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『褪せない想い出』
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バスの中は喧騒に満ちている。
「ヤベー、早く滑りてー」
「あー。お前、来年ぜってぇ受験落ちるぜ」
「は!? バカ違ぇって!」
「ねぇあれじゃないっ!?」
「ヤバっ!! え、超キレイじゃん!?」
イカれたテンションの男子と、かしましい女子の笑い声。
(うるせぇ……)
初めての宿泊行事に興奮するのは勝手だが、馬鹿騒ぎも程ほどにして欲しかった。こちとら絶賛バス酔い中なのだ。
「あー……クソ」
気持ち悪い。脳みそを掻き回されるような不快感に朋久は顔をしかめ、吐き気を堪えて窓の外を向いた。
がらんと続く道の向こうに、真っ白く澄んだ山が見える。見慣れた富士の山と違って、どことなく不格好な丘陵だ。却って新鮮味を覚え、束の間酔いを忘れて見入ってしまう。
積雪に輝く飯綱山。これから自分達が一泊二日を過ごすことになるスキー場は、かの山の麓にあるらしい。
だがこれといって楽しみでもなんでもない朋久は、すぐに興味を失って目を伏せた。揺れる車体に合わせて視界が眩む。
インターチェンジを降りてからずっと悪路だ。普段乗り物酔いなんてまったくしないはずの自分がこんな目に遭っているのに、クラスの連中は皆元気いっぱい、猿のようにはしゃいでいるのがムカつく。
やっぱり来るんじゃなかった。窓に頭を預けて瞑目し、胸中で毒づいた。
学校行事などクソ食らえだ。なにが楽しくてこの寒い季節にぞろぞろ県外まで連れ出されなければならないのか。このあと強制的にウィンタースポーツでレクリエーション? 冗談じゃない。
これならしち面倒くさい授業の方が、惰眠を貪れるだけまだましだ。
「朋久、酔ったのか?」
悪心から努めて意識を外しつつ浅い呼吸を繰り返していると、隣から声がした。ちらりと薄目を開ける。
ずっと俯き加減に読書を堪能していた慧が、いつの間にやら気遣うような視線を自分に向けていた。
「顔色悪いぞ。酔い止めの薬飲むか?」
可憐な容姿に似合わない、不安定に掠れた声。ちょうど変声期の真っ只中らしい。最近の慧はそれを気にして自分からは滅多に口を利かないのに、珍しいこともあるものだ。
「ちょっと待て、確か持って来たはず……」
本を膝の上においてリュックを探っている慧に、小さく首を振った。
「いい。いらねぇ……」
今さら手遅れだし、既に飲食物を受け付けられる状態でもない。そう言うと慧は微かに眉をひそめる。
「そんなにひどいのか」
「ああ……もうマジで帰りてぇよ」
自分のリュックを膝に抱きかかえて前傾姿勢を取りながら、唸るように本音を吐いた。丸めた背中を慧は恐る恐る、優しい手つきでさすってくれる。
その瞬間、胸の奥に染みるような感情が湧いた。俯いて顔が見えないのをいいことに、思いっきりにやけてしまう。
普段はツンと澄ましていてあまり可愛げのない慧だが、こういうなにげない場面で無意識に優しい行動を取る。それが自分に対してだけだということを知っている朋久は、優越感と相まってますます慧に惹かれていくのだ。
自分は慧の〝特別〟だと、傲慢に信じている。教室の片隅でひたすら読書に没頭するような孤独な奴が、自分にだけは笑顔を見せるし、悪態をついて怒りさえするのだから。
(変われば変わるもんだよな)
労わるような手の動きが、こんなにも嬉しい。他の人間にこんな態度を取ることはまずないだろうと思うと、余計に。
〝親友〟というこのポジションを獲得するまでに丸一年近くかかったが、慧は今、自分の隣にいる。
