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『バレンタインデー・ナイト』
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溜め息ばかりが出る。
自覚し、慧は内心呆れた。仕事中にこんな陰鬱な溜め息を繰り返していては客に失礼だろう。
商品の陳列を直しながら深く自省し、冷めた目で売り場を見下ろす。
さりげなく手に取った冊子のタイトルは『バレンタイン 彼のハートを射止める手作りチョコレシピ』――ピンクと赤のハートが毒々しく乱舞する薄っぺらな本だ。堂々と、明らかにプロが作ったであろう完璧なチョコレートの写真が載せられている。
こういったレシピ本が、この数日間で一体どれほど売れたことか。思わず失笑が漏れた。
(バレンタイン、か……)
なんとも下らないイベントだ。どうして二月十四日に限ってチョコを贈る必要があるのか。世の中の女性たちは皆、商業経済の思惑にまんまと嵌まっているとしか思えない。
自分も学生の頃、この風習にはうんざりするほど振り回された。
『上手にできたから、志築君に食べて欲しくて』
笑顔の女子が、好意の押し売りをしてくる日。自分にとっての二月十四日は毎年のごとくそういう日だった。
だいたい、チョコレートのどこが美味しいのかまったく分からない。あんなもの、ただ甘ったるいだけだ。やたら喉が渇くし、いつまでしつこく舌に残る甘みは不快でしかないのに。
そんなものを、これまたまったく興味のない異性から贈りつけられ、その上でなにか別の期待をされるなんて嫌がらせ以外のなにものでもなかった。
一人ひとりに、〝チョコは嫌いだ〟とか〝気持ちには答えらない〟などと告げて突き返していたら、そのうち他の男子生徒から反感を買ったようで、こちらからは正真正銘の嫌がらせを受けた記憶がある。つまり厄日だ。
(まあ、昔の話だけどな)
どうでいいような思考を放棄し、事務所へ向かった。夕方のピーク前に休憩を取っておかなければ入るタイミングを失ってしまうだろう。
事務所は人気がなく、エアコンも稼動していないせいで薄ら寒かった。自分のデスクでぼんやり煙草をふかす傍ら、無意識に携帯を確かめてはまた溜め息をつく。
「忙しいのか……」
ポツリと零れた独り言には、僅かながら不安が入り混じっていた。
着信もメールもないのは、ただ単に忙しいからだろう。モデルの仕事に加えて、役者になるための演技レッスンやらオーディションやらで忙しなく動き回っているに違いない。
(でももう一週間だぞ……)
たった一週間と言えば、それまでだが。自分にとっては長い時間だ。顔も見れず、声すら聞けない七日間は。
今日はメールの一つくらい、電話の一本くらいあるだろう。そう思って待っていたが、連絡はなかった。
いっそ、こちらから掛けてみようか。けれど大した用事もないのに、頑張っているだろう恋人の集中を乱すのは気が引けた。鬱陶しい男だなんて、絶対に思われたくない。
ここ最近、大翔はモデルの仕事がかなりコンスタントに来るようになったらしい。おかげでここのバイトにもほとんど入っていなかった。きっとこの先も、大翔と会える時間は減っていく一方なのだろう。
そのうち一週間が一ヶ月になり、半年、一年と顔を合わせないような生活になるのではないか。そんなことを思うと、どうにも気が塞ぐ。
結局、大翔と自分を繋ぐ環境はこの職場だけだったのだ。ここで会えないとなると、多忙な大翔と自分が共に過ごせる時間は皆無に等しい。
そんなことは当然で、仕方がないのに。
紫煙に紛れた溜め息が心底煩わしい。いつから自分はこんなに脆弱な思考をするようになったのか。たかだか一週間会えていないくらいで、ここまで過敏になる必要がどこにある。
苛立ち混じりに煙草を捩り消し、すぐさま新しいものに火をつけた。これ以上ないほど身体に悪いストレス解消方法だ。
ずっと傍にいると、大翔は自分にそう約束してくれた。不安で仕方がない臆病な自分に、はっきりと誓ってくれた。
あの言葉だけで充分じゃないか。自分が一番欲しかったものを、大翔だけが与えてくれたのだ。決して揺らぐことのない安らぎや温もりを。
一緒にいられる時間が減ったところで、なにも変わらない。自分たちの関係が変わってしまうなんてことは、決してない。
(はずだよな……)
