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他人の手
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◇
「夏井(なつい)さんってぇ、お仕事はなにされてるんですかぁ?」
「あ、それあたしも気になるぅ、なになに?」
両脇から問われ、夏井爽太は苦笑気味に答える。
「えっと、一応教師です」
「え、先生っ? なんの?」
「中学の、国語教諭をしてます。まだ新米ですけど」
「国語の先生っ? すごーい」
「かっこいいー。なんかすごく似合ってます」
いっせいに沸き立った女性陣の声を耳にし、なんだかな、という気分になった。数合わせで連れてこられた合コンだが、やっぱりこういう雰囲気は苦手だ。矢継ぎ早な質問に答えるのは疲れるし、さっき程から男性陣の視線が針のようで怖い。
(そんな目で見るくらいなら誘わないでくれよ……)
内心の懇願を込めて彼らを見るが、誰も彼も閉口したまま無言を返してくる。知り合いの知り合いでしかない彼らが自分を排斥したがっているのは明らかだ。ますますもって居心地が悪い。
「え、おいくつですか?」
「今年二十三歳です」
「うっそ、年下? 全然見えない」
「大人びてるって言われません?」
「え、ええ、まあ……よく言われます」
苦笑を零し、ふと唇を引き結んだ。
この色の薄い垂れがちな瞳は、見る者に穏やかで気さくな印象を与えるらしく、年相応に見られることは少なかった。だがその実、そう言った評価をされるのは自分に同世代の人間よりも色濃い影があるせいだと自覚しているため、まったくもって嬉しいとは感じない。要するに、気苦労が滲み出ているだけじゃないかと思う。
「今年二十三ってうちの弟と同じですよー。あれと夏井さんが同い年なんて信じられない。なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「さあ……なんでですかね」
答えようもない質問をはぐらかし、ふと息を詰める。両脇に座った彼女たちが最初よりずっと距離を詰めてきていた。あと数センチで身体が触れ合う、その距離まで。
(頼むから触らないでくれよ……)
心の中で強く念じ、ビールに口をつけた。
「っていうかさ君たち、オレらの存在忘れてません?」
おどけた口調で岡部(おかべ)が言うと、女性陣は取り繕うように笑った。
「忘れてませーん」
「んじゃさ、オレらになんか質問は? ちなみにオレもこいつと同じく今年二十三歳、職業は御堂出版の広告営業。で、こいつらはその同期」
「へえ……」
「すごいですね」
鼻高々といった様子で自慢する岡部に女性陣は若干温度の低い相槌を打った。
御堂出版は中堅的な会社だが歴史が深く、就職先としては相当手堅い。そこに勤めているというのは確かにすごいことだが、だからこそ、それを露骨に自慢してしまうのはマズイ。しかも同期と紹介された男性陣が皆揃って誇らしげな顔をしている。彼らはいかに就職が大変だったか、仕事が大変か、そんな話を口々に語り出した。女性陣は皆、白けたように適当な相槌を打つ。
「あれ、なんか反応薄くなーい?」
やっかみの視線に気づかない鈍感な男はなおもおどけて場を盛り上げようと躍起になっていた。
それを横目に、内心やれやれと首を振った。岡部は基本いい奴なのだが、どこか空気の読めない性格をしているのが欠点だ。
いったん白んだ空気は改善の兆しもなく、一時間ほど経った後で会はお開きとなった。
「あ、ねえ夏井さん」
それじゃ、と言い合って店から出たとき、右腕に鋭い痛みが走った。反射的に振り払う。
「あ……す、すみません」
振り払われた手を空中で止め、きょとんとしている女性に謝りながら距離を取った。無意識に触れられた右腕を擦(さす)る。
我ながら大げさだと分かっていた。
けれど、どうしても嫌なのだ。他人に触れられるのは。
「ちょっとびっくりして……」
「いえ全然。それより――」
