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オタマジャクシは泳がない。水田の中の彼らは時折思い出したように尾を振りながら、水の中を揺蕩う。そして無神経な人間が捕まえようと手を近づけて始めて、サァっと波が引くように泳いで逃げていくのだ。
青々しい水稲の間を風が駆け抜けていった夏の少し前。
これは私の初夏のお話。
...
大学進学をした折に都会へ出た。電車はおろかバスも来ないような田舎の集落で育った私は、忙しく過ぎいく人と物の波に乗せられて、そのまま就職をした。
学生の頃は、利便性の高い街と駄菓子屋さえ車で行かないと行けないような地元を比べては、すっかり都会に染まったような風を装っていたが、内心何かぽっかり影が落ちていた。
何かする事もなくて、田んぼの淵に腰掛けて本を読んでいたあの頃。畦道なんか草がチクチクと足を刺すもんだから、田んぼに面した車道に腰掛けていた。車なんて滅多に通らないんだから、親も祖父母も嗜める事をせず、ただ、「太陽の光で本を読んだらあかんよ」と怒るのだ。
現代社会に取り残されたような集落は、そこに住んでいると全くそんな劣等感を持つことはなくて、ただ、目の前を駆け抜ける風がどこまで行くのだろう、とずっと遠くを眺めていた。
家に入ればテレビがあったが、太陽が入り込まない薄暗がりの部屋で、馬鹿みたいにゴテゴテしたセットのバラエティやワイドショーを見ても気分が乗らないことの方が多かった。土間続きの家。家の背後には山が控えて、昼間でも照明が必要なくらい部屋の中には常に影があった。
線香の匂いも関係していたかもしれない。土っぽさとカビ臭さ、ウゥン……と唸る冷蔵庫、家の中は常にくらかった。
しかしそこでの暮らしは嫌ではなくて、50メートルほど離れた隣家の友だちと山に登ったり、川で遊んだり、田んぼの蛙やオタマジャクシを取っていたりして、遊びには事欠かなかった。寧ろ、そんな遊びをしていたら一日では足りなくて、冒険は毎日続いたのだ。
そんな日々で覚えた事が沢山ある。
オタマジャクシをとるときは、気配を察知される前に素早く水に手を突っ込む事、エビに似た小さな生き物、あいつらはかなり素早くて数も少ないから、レアなやつらなのだが、あいつらは尾の方から手を近づける事、川で遊ぶ時は深緑をしている部分は底が深いから近づいちゃいけない事、田んぼから川に降りる時には、絶対にサンダルを履くこと、小枝や草で足を切って危ないから。また、刀のような形をした細い草は、触ると手を切るから触らない事、どんぐりは水につけると良いどんぐりかそうでないかの見分けがつく事、彼岸花の提灯を作る時は、茎から出る汁に気をつける事、毒があるらしいから。
書き尽くせない色々を私たちは身につけた。
山で採ってきたヨモギでよもぎ餅をこねた事もあるし、近所で取れたサツマイモでお菓子も作った。
今風な言葉で言えば原体験と言うのだろうか。思い返すだけど、絵の具を頭にぶちまけたように彩りが脳内で洪水を起こす。色だけじゃない、匂いも、太陽の光も、くっきりとした影も、全てが蘇ってくる。
しかし都会に出てしまえば、そんな思い出は心の隅に追いやられ、丁寧に鍵をしてしまうことになった。
銀色の端末を持てば果てしない情報の波、少し歩けば駅があって、あとは座ってるだけで遠くまで行ける電車、どこまでも舗装された道路、そして人、車、建物の林。
気を抜けばそんな雑踏に埋もれてしまいそうだから、必死で友人を作り、毎日のようにバイトや遊びに明け暮れて、何とか自分の存在を明らかにした。田舎にいた頃は、と考えるまでもなく、足元も目の前も両脇も灰色に染まった街で、完全に自己を見失っていた。他人に認めてもらう事が存在の全て。
風が頬を撫で、指に蟻が這っていたあの頃は、自分が自分の全てだったのに。いつのまにかそんな感性を荼毘に付していた。自分しか見えていなかったあの頃は子供だったのだ、と世間を気にする事に自身の成長を感じていた。
都会で就職する事で、成長した自分を感じ満足していた。情報や日々に忙殺される自分。それな己の姿に陶酔していた。
しかし、それも疲れてしまった。
仕事を始めて2年、5月長期休暇は職場の友人と過ごしていたのだが、1ヶ月経った6月のこと。
何の前触れもなく、ブツリと音を立てて心が折れてしまった。
仕事を始めて貯め続けていた疲労1年分、休暇を経ることで緩んでいた所へ、仕事が立て込んできた。
そんな折、深夜の番組を見ながら晩酌していると訳もわからず(それこそ何の知らせなく)、寂寥の思いに忽ち涙が溢れてきて、途端に親へ連絡をしたくなった。
酔ってしまったのだろう、とその衝動を抑え込みはしたのだが、どうも朝起きて昼を過ぎても、体と心は帰省を欲していた。
幸いにも土日が休みの仕事ではあるので、金曜になると気がつけば電車に揺られていた。
...
突然帰ってきた私を親はたいそうもてなした。
恥ずかしい事ではあるが、何しろ大学を卒業してから一度も帰省していなかったのである。
次から次へと運ばれる夕飯をなんとか腹に収め、早々に床についた。親はもう少し話をしたそうにしていたが、「疲れている」と告げると、残念そうにしながら夕飯の片付けを始めた。
防虫剤の独特の匂いがする客用布団に身を沈め、ギィィっと煩い虫の声に溺れる。
ともすれば都会の夜よりも五月蝿い。しかし、静かな夜に虫だけが一定の音を立てていて、不思議と嫌ではなかった。それ以外に聞こえるのは、台所と風呂場から聞こえる音と、そして自分の衣擦れの音。
私とそれ以外には信頼できる人しかいない事への安心感は、今まで忘れていたものだった。
明日は何をしよう。
つい癖で枕元の端末を見てみるが、圏外を示すのみである。連絡がないかを見ていないと気が気でなかったはずなのに、今に至りて見えない事への安らぎを感じ始ている。
明日は何をしようか。
端末を放り投げて、目を閉じた。
田に水を張ったばかりだという親の話を思い出して、サンダルの所在を考える。駅から家までの車窓で、昔遊んだ川が、少し様子を変えていたことを思い出す。
子供の頃は、朝から友達を誘って遊びに興じていたのだが、今は流石に1人遊びになるだろう。
大人の一人遊びか。
いい大人が1人で川遊びなんて笑われてしまうな、とにんまりしたが、そもそも見咎める通行人など無いに等しい。
気持ちがいい。
自分のしたいことを存分に。
私は、足の指をぐぅっと開いて息を吐いた。
窓の外では、星が瞬いていた。
...
(途中)
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