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ずっと聞きたかったその言葉
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最後の一文を書き上げ、溜め息とともにエンターキーを叩き打った。長かった翻訳作業もようやく終わりだ。
「あー……」
椅子の背にもたれかかって大きく伸びをする。できるならこのまま眠ってしまいたいくらいに疲れているが、この後にも見直しと推敲の作業が残っている。デットラインは今日の夕方五時。それまであと六時間しかない。
結局、今回も締め切りギリギリになってしまった。遅筆な自分が心底呪わしい。
カーテンの隙間から差し込む秋晴れの日差しに目を細め、もう一度深く溜め息をついたところで腹が鳴った。
そういえば、ここ数日まともに寝食をした覚えがない。何度か食事に呼ばれたような気もするが、正直それどころではなかったのだ。
怒り肩でパソコンと向き合い、私室に篭りっきりになっている自分に気を遣ったのだろう。洸季も無理に話し掛けては来なかったし、この数日間ちゃんと顔も合わせていない。
節々を痛めながらなんとか重い腰を上げ、ようやく私室を出てリビングへと向かった。
洸季はいなかったが、テーブルの上にラップの掛かった食事が一人分だけ用意されている。アジの塩焼きときゅうりの浅漬けに、ご飯と味噌汁。ラインナップからして朝食だったのだろう。
自分が手をつけなかった何日分かの食事も、こうして時間ごとにきっちり作ってくれていたはずだ。申し訳なく思いつつ、テーブルについて箸を取った。
「あ、やっと出て来たんだ?」
小骨の処理に手間取りながらアジをつついていると、洸季がリビングに現れた。灰色のネルシャツにジーンズという出で立ちは完全に自分のお下がりで、上下とも裾が余っているのだろう。アイロン掛けをしたかのようにピシッと折り目正しく捲り上げている。
「それ、声掛けてくれれば温めたのに」
「別に構わねぇよ。とにかく腹減ってたんだ」
苦笑する洸季に片手を振る。空腹が満たされれば冷たくても構わないし、冷めていても美味いものは美味い。
「でも、せめてこれだけ温めさせてよ。冷たいままだとたぶん味濃いから」
そう言って洸季は味噌汁の椀を取り上げ、キッチンへと消えていった。緩慢にきゅうりを咀嚼しながら、味噌汁を温め直している洸季を眺めた。以前より僅かだが身体のラインがしっかりしてきたように思える。
(そういや、最近ちょっと抱き心地よくなったよな)
出会ったばかりの頃はとにかく華奢で、触れる場所全てが骨ばっていた。折れるのではないかと心配になるほど細かった手足も、今では人並みに健康的な太さになっている。
ゆっくりとではあるが、確実に洸季は変わり始めていた。以前のように、こちらの顔色を気にして怯えてくることも、もうほとんどない。未だ時折ふと遠くを見つめるような瞳をすることはあるが、その回数も日ごとに減っていた。
四ヶ月。人が変わるには充分過ぎるようで、あまりに短い月日だ。それでも洸季は変わっていく。決してマイナスではないその変化に、知らず口元が綻んだ。
「真志は学校行ったのか?」
「うん。とっくにね」
湯気の立つ椀を受け取りながら問うと、洸季はやや呆れた苦笑を零し、向かいの席に腰を下ろした。
「巽さんが引き篭もってる間に色々あったんだよ? そうそう、この前国語のテストで満点取ったって話は聞いた?」
「いや……聞いてねぇ。ってか、俺は別に引き篭もってねぇ」
「だったらご飯くらいちゃんと食べに来てよ。オレより真志君の方が心配してたよ。『あの人生きてる?』って」
「そりゃ悪かった。締め切り間際はいつもこんなだからな」
真志まで心配してくれていたとは。
苦々しく笑うと、洸季はテービルに頬杖をついて小首を傾げた。
「もう全部終わったの?」
「いや……まだ最後の仕上げが残ってんだ」
「ふうん。そっか」
呟いた洸季がほんの少しだけ寂しそうな目をしたことを巽は見逃さなかった。だがこちらが口を開く前に洸季は視線を逸らし、立ち上がってしまう。