最初は露骨に鬱陶しがり、話しかければ迷惑そうな顔しかしなかったくせに、今となっては慧の方から近寄ってくるようになった。こうしてバスの席順も、当たり前のように隣同士を選び合ったのだ。
傍にいるのが自然で、近ければ近いほどしっくり来る。それが自分たちの関係だった。
「……本当にヤバそうだな。着いたら少し休ませてもらえよ」
「別にそこまでじゃねぇよ」
帰りたいと思ったのは本心だが、実のところ慧と一泊二日も一緒にいられるのはものすごく楽しみだったりする。
今日は慧にボードを教える約束だ。今までスキーは何度か経験しているらしいが、スノーボードはまったくのビギナーだと言う。幼少の頃からボード一筋の自分は一から全てを教えてやれるだろう。
いつもはムカつくだけの父親に、今日だけは感謝してやらなくもないと思った。俺にボードを教えてくれてサンキュー親父。
学校行事は大嫌いだが、慧と一緒だと思えば全然悪くない。我ながら現金だが、少しばかり悪心も薄らいだ。
「ああ、着いたみたいだな」
ひたすら雪道を進んでいたバスが大きく跳ね、反射的に窓の外を見る。だだっ広い駐車場には、似たような観光バスがずらりと停まっていた。どうやら他の学校の連中も来ているらしい。
うじゃうじゃとバスから降りている他校の生徒を目にし、慧は気鬱そうな顔をしている。人だかりや人ごみが苦手なのは知っていた。
「……なんか、俺も帰りたくなってきた」
「今さら言うなよ。もう着いちまってんだから」
心底嫌そうな慧に苦笑し、大きく息をつく。バスが停まり、ようやく吐き気から解放された。
「あんな寒いとこで運動するくらいなら、引き篭もって読書してた方が有意義だと思うんだけどな」
ここ一番に大はしゃぎするクラスメイトの喧騒に紛れ、慧はポツリと呟く。
そう言うわりに、窓の外を眺める目は微かに輝いていた。こんな些細な変化に気づけるのは、きっと自分だけだろうが。
「ほんっとに下らない行事だ。マジで来るんじゃなかった」
「とか言いつつ、お前、実は結構楽しみなんだろ?」
意地悪く問えば、慧は眉間にしわを寄せて鼻を鳴らした。まったくもって、素直じゃない。思わず吹き出し、腹を抱えて笑った。
「だから、そんなへっぴり腰になんなって。バランス取れよ」
「やってるだろ! こっちは初心者だって……うわっ!」
言った傍から派手に尻餅をつき、慧は憮然と顔をしかめる。慣れない動きに歯噛みしているのは明らかだ。
「お前、スキーはやったことあんだろ? 大して変わんねぇって」
「……スキーはこんなに難しくない」
「ボードも難しくねぇよ」
一旦ボードから足を外させ、手を引いた。慧は納得いかないような顔で立ち上がる。
「お前は慣れてるから楽勝なんだろ。感覚で教えられても、いきなりできるようになんかなるかよ」
「自転車と一緒だっつの。こればっかりは自分でコツ掴むしかねぇんだよ」
とは言え、確かに教え方が悪いのかもしれない。自分は幼い頃からボードに慣れているせいで、どうしても初心者の恐怖心や戸惑いを看過しがちだ。
「そんじゃあ、片足からやってみるか? 前足だけバインディングしてスケボーみたいに滑ってみろよ」
そう言えば、自分もそこから始めたのではなかったか。そんなことを遅ればせながら思い出した。
「こっちだけか?」
「ああ。後ろ足はフリーでいい。まずはバランスの取り方から覚えろよ」
「……最初からこうやって教えてくれればよかったじゃねぇか」
まったくだ。
不満そうな声に苦笑いし、ほとんど真っ平らな雪の上を滑らせる。だが、やはり怖いのか、慧の視線は常に足元だ。
「前見ろって。進みてぇ方向を見ろ」