不安定な胸中で呟いて、思わず苦笑が漏れた。大翔を好きになればなるほど、つまらない感傷が増えていく。
過去は払拭したはずなのに。大翔を信じているはずなのに。どうして自分の心は臆病なままなのだろう。自分の感情に振り回されるなんて、どう考えても下らない。
目下の課題は、こんな女々しい感傷を大翔に知られないようにすることだ。自分は大翔より年上なのだから、情けないところは極力見せたくない。
がっかりされてから慌てて取り繕っても、覆水は盆に帰らないと知っている。
だからせいぜい年上らしく、鷹揚に連絡を待つのが賢明だろう。
そんなことを考えていると、事務所の扉が開いた。やけに疲れた顔の原田が気だるそうに入ってくる。
「おう、いたのか」
「いちゃ悪いんですか。休憩中ですけど」
「なんだよ機嫌悪ぃな。大翔がいねぇのは俺のせいじゃねぇんだから、八つ当たりすんなよ」
つい反射的に軽口を叩くと、原田は顔を歪めて言い返してきた。原田は原田で相当に不機嫌らしい。粗野な仕草で椅子に座り、粗雑な手つきでなにかをデスクに放り出す。
投げ出された小さな箱に、思わず目を見張った。
「なんですかそれ」
「……手作りチョコらしいぜ」
ピンクの包みに赤いリボン。最近どこでも見かけるような――。
「もしかして、バレンタインチョコですか?」
「……他になにがあんだよ」
「誰に、」
もらったのかと問いかけて、口を噤む。さすがに詮索が過ぎるだろう。
「いきなり渡されたんだよ。可愛い女子高生にな」
だが、礼儀としての沈黙に構わず、原田は自ら事の顛末を話し出す。
曰く相手は高校の制服に身を包んだ女子で、売り場の在庫確認をしていた原田にこの箱を渡してきたらしい。
「顔真っ赤にしてな。さすがに困るっつーか、どうしろってんだとは思ったけどよ。受け取れねぇっつったら泣かれちまった。『頑張って作ったのに』ってな」
「それは……」
とんだ災難だと同情しかけたが、まだ続きがあった。
「仕方なく受け取るしかねぇだろ? お前ならどうだ? めそめそしちまったガキを突っぱねられるか? しかも売り場にいるほかの客がチラチラこっち見てんだぞ」
「まあ、そうですね……受け取るかもしれません」
絶対に受け取らない自信があるが、そう断言するのはさすがに気が引けた。曖昧に頷くと、原田がぐっと身を乗り出してくる。
「だろっ? 不可抗力だよな。なのになんで俺が変態扱いされなきゃなんねぇんだよッ!?」
唐突な大声に内心驚いたが、幸い顔や態度には出なかった。
「と、言うと?」
冷静に先を促せば、こういう話だ。
しぶしぶその女子高生からチョコを受け取ったあと、すぐに別の客がつかつかと歩み寄ってきたらしい。現場を見ていた中年の女性で、なんとその女子高生の母親だった。
娘が手作りのチョコを持って家を出たから、どんな男に渡すのか気になって尾行し、相手が原田だと分かって怒鳴り散らしてきた、と。しかも、途轍もない罵詈雑言で。
「なんというか……とばっちりも甚だしいですね」
もしも原田が受け取らなければそのまま丸く――もないが、収まっていたかもしれない、とは思ったが。
どの道、度を越して娘の行動を監視するような母親なら、受け取らなかったとしてもなにかしらの口出しはしてきただろうなと思い直す。
「んで、そのあとがまた大変でよぉ……最終的にゃ、母娘喧嘩の仲裁までさせられたんだぜ」
「……お疲れ様でした」
普段なら他人の愚痴なんて聞くのも面倒だが、今回ばかりは原田の心情を察して同情を向ける。
「バレンタインなんてクソ食らえだ。身内以外から貰ったのなんざ、生まれて初めてだったってのによ」
自分で言って虚しくなったのか、原田は自棄気味に煙草をふかす。その様子がふてくされた時の大翔に似ていて、思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃねぇよ……ったく」
「失礼。秋村君に似ていたもので」
正直に告げると、原田は僅かに驚いた顔をしたあと、声を立てて笑った。
「そういや、最近会ってねぇだろ? あいつ、引越し先探したりなんだり、だいぶ忙しいみてぇだからな」
「引越し?」
思わぬ言葉に、スッと表情が消えるのを自覚した。
「なんだ、大翔から聞いてねぇのか?」
「いえ、なにも……」
聞いていない。そんな話は一度も。
表に出さず動揺していると、原田は煙草を揉み消しながら言う。
