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亡霊
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「真志君遅いな……」
洸季は薄暗いリビングで洗濯物を畳みながら呟く。時刻は夕方の五時をとっくに回っていた。
最近、真志の帰宅が遅い。どこかで寄り道でもしているのだろうか。
十月も後半に入り、ただでさえ日暮れが早いというのに。しかも、今日は一日中ずっと雨模様だ。
ザアザアとさざめくような雨音を耳にして、ふと顔を歪めた。
雨の日。暗い夕方。唸るような風の音。そのどれもが、最も忌まわしい過去のある一日を呼び覚ます。
幼い弟が氾濫する川に呑まれ、命を落とした日。
思い出すたびに息が苦しくなって、どうしようもない自責が込み上げてくる。
あの日、川原になんて行かなければよかった。駄々を捏ねる弟を引きずってでも、さっさと家に帰るべきだった。
忘れたくても、決して忘れることのできないあの日から強引に意識を引きはがし、夕飯の支度に取り掛かった。
今日は真志の誕生日だ。いつにもまして気合が入る。メインの散らし寿司と鳥の唐揚げは真志の大好物だ。他にもサーモンサラダやカレードーナツ、かぼちゃスープなどを同時進行で作っていく。バースデーケーキは日中既に作り終えてあり、今は冷蔵庫内の主役を飾っていた。
豪勢な夕食を作るのに夢中になっていたが、不意に時計を確認して動きを止める。あと十分ほどで午後七時――。未だ真志が帰宅していないことに気づいて、血の気が引いた。
いくらなんでも遅すぎる。
「まさか、なにかあったんじゃ……」
自らの呟きにゾッとし、慌ててコンロの火を止めた。無意識のうちに縋るような視線を二階に向け、巽がいないことを思い出す。仕事の関係で昼過ぎから出掛けているのだ。
夕食までには戻ると言っていたけれど、その巽もまだ帰宅していない。
「ど、どうしよう……」
真志の帰りがこれほど遅くなるとは思っていなかった。いつもはどれだけ遅くても六時過ぎには帰宅しているはずなのに。
こんなに遅くまで帰ってこないなんて、ありえない。
湧き上がった不安のせいで、痛いほど心臓が暴れている。
まさか、真志の身に何か起こっていたら――。
居ても立ってもいられなくなり、エプロンをつけたままだということすら忘れて家を飛び出した。
外は叩きつけるような豪雨だった。ほんの数歩外に出ただけで、瞬く間にずぶぬれになる。見計らったかのようなタイミングで稲妻が光り、反射的に身体が強張った。遅れて雷鳴が轟く。
(あの日と同じだ――)
引き攣れたような呼吸を繰り返し、洸季は取り付かれたように走り出した。動悸が治まらない。耳鳴りがするほどの激しさで鼓動が狂っていく。
胸中を占めるのは、恐怖心だけだった。
真志が通う学校までの道のりをひた走る。幾度となく声を張り上げ、真志を呼んだ。
巽の家から学校までは僅か一キロ。だがその道すがらに河川敷があることを洸季は知っていた。忌まわしい川原。水が流れ落ちていく土手を目の当たりにして不意に立ちすくむ。
亡霊を見た。黒いランドセルを背負って、蹲る子供の亡霊。そのすぐ近くで、茶色く濁った川の水が子供を飲み込もうとしている。
「良哉……?」
そんなわけがないと、頭の片隅では分かっていた。けれど洸季はその幼い背中に目を奪われたまま、一歩も動けない。
そこにいたら危ない。川の水は刻々と勢いを増している。そこにいたら危ない。
「危ないよ……」
いつの間にか、雨の音が聞こえなくなっていた。この瞬間、洸季の意識は現実世界から隔絶され、ただ目に映る亡霊にだけ向けられていた。息を止めて見つめていると、亡霊がゆっくりと顔を向ける。
白い顔。血の気のない、その顔は――。
「良哉、」
手を伸ばし、ふらふらと足を踏み出した瞬間、奇妙な浮遊感があった。息を呑んだときにはもう、洸季は転がるようにして土手を滑り落ちていた。
