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有坂の眉がピクリと動く。
不機嫌そうな顔がもっと不機嫌そうになったけど、変わらないと言われれば安定の変わらない。
「なぜだ」
「自分の名前が気に入らないって前に言っただろ」
確か最初に出会った頃にフルネームで呼んできたからそう言ったはずだ。
フイと有坂から視線を逸らして勉強道具を広げる。
名前がクソダサいことなんか、自分が一番よく分かってる。
むしろ名前は俺の唯一の欠点だ。
ちなみに早漏はお茶目ポイントであって決して欠点じゃない。
「親が心を込めて付けてくれた名前だろう。何を気に食わないことがある」
「いやどう考えたって益男とかダサいだろ」
「男らしくてとてもいい名だと思うが。それに皆名前で呼んでいるだろう」
「あれは女将さんがそう呼ぶからみんな真似してるだけで…あ、有坂にだけは呼ばれたくない」
有坂は昭和男子だから益男とかアリなのかもしれないけど、俺は断然ナシだ。
どれくらいナシかっていうと、俺の家の犬の名前がアルベール・リュグナー・アレキサンダー・ディ・ルナマリア三世って名前になっているくらいナシだ。
なんで飼い主より犬の名前の方がカッコイイんだよ。
ともかく有坂には、少しだって格好悪い自分は見てほしくない。
「…そうか」
有坂はそれ以上何も言わず勉強を始めたけど、話が終わってからの方が変にソワソワしてしまう。
まさか有坂が俺の名前を呼ぶことなんか、想定してなかった。
さっき一瞬名前を呼ばれた時、驚いて心臓が止まりそうになった。
というかそれを言うなら、俺だって有坂のこと名前で呼んでいいんじゃないか。
そういや旅館のみんなは当たり前だけど名前で呼んでるし、ここで働いている以上苗字だと紛らわしいっていう言い訳もある。
「…と」
何気なく一言口に出したら、一気に頭の先までぶわっと熱が込み上げる。
耳まで熱くなって慌ててパタパタと襟元から風を取り入れると、有坂にちゃんと勉強しろと目を細められた。
これはもしかしたら、呼ばれる以上に呼ぶ方が恥ずかしいのかもしれない。
勉強を終えて旅館に戻れば、有坂とはまた話せない日々が始まる。
それでもなんとかチラチラ盗み見して目を合わせたり、だけどバレて女将さんに怒られたり、相変わらずドジな田舎女の面倒見てやったりして時間が過ぎていく。
仕事以外は仕方ないから勉強してやって、飽きたら有坂に縋って近場の観光地に連れてってもらったりして、受験勉強メインとはいえそこそこ充実した夏休みを送る。
そうしてようやくこっちでの暮らしに慣れてきた頃、それはやってきた。
その日は朝から騒々しくて、もう旅館の全従業員が明らかにソワソワしていた。
女将さんもどこかピリピリしていて、厨房からも板前さんの鋭い指示がひっきりなしに聞こえてくる。
いつもはマイナスイオン全開な癒し空間と若干のホラー要素も兼ね備えた歴史高い老舗旅館だが、今日は全体的に緊迫した空気が漂っている。
あの有坂ですら…いや、有坂はいつもと変わらず真顔だ。
「ま、益男さん。どうしましょう。何か粗相をしてしまったら私…っ」
慌てた声で田舎女がなんか言ってるが、コイツも特段変わった様子もなく相変わらずテンパっている。
仕方なくポンと軽く頭を叩いてやると、今度は真っ赤な顔でぷるぷる震えている。
なぜか有坂の眉間の皺が深くなったような気がしたが、何か言われる前に女将さんに呼ばれた。
「益男さん、今日は今までで最高のお持て成しをなさい。勿論お客様に優劣を付けた接客をするのはいけませんが、それでも今日のお客様は貴方の事を一番に見て下さるお客様です。今までの仕事の成果を全て見せておやりなさい」
「…はぁ」
「なんですか、その腑抜けた返事は。もう一度」
ギラリと鋭く眼球が光ってヒッと身体が竦む。
慌てて返事をし直すと、満足げにニコリと女将さんは微笑む。
そんなわけで昼過ぎにズラッと玄関脇に従業員が並び、今世紀最大のお客様のお出迎えをする。
まあ誰かって、決まっている。
黒塗りの高級車から運転手が降りてきて、後ろの乗車席に回ると車の扉を丁寧かつ迅速な手つきでチャッと開ける。
中から長い脚が伸びて、カツリとハイヒールが歴史ある石畳を叩く。
凡そこの観光地には全く不似合いなロングの金髪とタイトな赤いドレスに身を包んだ母さんが、車の中から顔を出した。
グラサンまでしていて完全にバカンス気分だ。
一斉に従業員に緊張感が走るが、そこは堂々としたもので女将さんが真っ先に前へ出る。
「いらっしゃいませ。遠い処からようこそおいで下さいました。当旅館の女将でございます」
「まあ、直接お会いするのは初めてですね。うちの子が大変お世話になっております。結城益男の母です」
「あら、お母様でございましたか。益男さんにお姉様がいらっしゃるのかと思いましたよ」
「えー、やだもう…そんなお姉さんだなんて、えーっ…ふふ」
女将さんのお世辞にコロッと乗せられて子供のようにババアがキャッキャとはしゃいでいるが、後ろからスーツに身を包んだアサ兄が出てきてゲシッと蹴られている。
すぐに俺が呼ばれたが、家族相手だろうと弛んだ挨拶をするのは許されてない。
何でも母さんからは社会学習も兼ねて預かって欲しいと頼まれたって事で、女将さんは俺の仕事態度を見せたいらしい。
さっきから絶対に腑抜けた態度を取るなっていう女将さんの視線がビリビリと伝わってきて、もう今すぐ地球の裏側辺りまで逃げたい。
仕方なく前に出ると、丁寧な所作でお辞儀をして見せる。
「長旅お疲れ様でした。どうぞ館内へ。お部屋へご案内いたします」
「ま、マス…」
「そちら段差になっておりますので、どうぞお足元にお気を付け下さい」
何か言おうとした母さんに構わず、もう赤の他人だと思って毅然とした態度で接してやる。
後ろで母さんがなんかソワソワしてるのが伝わってきて鬱陶しいが、女将さんが意外にも俺の話をしてめちゃくちゃ褒めてくれている。
そしてそれを聞いて早くもグスグスと母さんは涙ぐんでいる。
「接客なんて絶対に出来ない子だと思っていたのに…こんなに大人になって」
「へー、マスって人の下で働けたんだ。一生無理だと思ってた」
なんか勝手な事言ってるのが後ろから聞こえたが、俺に出来ない事なんてあるはずがない。
俺の価値を分かってない母親と兄貴をさっさと部屋に押し込めて、ぐったりしながら戻る。
なんでも後から仕事の都合をつけて父さんも来るらしいし、これからさらに賑やかな夏になりそうだ。
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