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穏やかな二人
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「あ……」
寄り道せずに帰宅しリビングを覗き込むと、キッチンに立っていた洸季が振り向いて目を見張った。
「お、おかえりなさい」
「ああ、ただいま。……なに作ってんだ?」
「……ハンバーグ。真志君が食べたいって」
不自然に視線を逸らした洸季がもごもごと答える。近寄って手元を覗き込もうとした途端、洸季が僅かに身体の向きを変えた。
警戒するような動作に眉をひそめ、はたと気づく。
俯き加減にひき肉を丸める洸季の耳が真っ赤だった。なるほど、と胸中呟き、苦笑する。
そう言えば、まともに話すのは三日ぶり――つまりあの晩以来だ。
(ったく……今さらまともな反応しやがって)
だいぶ前のキスに対して今さら照れているのだと分かり、安堵するやらモヤモヤするやら、複雑な気分で笑う。
いじらしく顔を赤らめながらひたすらひき肉を丸めている洸季を後ろから抱き締めた。ちょっとした悪戯心だ。
「え、ちょ、巽さん?」
背中から伝わる動揺さえ愛しい。肩口に顔を埋め、深く息をつく。
洸季が生きていて、今もここにいることがどれほどの奇跡か。知ってしまえばもう、絶対に手放すわけにはいかなかった。
「巽さん、もしかして酔ってる?」
「飲んでねぇよ。飲酒運転なんかするか」
小さく吹き出すと、洸季は僅かに首を捩り、納得いかなそうな顔をした。嫌がっている気配は感じないので、腕の力は緩めない。
「もう起きて平気なんだな?」
「うん……大丈夫」
頬を羞恥に染めながら洸季は小さく呟く。ぺちゃん、ぺちゃんと肉を捏ねる手つきだけがやけに機械的だ。
「それ、楽しいか?」
「うん。やってみる?」
無垢な問いに頷いた。流しで手を洗い、洸季を真似て肉を捏ねる。思っていたより、形を整えて空気を抜く作業は面倒だった。
「巽さんって案外不器用なんだ?」
「悪かったな」
苦笑する洸季に見守られながら、悪戦苦闘つつ四つほど丸めてみた。
「ねぇ、それ楽しい?」
いつの間にやってきたのか、真志がじっとこちらの手元を覗きこんでいた。興味津々な瞳に首を振る。
「全然楽しくねぇ。なんかべチャべチャしてるぞ」
「……巽さん、正直に答えすぎ。ハンバーグって焼く前はそういうもんだよ?」
呆れた視線を向けられた。もしかしたら、洸季のこういう表情を見るのは初めてかもしれない。
変なところで感動している自分をよそに、洸季は未だ興味深そうにこちらを見つめている真志に笑みを向ける。
「真志君もやってみる?」
「ええー。べチャべチャすんでしょ? ヤダ」
顔をしかめて後ずさりする真志に洸季が肩を揺らして笑った。つられて笑いながら真志を軽く脚で蹴飛ばした。
「お前、んなこと言ってっと食わせねぇぞ」
「は? 言い出したのおっさんじゃん」
「そうだね。じゃあ残りのは全部巽さんに丸めてもらう」
「……マジかよ」
丸投げされたが、心底嫌なわけがない。洸季と真志が悪戯じみた視線を交わし合っているのが見れただけで充分すぎる。
自分が肉を丸めている間、洸季は無駄のない動作でフライパンを温め、汁物を作る片手間にサラダ用の野菜を刻んでいく。
あまりの手際よさに見惚れ、思わず手が止まってしまった。
「お前、元から料理好きか?」
「え? いや……ここに来てから好きになった、かな? 巽さんも真志君も残さず食べてくれるから、作りがいがあるんだよ」
「そうか」
朗らかな言葉に笑みが漏れる。どうあれ、楽しいと思って作ってくれているらしい。
それは本当にありがたいことだが、毎日三食作るのは大変だと思うし、あまり無理をして欲しくない。
「たまには手ぇ抜いていいんだぞ。俺も手伝いくらいできっから」
「うん。ありがと。でもオレがやりたいだけだから。それに……」
「それに?」
ふと表情を曇らせた洸季に、先を促す。洸季は微かに言い澱んでから続けた。
「それに、この数日みたいに体調崩したり起きられなかったりしたら、オレ自身が結構落ち込むんだよ。決まったペースをなるべく乱したくないし、二人にも迷惑だから」
洸季の言葉に、束の間押し黙る。
生真面目にも程があると思った。もう少し肩の力を抜かなければ、いつかパンクしてしまうだろうに。