一つひとつ丁寧に教えていくと、慧は自然とバランス感覚を身につけていった。
教えるのも、意外に楽しい。
「どうだ?」
慧は一つのことができるようになるたび自信をつけ、無邪気な笑顔が増えていく。それを見るのが一番楽しいと思えた。いや、どちらかと言うと嬉しいのかもしれない。
慧と一緒にいられるだけでも楽しいのに、そんな笑顔まで見せられたら、喜ぶなと言う方が無茶だ。
「ああ。だいぶ良くなった。次はちょっと下ってみるか」
少し場所を変えようと誘い、ボードを抱えて超初級コースへ移動する。ここならスピードが出過ぎる心配もない。
「あの細い木、見えるか?」
三十メートルほど先の木を示すと、慧は頷いた。
「あそこまで一人で下りてみろ。転ぶときは後ろに転べ。間違っても前に手を突くなよ」
下手をすると骨を折る危険がある。くどくどした忠告を慧は鬱陶しがらず、最後まで真剣に聞いてくれた。
「分かった……お前もすぐ来るよな?」
不安そうな問いに頷いてみせると、慧は緊張した面持ちで大きく息を吸い込む。
片足だけ固定した状態で、慧は慎重に雪を蹴った。後は自然と斜面を下るだけだ。
ほんの小一時間教えただけだが、予想以上に上達が早い。慧は無駄に力むことなく、リラックスした様子でボードに身体を預けていた。
「焦るなよー!」
さほどスピードはないものの、慧の姿が離れていくのは結構不安だ。はらはらしながら、小さくなっていく背中を見送る。
十五メートルほど離れたとき、自分の背後で賑やかしい声がした。ちらりと振り返れば、まだ小学生だろう子供が数人、今にも坂を下ろうとしている。皆、スキー板を履いていた。
「競争な」
「ビリは夕飯と朝食のデザート献上で」
「えー、そんなのずるいよ」
「恨みっこなしだぜ!」
「よーい、どんっ!!」
はしゃぎ合う子供たちが勢いよく斜面を下り始めた瞬間、なぜだがすごく嫌な予感がした。
思わずその子供たち背中に声を掛けようとしたが、間に合わない。
あっという間に遠のいて行く彼らを目で追い、次いで慧に視線を向けた。慧はあと少しで目標地点に着く――が。
「っ……おい、!」
そのすぐ傍を、子供たちが猛スピードで駆け抜けた。驚いたのか、慧は不意にバランスを崩し、一番遅れていた子がその肩にぶつかる。
もんどり打って二人が転ぶのを目の当たりにし、慌ててボードを履いた。斜面を一気に駆け下り、慧の目前で急停止する。
「慧! 大丈夫かっ!?」
「……っ、」
「ったぁ……」
尻餅をつくように転倒した慧の腹に、ぶつかった子供が折り重なって倒れていた。子供のことなど心底どうでもいい朋久は、そちらには見向きもせず慧の顔を覗き込む。
「どっか打ったかっ?」
「いや。別に平気だ。……ってか、おい」
慧は自分の腹に乗っかっている子供を睨みつけ、膝頭で軽く蹴り上げる。
「どけよ。重いだろ」
「わっ! ご、ごめんなさいっ!」
ばっと飛び退くように身を起こした子供を一瞥し、ふと息を飲んだ。慧も似たような反応をしている。
「オレ、ちゃんと前見てなくてっ! ほんとにごめんっ! 大丈夫だった?」
慌てたように慧の顔を覗き込むのは、口調からしてどうやら少年らしい。が、その容姿はどこからどう見ても可憐な少女だ。大きな瞳は無垢に輝いているし、長々とした睫にまで雪の粉が乗っていて余計に可愛らしい。
(これで男かよ……)
末恐ろしく美形な少年が、絶句する自分たちを交互に見比べて困惑している。顔色を窺うような不安げな視線を受け、ようやく二人揃って我に返った。
「平気だから、さっさとどいてくれ」
「うん……ほんとにごめんね?」
