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『この焦熱だけ』
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「んん……」
小さな呻き声に、慧はふと本から顔を上げる。ベッドサイドの明かりだけを点けた寝室はほのかなオレンジ色に染まっていた。
ちらりと横を見て、微かに眉をひそめる。
「秋村君……?」
囁くような声を掛けつつ、苦しげな吐息を零して眠る大翔の額にそっと手を当てた。途端、眉間のしわが深くなるのを自覚する。だいぶ熱が上がり始めているようだ。
(まったくこいつは……)
溜め息をこぼしながら本に栞を挟み、素足でベッドを抜け出す。やや焦りながら真っ暗なリビングへと向かい、冷蔵庫から冷熱シートを取り出した。自分も時々本の読みすぎが原因で微熱を出すから、気休め代わりに常備しているものだ。
ついでにペットボトルのミネラルウォーターも取り出し、足音を立てないよう寝室に戻った。ベッドの傍に膝をついて大翔の寝顔を覗き込む。微かに眉根の寄った顔――相当に頭が痛いのだろう。額には薄っすらと汗の玉が浮かんでいる。
やっぱり、あの病院で風邪をもらってきたのか。そう思うと、呵責心が湧き起こった。こうなる可能性があったから、あれほど〝先に帰れ〟と言ったのに。
大翔は自分の怪我の手当てに付き添っただけだ。なのに風邪をもらってしまうなんて。
(はねつけてでも強引に帰すべきだったな……)
今さら後悔したところで、熱が下がってくれるわけでもない。慧は溜め息を飲み込んで大翔に手を伸ばした。
汗で張り付いた前髪をそうっと掻き上げ、慎重に冷却シートを貼り付ける。冷たかったのか、大翔の肩が僅かに跳ねた。
起こしてしまったかと一瞬動揺するが、大翔はきつく目を閉じたままだ。
もう少し早く大翔の顔色が悪いことに気づいていればよかった。そんな後悔さえ、遅すぎるが故に後悔する。
せめて朝までに熱が下がってくれればいいのだが、と。そう願うことしか出来ない自分が歯がゆかった。
「マズイな……どうする……」
結局、朝になっても大翔の熱は下がらないままだった。むしろひどくなっている。冷却シートの常備も尽きてしまい、慧はひどく慌てていた。
「慧さん……今、何時……?」
唸るような問いかけに、大翔の顔を覗き込んで答える。
「朝七時過ぎです。君、今日の予定は?」
「……お昼から撮影入ってる……けど、」
「休めますか」
どう考えても出かけられる状態ではない。それは大翔自身が一番よく分かっているのだろう。真っ青な顔で小さく頷いた。
「それじゃあ、連絡してください。私は少し出掛けてきます」
「うん……」
力ない返答に臍を噛む思いで寝室を飛び出す。なんてことだ。
(クソ……っ)
自分のせいで、大翔が仕事を休むはめになるなんて。これまで一生懸命やってきただろう大翔の足を、自分が引き止めてしまうことになるなんて。
自らに対する苛立ちが止まらない。内心ひどくささくれ立ったまま服を着替え、飛び出すようにしてマンションを出た。
まだ薬局は開いていない。仕方ないと近くのコンビニを目指し、栄養剤と冷却シート、氷、ゼリーやカットフルーツをカゴに投げ込んでレジに急行した。
せめて、唯一の救いと言えなくもないのは、自分が今日一日休みをもらえていることだ。この顔の怪我を気遣ってシフトを代わってくれた原田に感謝したい――と思いかけ、いや待てと思考に半畳を入れる。
(そもそもあの熊が余計なお節介をかけてきたのが元凶だろ)
そう気づいてしまうと、原田の行動はマッチポンプとしか言いようがない。こんな怪我で病院に行く必要はやはり皆無だったのだ。大翔を巻き込む理由も。
だが、一番初めの原因はあのサイン会でのひと騒動である。あの時自分がもう少し迅速に行動していれば、こんな怪我をすることもなかったのだ。と考えれば、元凶は明らかに。
(俺のせいじゃないか……っ)
ますます自分に苛立ちながらマンションに取って返す。エントランスの自動ドアが開く速度、エレベーターが到着するまでの時間、全てがもどかしく、憎らしい。