「ま、そもそもあいつがここでバイトしてたのは、こっちの方に引っ越してくるためだからな。八王子の実家からじゃ、都心まで来るのも大変だしよ」
「そう、だったんですか」
そんなことすら、知らなかった。ということは。
「最近こっちのシフトに入っていないのは、そのための資金が貯まったからということですか?」
「ま、それだけじゃねぇだろうけどな。あいつ、モデルの仕事も上手くいってるみてぇだし、忙しいんだろ」
(忙しい……)
連絡一つできないほど。だから、自分に知らせることもできなかっただけだろう。
でも。
(初めから引越しのために働いていたなら、どうしてそれを言わなかったんだ)
話すチャンスなんて、それこそいくらでもあったはずなのに。
そう訝った瞬間、ある可能性に思い当たった。
初めから、話す気なんてなかったのではないか。だって、そんなことを自分に話しても仕方がない。
(そりゃ、そうだよな……)
あえて話す必要性を感じなかったのなら、それは大翔の自由意志というものだ。咎める権利も、理由もない。
先ほどの母娘の話ではないが、度の過ぎた干渉はたとえ身内の間であっても軋轢を生む。まして他人でしかない自分と大翔の間では、軋轢以上のなにかをもたらすだろう。
所詮、他人だから。互いがなにを考えてどう行動するかなんて自由だし、いちいち報告しないのが普通だ。相手の意思を尊重できなくなったら、人と人の関係は簡単に壊れてしまう。
そんなことは知っているはずだ。
それでも、一言くらい言ってくれれば、なんて。そう思うことが既に、大翔を束縛しようとしている証のようで。少し自分が怖くなった。
自分の想いこそが、いつか自分たちの関係を決定的に変えてしまうのではないか。そんなふうに思えてならない。
「ま、あれだ。大翔は昔っから、自分のこたぁ結果が出るまで報告しねぇ奴だからな。ちゃんと決まりゃ、連絡してくるだろ」
それほど長く黙り込んだつもりはなかったのに、原田はやけに明るい声でそう付け足してきた。
「結果が出るまで、ですか」
確かに、そうだ。前にドラマのオーディションを受けたときも、自分は何も知らされず、結果が出たあとにようやくそのことを知った。
なら今回も、あのときと同じなのだろう。
「そうですね」
努めて平静に頷きながら、慧は必死に溜め息を飲み込んでいた。
深夜十一時過ぎ、ようやく残業を終えて帰途に着く。鬼塚久のサイン会が目前に迫った今、やることは山積みだ。
帰ったらまずはタイムスケジュールの微調整と会場の見取り図を作成しなければならない。
徒歩十分足らずの距離を足早に進んでいると、
「あ、いたっ!」
背後から聞き慣れた声がした。思わず足を止めて振り、目を見張る。
「慧さんっ、」
喜色満面といった様子の大翔が猛然と駆け寄ってきていた。両手にはなぜかサイズの違う紙袋を大量にぶら下げている。
「秋村君、どう――、っ!」
問いかける間すらなく飛びつかれた。思わず息を詰め、大翔の背中に腕を回す。全体重をかけて容赦なくもたれかかってくるものだから、そうでもしないと背骨が折れそうだ。身長差のせいで必然的に反り返る形になった背中がみしみしと軋んでいる。
「重い……」
「あ、ごめん」
苦し紛れに呟くと、大翔はハッとしたように身体を離した。
「久しぶり。元気だった?」
朗らかな笑顔でそんな言葉を掛けられる。いつもと変わらないその微笑みを懐かしく感じつつ、心底ほっとしている自分がいた。
「別に、変わりはありません」
露骨に顔に出すのはどうにも悔しくて、わざとそっけない返事してしまう自分も、いつもどおりだ。
「で、その荷物はなんですか」
「あ、これ? 実は全部チョコなんだよね」
両手に山ほどぶら提げている紙袋を顎で示すと、苦笑交じりの返答があった。
チョコと聞いて、ああそうかと思い出す。今日はそういう日だった。
「もう、色んな人から貰っちゃってさぁ。スタッフさんとかファンの人とか」
「そうですか……」
これほどの見た目なら誰に貰っても別段不思議はない。大翔自身も相当に人当たりのいい性格をしているから、女性に人気があるのはむしろ当然だろう。
それは仕方がないことだ。だけど、こんなふうにそれを思い知らされるのはあまり気分のいいことじゃない。
チクリと胸を刺す不快感を悟られないよう、無理に苦笑を浮かべた時だった。
「オレ一人じゃ食べきれないからさ、慧さんも少し貰ってくんない?」
裏表一つない無邪気な言葉とともに紙袋が差し出され、思考が停止した。
(は……?)