なおも萎縮した様子で身を引いた少年を、気まぐれに助け起こす。なんとなし、苛めているような罪悪感を覚えたのかもしれない。そんなつもりはまったくないというのに。
「お前もケガはなかったか? だいぶ派手にすっ転んだだろ」
「ううん、全然平気だよ。ありがとう」
ほわりと白い息を零して笑うと、ますます少女っぽい。こうして立ち上がると、思っていた以上に背が高かった。もこもこしたスキーウェアを纏っていても、その手足がすらりと長いのは瞭然だ。
「お兄さんたちはスノボなんだ? かっこいいなー」
「だろ。スキーなんてダセェよ」
純粋に羨まれれば、ちょっとばかり見栄を張りたくなる。鼻先で笑って見せると、雪の上に腰を下ろしたままの慧がムッと顔をしかめた。
「悪かったな。ダサいスキーしか上手く滑れなくて」
「……悪ぃ」
迂闊な失言だったと気づいて、唇を歪める。慧は明らかに気分を悪くした様子でこちらを睨みつけていた。
「大丈夫だよ」
俄かに険悪な空気が漂い出した自分たちを割って、少年は朗らかに笑う。澄み切った瞳で慧を見つめ、
「どんなことだって、一生懸命やればかっこいいんだからさ」
そんな純朴なことを言った。思っていたよりも芯の強い、逞しい少年らしい。自分も慧も驚いて、まじまじと少年を見つめた。
「おーい、まさとー!! なにやってんだよー!」
「置いてくぞー!」
少し先で少年の仲間が声を張り上げている。
「すぐ行くよー!!」
少年は口元に両手を添え、大きな声で応えてからこちらを向いた。
「ごめん、オレ、もう行かなきゃ。頑張ってね、お兄さんたちっ!」
小さな手をグッと握り締め、力いっぱい自分らを励ましてから、少年は雪道を滑り降りていった。
「……あんな子供に励まされるとか、なんか情けなくねぇか俺たち」
「……同感だな」
苦笑する自分に慧は頷き、スッと手を伸ばしてくる。その手を強く握って引き起こし、視線を交わらせた瞬間、二人揃って吹き出した。
「あー……明日もあるのか……」
和室の隅に敷いた布団の上で、うつ伏せに脱力した慧がぼやく。
「絶対、筋肉痛だ」
「そりゃ諦めろって。お前、普段は全然運動しねぇんだから仕方ないだろ」
「体育は真面目に受けてるぞ」
「それだけだろ」
自分に言わせれば、あの程度の動きは運動のうちに入らない。
奇しくも寝巻き代わりに運動着を身につけた自分たちを見ると、やはりこの行事すら強制的な授業なのだと思い知らされた。なにがレクリエーションだ。
一度その言葉の意味を辞書で調べて来いと、調子のいい教師どもに言いたくなる。
「明日は両足で滑れるようにしてやるよ。んで、一緒にリフトで上まで行こうぜ」
今日はそこまでできなかったが、まだ明日がある。自分にとっては期待値が高まる事実だ。
まだ、一緒にいられる。今日だって、まだ終わってない。
「そうだな……お前はちっとも自由に滑れなかったしな。明日はなんとか、上まで行けるようになるよ」
腕を枕に頬を預けた慧が気だるそうに微笑む。さりげない言葉だったが、自分を気遣ってくれたのだと分かった。
「そんなこと、別に気にしてねぇよ。毎年嫌でも滑るんだ。親父に連れまわされて、あっちこっち」
ボードは嫌いじゃないが、年々上達していくにつれて興味が失われつつある。家族でどこかへ出かけるのも、少しばかり気恥ずかしいのだ。
そういうニュアンスを含めて言うと、慧も自分の家族に対して似通ったような感情があるのだろう、複雑な笑みを浮かべて沈黙した。
「おーい、消灯時間だぞー」
広間の入り口から教師の声が掛かり、周りの生徒たちが慌てたように布団へと潜っていく。
それを横目に、やれやれと首を振りながら、慧の隣に敷いた布団へ寝転んだ。