転がるようにして玄関を上がり、寝室に飛び込んだ。大翔はぐったりとベッドに横たわって目を閉じている。だらりと垂れ下がった手には携帯が握られていた。
「秋村君」
それを取り上げてそっと呼びかける。大翔は薄く目を開けてこちらを見た。熱で潤んだ瞳に心臓が締め付けられる。
普段あれだけ元気で鬱陶しい男がこんなにも弱々しく、覇気がない。見ている方がつらくなりそうだ。
けれど、最もつらいのは大翔だと分かっている。
「連絡、できましたか」
「うん……」
「すみません。私のせいで休ませることになりました」
自責を持って謝罪するが、大翔は小さく首を振った。
「慧さんのせいじゃないよ。……自業自得、かな」
〝ちょっと油断した〟とはにかむ大翔は、まったくいつもの大翔じゃない。
(どうして、大翔なんだ……っ)
どうせ風邪を引くなら、自分がよかった。
こんなに弱りきった大翔を見るのはつらい。早く、いつもみたいに鬱陶しくまとわりついて欲しい。ありもしない尻尾をパタパタ振って、しつこいくらい近い距離で笑って欲しい。
「慧さん……」
なおも自責を持って沈黙していると、大翔が小さく自分を呼んだ。ちらりと視線を向けると、大翔は怖々とした目でこちらを見ている。
「オレ、病院はヤダよ……? 注射されたら泣くからね……?」
「子供ですか君は」
本気で今にも泣き出しそうだ。
呆れながらもそっと頭を撫でてやり、努めて穏やかに口を開く。
「もう少ししたら薬局が開きます。そのとき薬も買ってきますから、それで様子を見ましょう」
「行かなくていいの……?」
「その状態で、わざわざあんな雑菌だらけのところへ行くのは却って危ないですから。診察の待ち時間も長いですし……」
そんな無為な時間を過ごすくらいなら、一分でも長く眠っていた方がいいだろう。そう言うと大翔はほっとしたように笑った。
どうやら大翔は大の病院嫌いだったらしい。自分のことは無理やり引っ張って言ったくせに、などという恨み言は黙っておいた方がいいのだろうか。
(俺だって病院は嫌いだったんだけどな……)
仕方ない。過ぎたことだ。ここは年上の寛大さで強引に納得しようと心に決め、一旦大翔を起き上がらせた。
「なにか食べられそうなものありますか」
コンビニで買ってきたばかりの栄養剤やゼリーなどをサイドボードに並べつつ問う。
「少しでも口にしておいた方がいいですよ」
「んっと、じゃあ……メロン」
「どうぞ。あとこれも。水分は小マメに摂ってください」
カットフルーツのパックとスポーツドリンクを手渡し、せかせかとキッチンに向かう。氷を冷凍庫に放り込んだあとお湯を沸かし、浴室へ向かって洗面器を手に取った。
とりあえず、汗を拭って着替えさせなければ身体を冷やしてしまう。
ぬるま湯とタオルを片手に寝室へ戻ると、大翔はぼんやりと焦点の合わない瞳で機械的にメロンを食べていた。
「味……わかんない」
「でしょうね。食べられるだけで結構ですよ」
大翔が食べ終わるのを待ってから、手早くシャツのボタンを外していく。いつ見ても滑らかで真っ白い肌だ。くっきりと浮き出た鎖骨、芸術的に整った腹筋――あまり視界に入れないよう努めて平静に汗を拭った。
「慧さん……ごめんね。せっかくの休みなのに……」
「やめて下さい。遠慮なんて君らしくもない」
ぼんやりと熱に浮かされるような謝罪なんて、居たたまれないだけだ。自分が頼りになるタイプの人間じゃないことくらい嫌というほど分かっているが、せめてこんな時くらいは遠慮しなくていい。
むしろこんな時だからこそ、出会った当初の無遠慮さで接して欲しいと思わずにはいられないのだ。大翔は鬱陶しいくらいでちょうどいいのだから。
こんなものか、と頷いて火を止め、壁掛けの時計を振り仰いだ。今、正午を少し過ぎたところだ。
お粥を盛り付けてお盆に載せ、そっと寝室の扉を押し開く。大翔の茶髪が毛布から少しだけ見えていた。
「秋村君、少し起きられますか?」
サイドボードにお盆を置いて小さく肩を揺する。ただ触れただけでも相当に発熱していることが分かった。
こんな状態の大翔を起こすのは実に忍びないが、いい加減薬を飲ませなければ。
「ん……、」
「お粥を作りました。少しでも食べてから薬を飲んでください」
気だるそうに顔を上げた大翔にそう告げ、手を貸しながら身体を起こした。