どうして。
まさかこれを渡すために、会いに来たのか。異性から貰ったようなものを押しつけるために、わざわざ?
そう知って、無意識に拳を握り締める。
久しぶりに会えたことに対する喜びはあっけなく消え失せた。がらんどうになった胸中を埋め尽くすかのように、怒りが肥大していく。
大体、食べきれないのに受け取るなと思う。どうせニコニコ笑って片っ端から受け取ったのだろうが、そんな行為は却って無責任だ。しかも、それを自分に押しつける気でいるなんて。
(無神経な奴だ)
誰の気持ちも考えていない。贈り主の気持ちも、こちらの気持ちも。
内心吐き捨て、きょとんとしている大翔を睨みつけた。
「いりません。チョコレートは嫌いですから」
大翔の目を見て、端的な言葉を返す。
「そんなことのために来たのなら、今すぐ帰ってください」
抑揚も温度もない声に瞠目する男から視線を外し、背中を向けて歩き出す。知らず早足になった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 慧さんっ!」
動揺の滲む声に追い縋られても、振り向きはしない。自宅マンションのエントランスをくぐり抜け、一直線にエレベーターを目指す。
こんな大人気ない態度を取るなんて、どうかしている。そう思っても、心がねじれたような不快感はどうにもならなかった。これではまるで――。
嫉妬しているみたいだ。
(下らない……)
せっかく久しぶりに会えたのに、突き放すようなことをして。大人気ないどころか、子供じみている。こんなもの、ただの八つ当たりだ。
そう自認したところで、なにが変わるでもない。
「慧さんってばっ!」
腕を強引に引かれ、仕方なく立ち止まった。だが、胸中に渦巻く身勝手な感情のせいでどうしても顔が見られない。
場違いなほど明るい音とともにエレベーターが到着した。
ふっつりと黙り込んだ自分をエレベーターに引き連れ、大翔は十六階のボタンを押す。
ふわりと心許ない浮遊感はほんの一瞬だった。次の瞬間には、大翔の腕に深く抱き包まれている。
「……ごめん。そんなに怒んないで……?」
こんなことで誤魔化されてたまるか。そう白々しく思ったはずなのに、大翔の声が予想以上に落ち込んでいるのを聞けば、自己嫌悪に拍車がかかってしまう。
せめてなにか言わなければ。そう気が急いた。しかし、なにを口にすればいいのか分からない。それでも、なにか言わなければ――。
「……連絡、待ってたんですけどね」
熟考することなく口を開いた結果、脈絡もなくそんな言葉が飛び出した。どう聞いても恨み言でしかない。
(馬鹿か、俺は……)
自らの情けなさに落胆し、密かに唇を噛み締めた。年上らしからぬ失態だ。狭量にも程がある。
「ごめん……」
唐突に、自分を抱き締める力が強くなった。搔き抱くような激しさが不安や苛立ちをすべて押し潰されてしまう。されるがままになりつつ内心でひどく動揺していると、
「でもね……オレも待ってたんだよ?」
大翔が小さな声で呟く。
掠れた言葉に瞠目し、とっさに顔を上げた。泣きながら笑うような瞳はあまりに多弁で、息が詰まる。
待っていた? 自分からの連絡を、大翔が?
「ど、どうして」
「叔父さんから聞いてたんだ。慧さん、サイン会の準備でずっと忙しいって。だから、なかなか連絡できなかったんだよ。邪魔したくなかったし」
「そ、そんな理由で……」
遠慮して、待っていたというのか。こちらからの連絡を、一週間も?