女子は四人一組で個室を与えられているのに、自分たち男子はクラスごと大広間で雑魚寝とは。
(男女差別じゃねぇのか)
胸中で不満を零すと同時に、灯りが落ちる。
「あとで見回りに来るからなー。ちゃんと寝ろよー」
迷惑極まりない忠告一つを残して教師が去ると、暗闇のあちこちでひそひそと囁き合う声が上がった。
「なあ慧」
「ん?」
自分たちもそれに倣い、声を潜めて話を続ける。中学三年間でたった数回しかない貴重な宿泊行事だ。さっさと眠ってしまうなんてもったいない。そう思うのは、皆同じだろう。自分や慧も含めて。
「お前、高校はもう決めたのか?」
「あー……まだ。つか、どこでもいい」
「マジかよ。お前なら相当レベル高いところでも受かるだろ? 北浜高とか」
「北浜って……受かるわけないだろ」
「受かれよ。俺はそこに行くぞ」
「は? お前、マジか……?」
こんな暗がりでも、慧が目を見開いたのが分かる。まあ、北浜と言えば地元の山梨県内でトップスリーに入る進学校の名前だ。誰でも同じような反応をするだろう。
「もう決めたことだ。俺は北浜以外は受けねぇ」
「滑り止めもか? それはヤバイだろ、さすがに」
「まあな。でも落ちる気はしねぇよ」
「……嫌味じゃないよな?」
まさか。吐息で笑って否定した。本当に自信があるし、慧も受かると思っている。なにせ慧は、学力レベルで言えば自分と同等か、それ以上なのだから。
「なあ、お前も北浜受けろよ。んで、絶対受かれ。そしたら――」
中学を卒業したそのあとでも、まだ自分たちは一緒にいられる。途切れることなく、また三年。大学だって同じなら、もっと先も――。
そんな未来を、望んでいるのだ。離れたくない。離したくない。この想いが、どこか友人としての領域を踏み外そうとしているのは分かっているけれど。
それでも、慧の傍にいたいのだ。
迷うような沈黙に、辛抱強く耐えた。うっかり口を開けば、余計なことを言ってしまうような気がした。決して知られてはならないことを、悟られてはならない感情を、迂闊な言葉で吐露してしまいそうだ。
「……そう、だな。悪くないかもな」
やがて掠れるような呟きが返って来た。
「俺も北浜、受けてみるか」
「マジかよっ!?」
飛び上がらんばかりに嬉しい言葉だった。思わず興奮した声を上げる。
「シっ! 怒られるぞ」
「悪い。……マジで同じとこ受けてくれんだな? 本当だよな?」
鋭く咎められながらも、湧き上がる歓喜は止まらなかった。囁くトーンでしつこいくらいに同じ問いを繰り返すと、呆れたように笑われた。
忍び笑いをぶつけ、下らない話を延々とする。そのほとんどが、未来に対する空想だった。
「お前、将来どんな仕事に就きてぇんだ?」
「そうだな……俺は本がなきゃ生きてけないから、それ関係かな」
慧らしい答えだと苦笑する。呼吸するのと同じように、いつでも本を読み耽っているのが慧だ。
そう言えば、慧に初めて話し掛けたのも学校の図書室だった。
慧ほどではないが、自分もかなり読書が好きで、一年の頃は毎日のように図書館通いをしていたのだ。
ある日、放課後のその場所で、やけに人目を引く容姿をした生徒を見かけた。それが他クラスの志槻慧だと気づいて、本当に驚いた記憶がある。
それまでは、いつ見かけても無表情で、たった一人ぽつんとしている慧を、心底暗い奴だと思っていたのだ。けれど、本を読んでいるときの慧は、思わず目を見張ってしまうほど表情が豊かだった。
それはもう、別人かと疑いたくなるほどに。
小さく笑ってみたり、時に眉をひそめてみたり、かと思えば悲しげに瞳を歪ませたり。
見ていてちっとも飽きず、そのうち眺めるのが癖になってしまった。