「おかゆ……」
「大根おろしを入れました」
生姜や梅干は苦手だと聞いていたから、せめて喉がさっぱりしそうな味にしたのだが、きっと今の大翔は味覚がほとんど働いていないだろう。
レンゲで少量を掬い、慎重に吹き冷ましてから大翔の口元に運ぶ。大翔はぼんやりとしたまま、緩慢な動きでレンゲに口をつけた。
「食べられるだけで構いませんよ」
「うん……、あ、おいしい……」
「そうですか」
本当はどのくらい味が分かっているのか、怪しい。同じ動作で半分ほど食べさせ、薬を飲ませた。
横にならせてすぐ、大翔は深い眠りにつく。あとは本人の体力が戻るのを待つしかないだろう。
リビングのソファに腰を下ろして脱力し、背もたれに深々と沈んだ。
(さすがに、堪える……)
大翔のためにしてやれることが尽きてしまった。もう何もできることがない。
前髪を掻き上げて嘆息すると、どっと疲労が押し寄せてくる。小さく首を振ってそれを振り払い、煙草を片手にベランダへ出た。今日は恨めしいほどの快晴だ。吹きつける風は冷たいが、高層から見下ろす東京の街はとても綺麗だと思う。
こんなにも膨大かつ雑多な街の中で、大翔に出会ったのだ。そう考えると、少しばかり信じてみたくもなる。
〝運命〟などという戯言を。
(大翔は……)
自分とは圧倒的に違う〝強さ〟と〝温かさ〟を持っている。知らず知らず惹かれて、気づけば手放すことを恐れるほど好きになっていた。
出会った当初、自分にとっての大翔はただひたすら鬱陶しくて、面倒な男でしかなかったというのに。期待などなに一つ抱いていなかったし、心底どうでもいいというのが本音だったと記憶している。
見目は一級品だが、チャラついていて、礼儀知らずで、責任感の欠片もなさそうな奴――それが第一印象だった。口の利き方も態度もまるでなっていない、軟派な奴だと思っていた。
だが蓋を開けてみれば、根底から考えを改めざるを得なくなったのだ。一つ大翔を知るたびに、自分自身が揺らいでいくような。
慧はぼんやりと煙草をふかしながら、意味もなく小さな建物の連なりを見つめた。遠く正面に見えるのが新宿だ。足しげく通いつめた場所なのに、背の高いビル群や人いきれに満ちたあの街の喧騒感はどこか霞むように遠かった。
「まさか、俺が他人を好きになるなんてな」
自嘲というにはあまりにくすぐったい響きで、苦笑を洩らす。十年も独りで生きてきたのに、大翔と過ごしてきたこの七ヶ月がその孤独を綺麗に埋め尽くしていた。
大翔に出会えてよかったと、今は心の底から思っている。けれど。
自分の存在が大翔の未来を邪魔するかのようで、不安だ。今日だって、こんな風に大翔が体調を崩したのは自分のせいなのだから。
慧はひっそりと唇を噛み締めて煙草を消し、軽くシャワーを浴びてから寝室に向かった。いくらか穏やかになった寝顔を見下ろし、音を立てずにベッドへ滑り込む。
昨日は徹夜だったから、さすがに少し寝たい。大翔の眠りを妨げないよう端の方で小さく丸まり、そっと目を閉じた。
一体どのくらい眠っていたのか、身体に毛布をかけられる感触がしてふと目を覚ます。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
朗らかな声にハッと身を起こした。大翔が柔らかい微笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……気分はどうですか」
「うん。もうすっかり元気だよ。薬だいぶ利いたみたい」
〝ありがとう〟と、そう微笑む大翔はいつも通りだ。そう知った瞬間、安堵と焦燥が同時に湧き起こった。
この笑顔を、いつか見れなくなったら。自分はどうすればいいのだろう。
そんなことを思うだけで心臓が締め付けられるように痛んだ。
「慧さ、っ」
ほとんど無意識に大翔の腹部に跨り、首に縋り付いて唇を重ねた。大翔が目を見張る気配がしたが、構うものか。薄く滑らかな唇を軽く啄ばんでから、深く重ねる。
「っ……ん、ッ、」
自分の背中を支える大きな手のひらが、あやすような動きで滑った。まだ少し体温の高い口腔をまさぐって唾液を交わす。きつく腰を捉えてくる大翔も遠慮なしだ。
「んんっ……ふ、……ん、は……っ」
