだろが」
「樛さんは、俺と離れても平気なんすか」
俯いたまま、つい恨みがましい口調で言えば、樛は喉の奥で低く笑う。
「俺はてめぇより大人だからな」
「……ずりぃ」
年の差ゆえの余裕という奴か。むくれて吐き捨てる。
「行って来い……待っててやるからよ」
囁くように落ちてきた言葉が、心に波紋を広げた。泣きたいくらいの喜びと一抹の寂しさが波を打って心を掻き回す。その波紋が小さくなるにつれ、揺れていた心がゆっくりと定まっていった。
顔を上げると、樛が笑っていた。こちらの心が決まったことを、その瞳は察しているようだ。
「あの野郎に会ったら、こう伝えてくれ」
樛はそう言うと、穏やかな表情を皮肉な笑みに転じる。
預けられた短い伝言に、弦也はきょとんと首を傾げつつも、必ず伝えると約束した。
◇
卒業式が終わり、最後だからと後輩にせがまれて鍵盤に手を置いた。練習室はギャラリーでいっぱいになっている。静かに呼吸をため、一気に音を吐き出した。曲名は樛が好きだという、ベートーベンのピアノソナタ第八番〈悲愴〉。
誰かを想って弾く。いつの時代であっても、誰であっても、音楽の根幹にあるのはきっと、他人への感情なのだ。
二十分近いメロディを惜しむように引き上げ、鍵盤から手を離すと、割れるような歓声が沸いた。賞賛の言葉を浴びながら、一曲限りで席を立つ。
「もう行っちゃうんですか」
「あと一曲くらい弾いてくださいよ先輩」
名残惜しそうなギャラリーに、申し訳ないと思いつつ丁重に断りを入れた。人を待たせているのだ。
「じゃあ、またな」
練習室を出てもなお、ギャラリーの声が追ってくる。ごった返している人波を掻き分けて進み、壁にもたれるようにしてこちらを見ている飛鳥の姿を見つけた。
「……あんな楽しそうな〈悲愴〉聞いたことないんだけど」
飛鳥は腕を組みながら、呆れるような横目を向けてきた。
「や、あの……すみません」
恐縮して謝ると、飛鳥はふと溜め息を洩らす。それからいつもどおり泰然と微笑んだ。
「まさか、ほんとについてきてくれるなんて思ってなかったよ」
「お世話になります」
「ん。出発は明後日だから」
並んで歩き、その後の予定について軽く説明を受ける。フランスでの公演は二週間で、それを終えたら今度はロンドンに発つらしい。忙しない三ヶ月になりそうだ。
「さっきのを聞く限りじゃ、例の彼と上手くいったみたいだね」
鋭い指摘にぎくりとし、顔をしかめた。分かりやすい自分が悪いのだろうが、なんとなく、からかわれているは気に入らない。
「僕とのことはどこまで話したの?」
無邪気にすら聞こえる気軽さで飛鳥が問い掛けてくる。弦也は溜め息を飲み込んで飛鳥を睨みつけた。
「全部話しましたよ。飛鳥さんが変なこと言うから、樛さんに誤解されてたじゃないっすか」
自分と飛鳥がそういう関係だと、樛は思っていたらしい。その原因は間違いなく、飛鳥が余計なデマを樛に流したせいだ。
ピアノだけじゃなくて、セックスも上手いとか。そんな言い方をしたら誰だって誤解するに決まっている。飛鳥はそれを確信した上で、こじらせようとしてきたのだ。事実、「面白いから、からかった」と言っていた。
そんな面白半分でこちらを振り回される身にもなって欲しい。
非難を込めて睨みつけても、飛鳥は微笑むだけだ。
「例の彼、樛って言うんだ? 今度、連絡先教えてよ。向こうで君の様子とか、色々伝えたいし」
「嫌ですよ。どうせまた、あることないこと伝えて樛さんをからかうつもりなんでしょう」
冗談じゃないと拒否すると、飛鳥は残念だと呟いていっそう笑みを深めた。
その笑みに悪辣なものを感じ、本当についていって大丈夫だろうかと、今さら不安になった。
「そういえば、樛さんから伝言があるんすけど」
思い出し、飛鳥を見る。飛鳥は一瞬、本気で驚いたのか目を丸くした。そんなあからさまな表情を初めて見たので、こっちの方が驚いてしまう。
すぐに余裕な微笑みを見せた飛鳥が首を傾げる。
「彼はなんて?」
樛の伝言を脳裏に浮かべ、そのまま声に乗せた。
「『てめぇには絶対やらねぇ』……だそうです。……これってどういう意味なんすか?」
要領を得ない伝言だ。主語が完全に抜け落ちている。眉をひそめて問うと、不意に飛鳥が吹き出した。声を上げて楽しげに笑う。
「え、何、なんすかっ?」
戸惑う自分の隣で、飛鳥は腹を抱えて苦しげに笑い続けていた。
「いや……ごめん、ちょっとツボに入っちゃった」
呼吸困難になりながらそう言い、飛鳥は目頭を拭っている。
「あの人、ほんとに面白いね。ずいぶん強欲そうだ」
からかい甲斐があるね、などと呟いて飛鳥が先を歩き出した。
「なんなんだよ……」
訳が分からない。モヤモヤとしつつその背を追い、ふと聞こえてきたピアノの旋律に立ち止まった。練習室を見上げる。
今日でこの場所とはお別れだ。そう思うと少し名残惜しいけれど、自分にはもう別の居場所がある。
「唄瀬君、置いてくよー」
「あ、すみません」
遠くで飛鳥に呼びかけられ、慌てて駆け出した。
明後日、日本を発つ。樛ともしばらく会えなくなる。その前に思う存分、触れ合いたい。あの熱を忘れないように。
(今夜は絶対寝かせられないな)
不埒な考えを抱きつつ、大学を後にした。
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