「それ、一応朝ごはんなんだけど、お昼もなにか作ろっか?」
「いや、いい。さすがに食えねぇよ」
律儀な洸季に首を振る。洸季は軽く頷いてシンクで手を洗い始めた。ともあれなにか作るつもりらしい。
ボールに卵を割り入れている洸季を観察しながら淡々と箸を動かす。頭の隅に浮かんだ考えのせいで味がまったく分からなくなった。
今の洸季なら外に出られるんじゃないだろうか。
今でも、洸季はたった一歩ですら外には出ない。何ヶ月もこの家の中で過ごしているせいで、体格が変わっても肌は不健康に青白いままだ。
正直、引き篭もっているのは洸季の方ではないだろうかと思う。病院を抜け出し、この家にやってきた経緯を考えれば、必要以上に人目を恐れる気持ちも理解できなくはない。だが、だからと言っていつまでもこのままというわけにはいかないはずだ。
確かに、洸季の変化は目覚しい。だがそれは、洸季自身が〝変わりたい〟と思っているからこその変化だ。
一歩でも前に進もうとする洸季に、自分がしてやれることはなんだろうか。
「巽さん? どうしたの、ぼんやりして」
ふとした洸季の声に意識を戻す。
「ああ……、なんでもねぇ」
煩悶と考え事に勤しんでいるうちにいつの間にか食べ終わってしまっていたらしい。
「なぁ、このあと出掛けっけど、お前も一緒に来るか?」
空いた食器を重ねて洸季の元へ運びながら、さりげなく口を開いた。
「え?」
「最後の仕上げはダチんとこの喫茶店でやるつもりなんだけどよ。お前も一緒に来ねぇか」
無理強いはしないように、あくまでも穏やかに問う。答えがノーでも、食い下がるつもりはなかった。
洸季は俄かに戸惑った顔をしたまま沈黙する。不規則に揺れ動く瞳から無言の逡巡が伝わってきた。
以前なら間髪いれずに「行かない」と答えていたはずだ。だが今の洸季は迷っている。
辛抱強く返答を待っていると、やがて洸季は薄く唇を開いた。
「……そのお店って、結構混む方?」
小さな問い掛けに苦笑しつつ首を振る。あの店ほど、〝混雑〟という言葉と無縁な場所はないだろう。
「俺以外の客なんか滅多に来ねぇ。あそこのコーヒー、結構美味いんだけどな」
こちらが心配するのは余計な世話かもしれないが、本当に一体どうやって店を回しているのかと思うほどあの店は客入りが少ない。
日阪も日阪であの能天気な性格だ。店の経営状態を嘆く言葉など今まで一度も聞いた覚えがないし、それが却って不安だったりする。
自分としては、あの店になくなられたら心底困るのだが。
「そっか……、じゃあ、行ってみようかな……」
「本当か?」
細々とした返答に目を見開く。九分九厘断ってくるだろうと思ったから、これは嬉しい誤算だった。
「うん。あ、でもあと三十分くらい待ってくれる? これ、仕込みだけしちゃいたいから」
卵を溶きながら朗らかに笑う洸季に微笑み、頷いた。
「ちなみになに作ってんだ、それ」
「プリン。真志君のリクエストだよ」
「お前いっつも真志のリクエストばっかじゃねぇか。たまには俺のリクエストも聞けよ」
冗談めかして言いながらも、内心では確かに嫉妬している。
洸季はとにかく真志を優先したがるのだ。可愛がってくれているのはありがたいが、あまり甘やかしすぎるのもどうかと思う。事実、最近の真志は洸季に対して過分に生意気になりつつあった。
それはまるで兄弟のように。微笑ましい気もするが、あまりに度を越しているようにも思え、胸中複雑な気分だ。
「じゃあ、明日は巽さんの好きなもの作るよ」
「酢豚な」
「酢豚でいいんだ」
洸季が小さく吹き出した。自然と笑うようになった洸季が可愛く思えて仕方ない。
ふと目が合ったのをいいことにそっと口づけ、唖然とする洸季を横目に洗い物を始めた。
小一時間ほどして出掛けの準備を整え、洸季と連れ立って家を出た。外は燦々と太陽が照り出しているにもかかわらず、吹き抜ける木枯らしは冷酷な温度だ。
「寒くねぇか?」
「平気」
薄手のコートを羽織った洸季は小さく答え、緊張した面持ちで車へと歩き出す。洸季にとってはかなり久々の外出だ。この車に乗るのも、出会ったあの日以来になる。