呆れかけ、自分も同じだと気づいてしまった。飲み込んでいた溜め息がついに零れ落ちる。
「ごめん……」
しょんぼりと顔色を窺ってくる大翔に首を振った。大翔が謝る必要なんてこれっぽちもない。
「だ、だけどさ、チョコなんてただの口実なんだよっ? オレ、慧さんにこれ以上会えなかったら寂しくて死んじゃいそうだったから、仕事終わってそのまま来ただけで、ほんとに――」
「はいはい、もう分かりましたよ」
鬱陶しいほど必死に弁明してくる大翔を軽くあしらい、小さく笑った。相変わらず大げさな奴だ。寂しくて死ぬのはウサギだけのはずだろう。
それにしても――。
「いつの間にか、君にも遠慮という常識が身についていたんですね」
「だって、嫌われたくないし……」
こちらの軽口に大翔は若干唇を尖らせてむくれている。ああ、この顔はやっぱりどこか原田に似ていると思った瞬間、吹き出してしまった。
まったく、馬鹿馬鹿しい。すれ違っているのかと思えば、そんなことは全然なかった。むしろ愚かしいほど同じことを考えてしまっていたらしい。
苦笑を堪えきれないままエレベータを降り、ちらりと大翔を振り返った。大翔はどういうわけか、エレベータの中からじっとこちらの顔色を窺っている。
(お前は〝待て〟を命じられた犬か……)
内心呆れつつ肩を竦めて見せると、分かりやすいほど顔を輝かせて駆け寄ってきた。
遠慮なんて、覚えてくれなくてもよかったのにと思う。
「そういえば、引越し先は決まったんですか」
「え?」
ソファの上でコーヒーを啜りながら、どうしても気になって仕方がなかったことを口にした。が、すぐさま後悔する。
余計なことを聞かなければよかった。せめて大翔が自分から話してくれるのを待つべきだったと、無表情の下で深く反省する。これは明らかに過ぎた詮索だ。
「なんで引越しのこと知ってるの?」
今さら質問を取り消すこともできず、不思議そうな顔で隣に腰を下ろしてくる大翔からつと視線を逸らした。
「原田さんから聞いただけです」
「ああ……叔父さんって結構勝手に喋るよね」
納得したらしい大翔が苦々しく溜め息をつく。そんなに知られたくなかったのか。
「びっくりさせようと思ったのに」
僅かながらショックを受けていると、妙な言葉が続いた。
びっくり?
「……誰を?」
そしてなぜ。
理解できない自分に、大翔は気落ちしたような視線を向けてくる。
「慧さんに決まってるじゃんか。オレ、このマンションの近くで物件探してたんだよ。いつでも会える範囲でさ。……ちゃんと決まったら話そうと思ってのになんでバラしちゃうかな」
溜め息と一緒にそんな暴露をされた身としては、ただただ呆気に取られるしかない。
そんな理由で黙っていたなんて、誰が思う。
「って言うかさぁ……この辺って、なんでこんなに家賃高いの? 全然払える額じゃないし……」
唖然としている自分に気づいていないのか、大翔はがっかりしたように肩を落としたままぼやいていた。
〝いつでも会える〟ように。この近くに越して来たいのか。そんなもの――。
「ここに住めば解決するじゃないか」
空のコーヒーカップに口をつけたまま、独り言のように呟いた。
別々に住むくらいなら、と短絡的に思っただけだ。大翔がここに住めば、〝会える〟とか〝会えない〟なんて問題は綺麗さっぱりなくなるはずだと。
飛び跳ねるような勢いで大翔がこちらを向く。
「え、えっ!?」
「部屋は余ってますけど」
「いいのっ!?」
この至近距離でそんな大声を出されては堪ったものじゃない。顔をしかめて距離を取りつつ、「別にいいんじゃないですか」と気のない返事をする。
大翔がいいなら、それで。ゲイの男と住むなんて普通は気持ち悪いと思うが、大翔が嫌じゃないなら、それで。
(というか、こいつはそもそも普通じゃなかったか……)
そう思い出し、歓声を上げて飛びついてくる男にげんなりする。
ストレートの癖に自分のような性根の捩くれた男と付き合っている時点で、だいぶ普通じゃない。むしろ異常だ。物好きのレベルを超えている。
「いつ!? いつから住んでいいのっ?」
鬱陶しくまとわりついてくる大翔に呆れつつ、少し考えてから口を開いた。
「サイン会が終わってからなら、いつでも構、んッ……」
言い終わらないうちに唇を塞がれる。柔らかな舌が深く絡みついてきた瞬間、胸の奥が歓喜に震えた。情動のまま貪るように応えると、甘いだけのキスに熾烈な熱が加わる。
ずっと、この熱を望んでいたのだ。不安のすべてを焼き尽くすような、この熱を。