銀糸を引きながら唇を離すと、すぐ間近に温かな瞳があった。色素の薄い、茶色っぽい瞳。それ自体が大翔の穏やかさを象徴するように、深い情愛で満ちている。
「慧さん……風邪、うつっちゃうよ?」
「いいです……いいから、っ」
気遣うような視線から目を逸らし、ゆったりと上下する大翔の胸元に顔を埋めて声を絞り出す。
「……抱いてください」
今すぐに。そうじゃないと、不安で堪らないのだ。大翔が普段どおりに戻っても、一度その弱った姿に感化されてしまった自分は容易に立ち直れない。
「大翔……」
震える手で大翔の服を掴み、懇願するように呟く。大翔の鼓動が大きく跳ねるのをこの耳で確かに聞いた。
そっと顔を上げると、瞠目している大翔と目が合う。緩く上下する喉仏に顔を寄せ、軽く噛み付いた。
「っ……さ、慧さん、」
「君は大人しくしていてくれればいいですから……」
病み上がりの大翔に無茶を言っている自覚は充分あるのに、もはやこの焦燥は止められない。一つひとつシャツのボタンを外し、生糸のようにまっさらな肌に口づけた。
「っ、」
鎖骨から弾力のある腹筋まで滑るようにキスを落とし、ひときわ反応がよかった脇腹を舐める。理性はとっくに融解していた。
「ちょ、待って、っ」
ズボンの上から円を書くように大翔のそこを撫でる。あっという間に反応していく身体を愛しく思い、ズボンを下げて怒張したペニスにまで口づけた。
「ぅぁ……、それ、ヤバいって、」
舌先でそっと竿を舐め上げ、先端を口に含むと、大翔が切迫した吐息を零す。窺うように視線を上げれば、大翔の瞳から余裕が消えていた。穏やかさの代わりに獣じみた情欲が浮かんでいる。
それを目の当たりし、喉の奥まで飲み込んで舌を絡めた。大翔が自分の頭を両手で押さえ込んでくる。
「慧さ、っ、……く、ぁ」
一切の羞恥すらかなぐり捨て、大翔の欲望を愛撫した。先端に軽く歯を立て、竿を食む。濃密な先走りを飲み下すだけで、自らの秘部が疼いた。
大翔の手が性急にこちらの服を剝いてくる。淫靡な視線が絡み合った瞬間、互いに貪り合うようなキスを交わした。
「ん、ぅ……ふ、ンっ……」
「慧さん……」
いつもとは違う、欲を孕んで低く掠れた声。その声で名前を呼ばれるだけで快感に震える。
慧は自ら下の着衣を脱ぎ捨てて全裸になり、大翔の上に跨った。双丘の狭間に猛りを擦りつけ、淫らに腰を動かす。ぬるぬると灼熱の塊が蕾を掠るたび、昂ぶった自身がドクドクと脈打った。
「さ、とるさん……っ、じ、れったい……て、ばッ」
「ん……は、ぁ、もう、挿入り、ますよ……」
息を乱す大翔の怒張を片手で捉え、窄まりに宛がってゆっくりと腰を沈める。
「ぁ、あ、く、っ……ッふ、」
想像以上の質量に自ら貫かれる感触は、快感よりももっと凄まじい〝なにか〟だ。肉壁を押し拡げてくるのが大翔の執着心であるという事実に、目の前がはじけ飛ぶ。
「きつ、ッ……」
根元まで飲み込み、最奥まで大翔で満たされた瞬間、薄っすらと目を開けた。大翔は微かに眉根を寄せ、非難するように自分を見つめている。
「無茶、しすぎ……だよっ」
その瞳はどこまでも優しく自分を気遣うものだ。分かっている。けれど、今は――。
「大翔……っ、あ、ああ……ッ」
壊れるほど激しく抱き合いたい。
本能の赴くまま腰を動かし、内部で腫れていく熱を貪っていく。敏感な一点を穿つように腰を突き、喘鳴と嬌声を交えた吐息を零しながらひたすら快楽を追いかけた。
「慧さん……っ、」
くらりと視界が回る。いつの間にかベッドに押し倒され、攻守が入れ替わっていた。
「あ、ああッ、はや、い、まさ、と……っ」
両脚を抱えられたまま激しく抜き差しを繰り返され、いっそ悲鳴じみた声を洩らす。
「ごめん……っ、オレ、ちょっと加減、できない――ッ」
切れ切れに荒い吐息が降って来る。
「あっ、ぅ……ぁっ、ぁぁッ」
身を焦がすほどの熱だ。
この焦熱だけが自分を守ってくれる。不安の全てを焼き尽くして、大翔という存在をこの心と身体に刷り込んでくれる。
この充足感を与えてくれるのは、大翔だけだ。
「も、イ、クッ……イ、ぁ、ぁ――」
「っ、オレも、一緒だよ、」
〝慧〟と。低く甘い声が聞こえた瞬間、息が止まった。
「あ、ぁ、く、ぅ、あぁ――ッ!!