ゆっくりと発進させ、例の喫茶店へと向かった。洸季は流れる窓の外をぼんやり眺めながらも拳を硬く握っている。
(やっぱ、怖ぇのか……)
誰かに探され、追われているかもしれないという恐怖心はそう易々と拭い去れるものではないのだろう。
洸季が抜け出してきた八代クリニックの関係者が、洸季を探しているという情報は聞かない。夜須に調べさせたところ、洸季が入院していたという証拠すら、もはや完全に消されているらしい。
『名雲洸季の入院代、一生分支払われてんねん。あの夫婦ももう縁切りのつもりやったんやろな。今はとっくに海外で養生しとるみたいや』
その話を聞いたときの怒りは言い表しようもなかった。自分たちが望んで養子に引き取った洸季を、そんな風に扱うこと自体が許せない。
夜須の話によると、八代クリニックから患者が不自然な消え方をすること自体、別段珍しいことではないらしい。
『入院費が滞りなく支払われている患者やったら、消えようが死んでまおうが、家族に連絡一つも入れんちゅう、あくどい商売しとってん』
常識も良心もまったくないようだと、夜須も呆れ半分に憤っていた。それは実際、許されることではない。
だが、洸季のことに限っていえば、それは逆に幸運かもしれないとも思う。もう、誰にも追われていないし、探されてもいないのだから。無駄に人目を気にして怯える必要もないということになる。
けれど、そのことを洸季に伝えようか否か、巽はずっと迷っていた。伝えれば多少は気が楽になるかもしれないが、その逆もまた考えられるからだ。
誰も洸季を探していない。誰も洸季が今、どこにいるかを知らない。それではまるで。
名雲洸季という人間が、この世界で誰にも必要とされていないと言うようなものではないか。そんなことは絶対にないのに、洸季がそう解釈してしまう可能性を思えば、迂闊にその事実を口にできないのだ。
強張った横顔をそっと盗み見ながら奥歯を噛み締めた。
誰がなんと言おうと、洸季は必要な存在だ。自分や真志にとっては、絶対に。
さざめき立った胸中のまま、取り立てて会話もなく車を走らせる。慣習によって普段どおりの道順を辿ってしまったことを後悔したのは、いつぞやの踏み切りに差し掛かったときだ。タイミング悪く警報が鳴り、遮断機が落ち始めている。
嫌でもあの日を思い出させてしまっただろう。自らの失態に臍を噛む思いで、ちらりと洸季を窺った。
こちらの視線を感じたらしい洸季が自分と目を合わせ、薄っすらと微笑む。
「ここだっけ、巽さんと初めて会ったのって」
天気の話でもするかのような軽い口調で問われ、思わず面食らってしまった。拍子抜けしつつ頷く。
あの日のことなど、思い出したくもないはずなのに、洸季の横顔はずいぶん穏やかだった。
「オレ、たぶんだけど、もう大丈夫だと思う」
ゆっくりと遮断機が下り切るのを見守りながら、洸季は言う。その確信的な言葉尻にふと目を見張り、息を飲んだ。
「生きていたいって、思うんだ。巽さんたちと一緒に……」
独り言のような、小さな声だった。けれど、聞き間違いではない。
〝生きていたい〟
その言葉を、どれだけ聞きたかっただろう。
「そう、か……」
泣きたくなるほどの喜びが声を震わせる。口を開いた瞬間、なにかが決壊してしまいそうで、上手く言葉も出てこなかった。
「そう言えば、まだお礼も言ってなかったよね」
不意にこちらを向いた洸季が笑みを深める。なに一つ飾るところのない、穏やかな笑顔だ。
「巽さん、オレを助けてくれてありがとう。オレ、今は本当に巽さんに会えてよかったって思ってる」
真摯な声に胸が詰まり、視界が揺れ動いた。
〝俺もだ〟と言いたいのに、こんなときに限って言葉が出て来ない。
今日この日を、自分はずっと心待ちにしていたのだ。そんなことを、今さら自覚して戸惑った。
小さく洟を啜った音は、恐らく電車が通過する轟音に紛れて洸季には聞こえなかっただろう。
二本続けて電車が行ってしまうまで、どちらからともなく手を握り合った。命が通っている証であるその温もりを、もう絶対に手放せはしなかった。
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