放課後に図書室に通いつめる理由は、少しずつ別のものにすり替わり、気づけば片時も目が離せなくなっていた。
「……確かに、お前は本に囲まれてる方が自然かもな。逆に書く側ってのもありじゃねぇか? 作家とかよ」
半ば本気で言ったのだが、慧は「まさか」と一笑に付した。
「そんなの無理に決まってるだろ。プロの作家なんて」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ」
「無理だっつの。そういうお前は将来、どんな仕事に就くつもりだよ」
「俺か? 俺はまあ、なんつーか、普通だろ」
自分の未来を想像してみても、具体的なビジョンはまるで浮かんでこない。ただ、隣にいるのが慧でありさえすればいいと思うだけだ。
「〝普通〟って、なんだよそれ。漠然としすぎだろ」
「どっかの会社に勤めて、朝は七時起きで、九時から仕事が始まって、定時で帰って、あとは時々残業――とか、そんな感じだろ」
「やっぱ漠然としたままじゃねぇかよ」
呆れたような、それでいて面白がるような忍び笑いが耳朶を打つ。
「せめて残業は毎日だって思っとけよ。その方がまだ現実味がある」
「疲れて帰っても、家は真っ暗か?」
「優しい彼女もいないぞ、きっと」
「最悪じゃねぇか、未来の俺は」
本当に馬鹿馬鹿しい空想だ。そんなことでさえ、慧と話せば楽しくて仕方がなかった。
「……せめて親友くらいはいるんだろうな?」
「そりゃいるだろ。多分」
「〝多分〟かよ」
冗談交じりに、本音をぶちまける。〝せめてお前はいるよな〟と。その答えはほとんど即答だった。
そうだよな。いるよな。
そう微笑み、ふと押し黙る。廊下から大人の足音が聞こえたのだ。
どうやら宣言通り見回りに来たらしい。
暗がりの中、とっくに目が慣れた自分たちは密かに視線を交わして、無言のまま笑い合う。
どのくらい寝たふりをしていたのか。
「……慧?」
小さな呼び掛けに、答えはなかった。そっと顔を近づけてみれば、慧はとっくに寝息を立てている。
(なんだ……寝ちまったのかよ)
落胆する思いはあるが、慧の無防備な寝顔を見るのは新鮮だ。
長い睫に触れるほど顔を近づけ、薄い唇から漏れる吐息を感じた瞬間、耐え切れなくなった。ほとんど無意識か、あるいは衝動的に唇を重ねる。
(っ……!)
予想以上の柔らかさに動揺し、弾かれたように唇を離した。心臓が狂うほど暴れている。俺はなにをやっているんだと、我に返ってひたすら慄いた。
自分は紛れもない男で、慧も男だ。しかも、親友なのに――。
キス一つで、身体が反応している。
(嘘だろ……っ)
全身の血液が沸騰したかのような、制御の聞かない情欲を自覚し、激しく狼狽した。
これはどう考えても、ヤバイ。そのくらいは分かる。
いつから自分はこんなにも異質な感情を持っていたのだろうか。
慧に触れたいなんて。
(どうすりゃいいんだよ……)
こんな想いを知られるわけにはいかない。知られたらきっと、この関係は木っ端微塵になってしまう。ようやく、慧と一緒にいる未来が見え始めたのに。
好きで、好きで、堪らない。触れて、いっそ汚してしまいたいほどに。
こんな切迫した気持ちは、絶対に隠し通さなければならないものだ。
この先も、慧の傍にいたいと願うなら。
布団を頭から被り、朋久はきつく目を閉じた。こんなもの、寝てしまえば自然に収まるはずだ。
(頼むから収まってくれ……)
だが、そう願えば願うほど、すぐ隣にいる慧の気配が強くなってしまう。
甘く感じるほど柔らかな唇の感触を思い出し、結局、朝までひたすら悶絶するはめになった。
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