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ゆっくりと、歯車は狂い出す
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洸季を追いかけるべきか否か、ひどく迷った。たかだか味付けを間違えるくらい誰にでもあることなのに、あんなショックの受け方は尋常じゃない。
『こんなの食べられないよね。捨てちゃおうか』
思わず腰を浮かせたが、リュカの言葉にぎょっとして動きを止める。リュカはいつの間にやら椅子から降り、三人分の朝食を片付けようとしていた。
「おい、なんだよ!?」
食べかけの鯖をリュカに引っ攫われ、真志が抗議の声を上げる。
『おい、やめろって。なにも捨てるこたねぇだろ』
『え? 食べるの?』
慌ててその手を掴むと、リュカは引いたような笑みを浮かべた。〝冗談でしょ?〟とでも言いたげな顔にこめかみが引きつる。
どうやら本気で捨てるつもりだったらしい。どういう思考回路なのか。
『食い物を無駄にすんな』
『無駄にしたはボクじゃなくてヒロキでしょ』
ああ言えばこう言う。本当に面倒な奴だ。
溜め息を零して絶句している間に、真志がひらりと椅子を降りた。キッチンから醤油の小瓶を持って戻ってくる。
『うわ、シンジまで食べる気なの?』
『当たり前だ』
せっかく洸季が作ってくれたものを捨てるなんて、そんな思考は自分たちにはない。
「父ちゃんもかける?」
「ああ」
無邪気な問いに頷いて、食事を再開する。
「あ、なんか美味しい」
一口鯖を食べ、真志は目を丸くした。確かに、砂糖と醤油の組み合わせは意外にも鯖に合う。
(あとで洸季に教えてやらねぇとな……)
こんなこと、大した失敗じゃない。ショックを受ける必要なんてまったくないのだ。
洸季は完璧主義らしく、些細なミスで過剰に自分を責める傾向がある。それは出会った当初より、最近の方が顕著だ。
この世の終わりみたいな顔で逃げ去ってしまった洸季を思い出し、不安を抱きつつ箸を進めた。当然のようにキッチンを漁り出したリュカの姿は、意識的に視界から外す。
三人分の食事――ここに洸季の分がないのも妙だ。先に食べたなんて言っていたが、明らかに嘘だろう。今まで洸季が一人で先に食事を取るなんてことは一度もなかったのに。
(やっぱあれか、リュカと顔合わせたくなかったのか)
そう思い至って、密かに溜め息をつく。
当然だろうと思った。リュカの無神経さは、繊細すぎる洸季にとってただの暴力でしかない。
それが分かっていながらも、リュカを追い出すことができなかった。
ちらりと無意識に目を向ける。その頬に残った痣を見るたび、罪悪感が胸中を揺さぶった。
いくらなんでもやりすぎだ。あんな子供の顔を殴るなんて。自分の行動なのに、ゾッとする。
あの後、どうしてもリュカを突き放せなくなって、結局同じベッドで眠ってしまったのだが――。
(ったく、どうかしてたな……)
今朝目が覚めたとき、なぜか自分の腕の中にリュカがいた。本当に無意識に洸季と間違えていたのだ。無警戒に擦り寄ってくるリュカもリュカだが、一番は自分が悪い。
まさか洸季に見られやしなかっただろうな、と背中に冷や汗を搔きながら黙々と箸を動かした。
「ごちそうさま!」
食事を終えた真志が勢いよく立ち上がり、ソファの上のランドセルを背負う。
「気をつけて行けよ」
「うん! 行ってきまーす」
元気よくリビングを飛び出していった真志を見送ってから、食べ終えた食器類をシンクに運ぶ。
『あ、これも入れようかな』
リュカは上機嫌に鼻歌を歌いながら冷蔵庫を覗き込んでいた。いちいち目くじらを立てる気力すらなくし、憮然としながら食器を洗う。
『ねぇタツミ。ここにいる間はボクに料理させてよ』
『はあ?』
突飛な言葉に振り向けば、リュカは穏やかな笑顔を自分に向けていた。昨夜の出来事など、本当にまったく気にしていないかのように。
それが却ってこちらの罪悪感を刺激する。
『だって、ヒロキの料理美味しくないんだもん。砂糖と塩を間違えるなんて、ボクなら絶対ありえないよ』
それはお前が余計なことを言ってプレッシャーをかけたせいだ。普段の洸季なら、まず間違えるはずがない。
そう思っても、反論を口にできなかった。
『……勝手にしろ』
視線を引き剥がして、投げやりに言う。
リュカはまだ当分ここにいるのだ。その都度、洸季の料理にケチをつけられるくらいなら、いっそリュカに任せてしまった方がいいような気もする。
洸季だって、その方が気持ち的に楽だろう。
(あいつ、平気な顔して無茶すっからな……)
ただでさえ、毎日決まった時間に家事をこなすのはきつい。少なくとも自分には真似できないことだ。