「気にすんなっつっても、無理なのかもしれねぇけどよ。お前がそうやって一人で全部抱え込んじまうのは、正直気に入らねぇよ」
傍にいるのだから、頼って欲しい。だがそれは、てんで身勝手なわがままなのだろう。
「……ごめん。オレ、この前の夜も、巽さんに失礼なこと――」
「それはもういい。料理だって掃除だって、お前がやりてぇなら別に止める気もねぇ。けど、あまり無理すんな」
一人じゃないと伝えたかった。もう、一人ではないのだと。
「巽さん……」
洸季は微かに目を見張った後、小さく口元を綻ばせて頷く。
「ありがと。ほんとに」
ポツリとした言葉に巽は微笑んだ。
「あ……それ、焼くから、トレーごと貸して」
「俺に焼かせろよ」
「え、巽さん絶対焦がすからダメ」
自分もなにか手伝いたかったのだが、真剣に断られてしまった。「貸して?」と再度腕を伸ばされ、情けなさを押し隠してトレーを渡す。
慎重に火加減を調節しながら肉を焼いていく洸季を見て、どうやら自分は邪魔らしいと悟った。手を洗ってすごすごキッチンから退散する。
真志は手持ち無沙汰なのか、ソファの上で両足をぶらつかせながら本に目を落としていた。さりげなく隣に腰を下ろして目を向け、意味もなく瞬きを繰り返してしまう。真志が呼んでいる本は、かつて自分が翻訳したフランスの冒険小説だ。
(こいつ、分かってて読んでんのか?)
そうだとしたら、たとえ気まぐれでも嬉しいのだが。
しかしその本は真志くらいの年頃ではまだ難しいと思う。漢字も言葉遣いも、小学校低学年ではまだ習わないものばかりだ。
「それ、読めるのか?」
「読めない。意味分かんない」
気になって問い掛けると、にべもない返答があった。
「だろうな……」
苦々しく笑う。だが真志は本を閉じようとはせず、眉をひそめながら懸命に文章を追っていた。
「なあ、これなんて読むんだよ」
「あ? ああ、〝はいきょ〟だな」
廃墟。こうしてみるとややこしい字だ。
「意味は?」
「〝壊れた建物や街の残骸〟って意味だ」
「ざんがい?」
「あー……まあ、〝誰も住まない壊れた建物〟とでも覚えとけ」
より簡単な言葉に置換するのが難しく思え、結局適当な教え方になってしまう。言葉を正しく理解できるようになるには、とにかくたくさんの文章に触れるしかない。
「本、好きか?」
「うん、まあね。学校行ったら毎日図書館で本借りたい」
「そうか」
純粋な瞳をした真志に、思わず目を細める。
(ガキの頃の俺にそっくりだな……)
ずっと離れて暮らしていたとはいえ、やはり血の繋がった親子なのだ。生意気そうな横顔も、僅かに尖った耳の形も、そっくりそのまま自分に重なる。
自分が一度、真志とその母親を見捨てたことを、真志は知っている。だからどうあっても埋まらない溝があるのは自業自得だ。
それでも、こうして隣にいることを拒絶されないのは確かな進歩で。
嬉しくないわけがない。自分に喜ぶ権利などないと分かってはいても、ほんのりと心が温かくなるのは止められなかった。
たどたどしく文字を追う真志の横顔を眺めるうち、自然と笑みが零れた。
「お昼できたよ」
「おう。運ぶの手伝うか?」
「うん。オレ、ご飯盛るから」
すっかり馴染んだエプロン姿の洸季を時折振り返りながら、忙しなくキッチンとリビングを往復する。
「おれもなんか手伝う」
「じゃあ飲み物用意しろ」
「麦茶、冷蔵庫に入ってるよ」
「はーい」
協力して昼餉を整え、三人揃ってテーブルについた。
洸季が作ったハンバーグはふんわりと柔らかくて美味しかったが、自分が作ったものはそうでもない。
難しいなと苦笑しつつ全てを平らげ、和やかな時間に息をついた。
こんな日々が、この先もずっと続いて欲しい。
そう願う反面、心の奥底でわだかまる不安は拭いきれなかった。
洸季がいつまでここにいてくれるのか、自分には分からない。明日を保障する約束さえない。
ここにいることは、洸季にとって本当に幸せなことなのか。それすらも分からなかった。
真志の無邪気な笑みを目にするたび、洸季はごく微かに表情を暗くする。失った弟の面影が真志に重なって見えるのだとすれば、ここにいること事態、洸季にとって苦痛なのではないだろうか。
そんなふうに思えてならなかった。
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