最奥に大翔の欲望が放たれ、今まで感じたことのない快楽が脳からつま先までを貫く。呼吸さえまともにできないまま絶頂へと導かれ、全身がひどく痙攣した。
「は、は……、あ、ぁ、」
呆然としたまま荒い呼吸を繰り返しても、快感の余韻はなかなか引かない。
「……慧さん」
大翔は自らを引き抜いて、そっと押し重なってくる。汗で湿った身体に縋り付いて、静かに目を閉じた。
暴れまわる心臓も、やがてゆっくりと元の速度に戻っていく。
「君……さっき私を呼び捨てにしましたね」
「あ、ばれた?」
まともな思考ができないまま呟くと、あっけらかんとした答えが返ってきた。憎たらしいほど明るい笑顔が自分を見ている。
「一回くらい、そう呼んでみたかったんだ。……怒った?」
「……別に。ですが、私は君より年上ですよ」
一応。そこは譲れない。どうあっても。
そういう頑固さを込めて睨みつけると、大翔は小さく苦笑を零した。その柔らかな頬にそっと触れる。
「……本当に身体、平気なんですか」
自分で仕掛けておいて今さらだが、それだけが気がかりだった。
大翔は小さく頷く。
「もうほんとに大丈夫だよ」
温かな手のひらに頬を撫でられ、ようやく安堵の吐息を零した。
「不安にさせちゃって、ごめんね……? でもオレ、もうすっかり元気だからさ」
大翔は気づいていたのだ。自分が途轍もなく不安だったのだということに。もしかしたら大翔の方が、自分よりずっと早く気づいてくれていたのかもしれない。
〝年上〟が聞いて呆れる。こんなにも臆病で、威厳もなにもあったもんじゃないだろう。
慧は内心自嘲しつつ、そっと目を伏せた。
「……この家に住むなら、風邪予防は徹底してください」
弱りきった大翔を見るのは本当に不安だったし、怖かった。
「うん。約束する。……ごめんね」
ちから強く抱き締めてくる腕を、拒むことは決してない。大翔はどんなことがあっても、自分を突き放しはしないと分かっているから。
どんなに情けなくても、離さないでいてくれると知っているから。
そっと前髪を払いのけられ、至近距離で目が合った。包み込むように温かな微笑みが、こんなにも心強いなんて。
「慧さん……オレ、慧さんのこと愛してるよ。本気で一生、ずっと一緒に生きていきたいんだ」
「……そうですか」
なに一つ飾らない言葉を、直球でぶつけてくるのが大翔だ。いちいち心臓に悪い。
慧はつと視線を逸らして押し黙った。耳が熱い。
「大好きだよ、慧さん」
「っ……」
(そんなこと、知っている)
もうとっくに認めているのだ。
〝愛してる〟なんて。そんな言葉を心底馬鹿馬鹿しいと嘲っていたのはもう、過去の話で。だから。
「……私もです」
掠れたような小さな囁きが、果たして伝わったのかどうか。それは大翔の鼓動が教えてくれた。分かりやすく、的確に。
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