後頭部を包みこむように支えている手の温もりが、そのまま大翔の心を示すかのようで、堪らなくなった。こんな感情はいつからここにあったのだろう。
切ないほど愛しいなんて。
「っ、……ふ、ン……っ」
口蓋をそっとなぞられただけで容赦なく性感を刺激され、身体の中心が熱く昂ぶっていく。いつの間にかソファの上に押し倒されていることにも気づけないまま、大翔の背中にきつくしがみついた。
「大翔、……っ、」
名前を呼んで、欲しいと言えば、なんでもくれると知っている。飾らない笑顔も、優しい温もりも、貪欲な執着心ですらこの男ならくれると知っている。
「は……ぁ、」
大翔の手でシャツのボタンを外されるだけで狂おしいほど鼓動が早まった。晒された素肌にキスが降り注ぐたび、知らず呼吸が上がっていく。
ピンと尖った肉芽を食まれ、脳が痺れるような快感に眩暈を覚えた。
「も、やめ、うぁ……っ」
大翔の頭を押さえつけて抵抗すると軽く歯を立てられて、ますます視界が眩む。
「やめていいの? こんなになってるのに?」
下着を割った手のひらで張り詰めた欲望を握り込みながら、大翔は悪戯な苦笑を零す。痛いほど昂ぶったそこは大翔が与える快感だけを欲していた。
蜜の溢れ出す先端を親指でそっと抉られ、突き抜けるような快楽に思わず腰が浮く。その隙を逃さず、息を飲むほど大胆に下着を抜き取られた。
「ま、さと、っ」
「やっぱちょっときつくなってるかな……」
片脚を抱え上げ、奥まった場所をまじまじ観察されるのはいたたまれない。なにかを試すようにゆっくりと指を差し込まれ、ぞわぞわした感触に喉の奥が鳴った。
深くまで指を挿し込み、そのまま円を書くように回される。きつく締め付ける内壁をこじ拡げられただけで頭の中が真っ白になった。
「も、う、いいっ……から、早くっ、」
焦れた脳内から理性が消し飛び、うわ言を口にする。それでも大翔は丹念に蕾をほぐし、ようやく自身の欲望を押し当ててきた頃には指だけで二回もイかされていた。
「くっ、ぁ……ッ」
灼熱の肉棒に串刺され、加減もできないまま大翔の背中に指先を食い込ませる。圧倒的な充足感に呼吸すら忘れた。
「慧さん、ちゃんと息して……?」
「は……っ、」
言われるまま浅い呼吸を繰り返すと、繋がった場所から熟れたような熱が溶け出す。
「ね、慧さん……動いていい?」
耳元でそう囁く大翔の呼吸も荒かった。
「ん、」
掠れた声にかろうじて頷いた。
「あ、っ、ぁあっ、ま、さと……ンっぁ」
最初は気遣わしげだった抽送が次第に激しさを増す。最奥まで貫いて小刻みに揺すられ、深く舌を絡ませながらペニスを扱かれ、巧みに絶頂へと追いやられていく。
不意にふわりと身体が浮いたかと思うと、繋がったまま体位を変えられた。
「ン……っ、あぁっ、」
大翔の膝に跨る格好で自ら激しく腰を動かす。時折下から鋭く突き上げられ、反り返った欲望にとめどない蜜が伝い落ちた。
「あッ、も、イク――っ、」
「っ、オレも……ッ」
中を穿つ大翔の欲望がひときわ大きく脈打ち、次の瞬間に破裂した。
「ぅ、ああッ――」
慧は背中を反らせてほとんど同時に達する。そのままくったりと全身の力を抜いたせいで、危うくソファから転落するところだった。
すんでのところで支えて引き戻してくれた大翔にもたれ、荒い呼吸を繰り返す。
「慧さん……」
指の先にすら力が入らない自分を優しい腕の中に抱えたまま、大翔は穏やな声を発した。
「オレ、約束は破らないよ。ずっと傍にいるって、何度でも誓う。だからさ、一緒にさせてね」
この先も、ずっと――。
「それは、こっちの台詞ですよ……」
置いて行かれるのは、きっと自分のほうだから。大翔が先に進み続ける限り、停滞している自分は置いて行かれる。それは仕方がないことだ。
置いて行かないで欲しいなんて、そんな我が侭は言わない。言う権利もない。だからせめて。
ずっと一緒にいさせて欲しいと、それだけを口にする。
その権利だけ与えてくれるなら、他にはなにもいらない。
「ほんとに怖がりだなぁ……」
大翔はしょうがないというように苦笑し、温かな手つきで頭を撫でてきた。
「そんなの当たり前じゃんか。だってオレ、ここに住むもん。一生ね。慧さんに〝出て行け〟って言われても、もう言うことなんか聞かないよ?」
朗らかな笑い声に、つられて笑みを浮かべた。
どんなに遠くまで行っても、大翔は必ずここに戻ってくる。自分の元に、必ず。それだけで充分だ。
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