良哉は野球が大好きだった。洸季はスポーツが苦手でキャッチボールをしても、五歳下の弟にはてんで敵わなかった。
「兄ちゃん、もうちょっと頑張ってよー」
取り損ねたボールに慌てて追い縋る自分に、良哉はいつでも不満げな顔をしていた。
「お前こそ、もうちょっと手加減してくれよ」
奔放な軌道で飛んでいくボールを追って奔走させられる身としては、切実な頼みだ。だが良哉は顔をしかめて唇を尖らせる。
「そんなことしてたら練習になんないじゃんかー。試合、来週なんだよ?」
良哉は不甲斐ない兄を嘆くように溜め息をこぼした。
良哉の夢はピッチャーになることらしい。今年こそ所属する少年野球チームでレギュラーに選ばれたいのだと言って、朝でも晩でもひたすら投球の練習をしている。
付き合わされるのはいつも自分だ。
「もう暗くなってきたから、今日はここまでにしよう」
「ええー。まだちょっとしか練習してないじゃんか」
ゆっくりとだが確実に空が暗くなり、風に雨のにおいが混ざり始めた。早く帰らないと降られてしまう。
「じゃあ、ラスト十球! いいでしょ?」
「ほんとに十球だけだからな」
わがままな弟に溜め息をつきながらも、距離を取ってグローブを構える。
「いくよー!」
綺麗なフォームで放たれたボール。パンッ――と小気味良い音を立ててグローブに収まった時の、手のひらが痺れるような快感。
弟と過ごす時間は、洸季にとってかけがえのないものだった。
「あっ……!」
最後の一球を取り損ねた。いや、今のはたぶん良哉が投げ損なったのだ。
ボールは洸季の頭上を飛び越え、明後日の方向へと飛んでいった。慌てて振り返るが、ボールは背の高い草むらのなかに紛れてしまった。
「あーあ、今のは失敗」
不完全燃焼とでも言いたそうな顔で良哉が近づいてくる。
「兄ちゃんはそっち探して」
見失ったボールを二人で探すが、なかなか見つけられなかった。
「良哉、今日はもう暗すぎて見つけられないよ」
完全に日の暮れた視界で、あんな小さなボール一つを見つけ出すのは至難の業だ。
「今日はもう帰ろう」
「やだよ!」
諦め気分で良哉を見るが、意地になった弟はまったく聞き入れようとしなかった。
「あのボールは絶対なくしちゃいけないんだ」
「気持ちは分かるけどさ……」
あのボールは去年野球団を去った先輩ピッチャーから譲り受けたもので、良哉にとっては唯一無二の宝物なのだ。絶対に見つけ出したいという気持ちは痛いほど分かる。
にわか雨がポツリポツリと降り出していた。それはあっという間に集中的な豪雨に様変わりし、身の竦むような雷鳴が轟く。
「だいたい。、兄ちゃんが取り損なうからいけないんだろ」
「はあ? お前が変なとこに投げたせいじゃないか」
二人して全身ずぶ濡れになりながら互いに責任の擦り付け合いをした。水気を含んで皮膚に張り付く服が凍えるほど冷たい。
「もう今日は無理だって。明日また一緒に探してやるから、もう帰ろう」
「やだよ! 帰りたいなら兄ちゃん一人で帰れば」
「わがままばっかり言うなよ!」
「あ、あった! あれだ」
唐突に明るい声を出した良哉が駆け出すようにして草の中に分け入っていく。背の低い良哉は草の中に紛れて完全に見えなくなった。
「良哉……?」
鼓膜と心臓を引き裂くような雷鳴に肩を震わせたとき、微かな悲鳴を聞いた。
それは本当に一瞬の出来事で。
目に焼きついているのは、背中から川面に吸い込まれていく弟の小さな身体。とっさに伸ばした手が虚空を切った、その感触。
呆気にとられたような表情のまま、弟は川に落ちていく。
全てがスローモーションのようだった。いつでも巻き戻せる。そんな錯覚すら起こすほどに。
だが、時は一瞬たりとも止まりはしなかった。
濁流の中でもがく弟の姿は、すぐに見えなくなった。
あの瞬間、洸季の世界から光が消えたのだ。
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