それを、洸季は当たり前のように続けていた。弱音一つ吐かず。
短い間であっても、少し休んで欲しいと思った。無理をする必要なんてどこにもないのだから。
まして、こんな無神経な奴に文句をつけられてまで頑張ろうとしなくていい。
『やった! ボク、頑張って作るから期待しててね』
無邪気に喜んでいるリュカを見て、まあいいかと苦笑する。どうせ言っても聞かないのだし、好きにさせておけばいい。
深く考えることなくそんな結論を出すと、唐突にリュカが抱きついてくる。
『ねぇ、タツミはフランス料理ならなにが好き?』
『あ? ……別になんでもいいっつの』
縋るような視線から目を背け、適当な答えを返す。突き放せないのは、負い目があるせいだ。
鬱陶しく思いながら、乱暴な手つきでリュカの髪を搔き回した。くすぐったがるような笑い声に、少しばかりほっとする。
こいつも、こんなふうに子供らしく笑うのだと。
『あ、それ。今度翻訳してくれるやつ?』
『ああ』
ソファの上にふんぞり返りながら頷く。リュカのデビュー作を、もう一度最初から読んでいたのだ。
あまり後味のいい作品ではないが、何度読んでも秀逸なことに変わりはない。
『なあ、このロミリオって奴……』
『ああ、モデルはボクだよ』
あっけらかんとした返答に、やっぱりなと頷いた。特殊な〝眼〟をもつ青年――ロミリオはその力のせいで周囲に疎まれ、孤独に生きることを余儀なくされた。
リュカもまた、そうだったのだろう。
『あ、でも、ボクは人殺しなんてしないよ? あくまでフィクションだからねっ?』
『んなこた分かってんだよ』
慌てたように言い繕うリュカに、呆れた苦笑を返す。なにを心配しているのか。そんなこと、ちらりとも思うわけがないだろうに。
それでも。
この暴力的で皮肉なストーリーからは、リュカの過去が垣間見えてしまう。特に、ロミリオの父親が言い放つ言葉。〝お前は悪魔だ〟とか〝生きる資格もない〟とか。
この台詞はリュカ自身が、実の父親から言われたものではないだろうか。
(こいつ……一体どんな気持ちで)
これを書いたのだろう。どれほどの憎しみや悲しみを持って、〝叶わぬ夢〟を描いたのだろう。
『ロミリオは、なんで幸せになれなかったと思う?』
リュカは悲しげな微笑を浮かべながらこちらを見つめてくる。
『なんでって……』
ロミリオの夢は、ただ幸せになることだった。誰からも疎まれず、最愛の恋人とつつましく生きていくことだけが望みだった。
それが叶わなかったのは、なぜなのか。
リュカはふと寂しげに瞳を伏せる。
『ロミリオは、自分を許せない奴だったんだよ。悪いのは全部自分だって思い込んで、独りで壊れたんだ。そうなるしかなかった』
『リュカ……』
『誰も〝お前は悪くない〟なんて、言ってくれなかったから。〝お前が悪い〟って、〝ゴミみたいな命だ〟って――』
『もういい』
スッと頬を伝った涙を、手のひらでそっと拭った。
『ボクもいつか、ロミリオみたいになるのかな。最後は自分で』
『やめろ』
物語の最後、ロミリオは自ら死を選ぶ。自分がそんなふうになるなんて、間違っても言わないで欲しかった。
『お前はロミリオとは違ぇだろ?』
ポロポロと雨のように落ちる雫が、頬に残る傷痕を濡らしていく。それを拭いながら、諭すように口を開いた。
『あれはフィクションだって、自分で言ったじゃねぇか』
この痛々しい痣を、今すぐ消せたらいいのにと思う。どんな理由があれ、こいつに手を挙げた自分が許せない。
リュカはずっと、その特異な力に苛まれながら生きてきたのだ。手酷い暴力と、暴言の只中で。
『ボクの夢は、叶うのかな……』
そっと頬を撫でていると、か弱い声でリュカが呟く。
〝叶う〟と言ってやりたかった。無責任に、断言してやりたかった。
『タツミが、叶えてくれればいいのに』
だが、上目遣いにそう言われても頷けない。こればかりは、どうしても。
『俺は、』
洸季以外を選ぶことなどない。一生。なにがあっても。
そう言うと、リュカはふと瞳を暗くする。またぞろあの〝眼〟かと戦慄したが、リュカはなにも言わなかった。
ただ、幼い子供のような仕草でこちらの胸に顔を埋める。突き放すこともできず、仕方なしに、俯く頭をそっと撫でた。
『……お前は悪くねぇよ』
なにも。なに一つ、悪くないのだ。だから。
『いつかは、お前だって――』
きっと幸せになれる。そんな言葉を呟きかけて、飲み込んだ。
洸季は、自分といて幸せになれたのだろうか。自分は洸季を幸せにしてやれているのだろうか。
本当に?
『タツミは、ボクのだよ……』
意識の奥で考え事をしていたせいで、くぐもったリュカの呟きを聞き逃した。その、おぞましい呪詛の響きを。
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