女性は気にしていないというようにニッコリと笑い、二人きりで飲み直したいという誘いをかけてきた。それを丁重に断り、残念そうな視線を振り切って歩き出す。
「ちょっと、待てっておーい!」
慌てたように追いかけてきたのは岡部だった。
「なんなのお前さー。モッテモテだったじゃねぇかよ」
許可なく並んで歩きながら岡部が不平をぶつけてくる。
「お前呼んだのマジ失敗。痛恨のミス。同期の奴らにクソ怒られた」
「そりゃ悪かったな。これに懲りたら二度と誘わないでくれよ」
「そうさせていただきます」
やけに神妙な顔で頷いた岡部に思わず溜め息をつき、薄く笑った。
「でもお前さ、さっきのはマズッたよな」
何のことか、言われなくても分かる。
「彼女、あの後プリプリしながら帰ってったぜ。『潔癖症? 失礼しちゃうわッ』って」
「だろうな……」
申し訳ないことをした。彼女は何も悪くないのに、きっと気分を害したことだろう。
潔癖症、ではないのだ。他人の触れたものであっても別に気にしないし、疲れていれば外着のままベッドに寝る事だってある。人並みには綺麗好きだが、忙しければ部屋の掃除も後回しにする。その実、潔癖とは無縁かもしれない。
だが、どうしても他人に触れられるのが苦手なのだ。それはある種の恐怖感と、本来あるはずもない苦痛を伴う。軽く触れられただけであっても、ありえないほど痛い。刺すような痛みを感じるときもあれば、殴りつけられたかのように鈍く尾を引きずる痛みを感じるときもある。ひどいときは数時間、痺れが止まらない。こんな風に感じるようになったのは中学の頃だ。
相手がどう、というわけではない。性別も関係ない。誰に触れられても、怖いし、痛い。こちらから触れるのも同じだ。
これが精神的なものであるということは分かっている。その原因が遠い過去にあるということも。
他人の手は、いつだって自分を傷つけるものだった。その刷り込みが今もなお、意識に根深く残っているのだろう。
皆が皆、そうじゃないことは理解しているつもりなのに。
「ま、気にすんなって」
励ますように肩を叩かれ、微かに顔が強張った。誰にも自分が抱えるこの悩みを打ち明けたことはないから、こういう触れ合いは避けようがない。
これは自分の力で克服するしかない問題だ。我慢して、少しずつ慣れていくのが最善策だと言い聞かせ、楽しげな友人に笑顔を向けた。
もう一軒飲みに行こうという流れになり、二人で手近な居酒屋に入った。カウンターに並んで座る。生ビールとつまみを適当に頼み、それを待つ間、岡部はずっと上司の愚痴を言っていた。出版者の広告営業というのも大変らしく、外回りだのノルマだの色々悩みがあるようだ。
「大変だな、お前も」
「そうなの、大変なのオレ。もうマジ頑張ってるわー。多分、オレ史上最強の頑張り」
管を巻く友人に同情しつつ、やってきたビールジョッキを軽く掲げてみせる。テンションの高い岡部はニヤリと不敵に笑い勢いよくジョッキをぶつけてきた。
「んで、お前はどーなのよ、仕事の方は」
喉を鳴らして半分ほど一気に飲み空けた岡部が、唐突に水を向けてきた。
「俺はまあ……ぼちぼち、かな。ちょっとは慣れてきた感じ」
都立好凪(よしなぎ)中学校に国語科の教師として勤め始めて二ヶ月が経った。まだ二ヶ月だが、生徒との関係は概ね良好だ。新任指導係の今泉(いまいずみ)も「覚えが早いわね」と褒めてくれた。教師暦十五年の古参教師に認められたからか、他の教師たちも何かと自分を手助けしてくれる。職場環境はかなりいいし、あの学校に着任できたのは運が良かったと思う。
ただ、一つだけ誤算があったけれど。
ちらっと頭に浮かんだ男の顔を強引に振り払い、ジョッキを傾けた。
ふらつく足取りの岡部と別れ、自宅のアパートに向かう。大学時代から住んでいるワンルームに戻った瞬間、全身の力が抜けた。
他人と接すること自体が、そもそもきつい。無理に笑みを取り繕うのも、他人を気遣うのも、自分には向いていないのだ。
鍵を放り出し、ベッドに倒れ込む。明日からまた仕事だと思うと気鬱になった。
「明日はどんな小言を言われるのかな……」
冷たい視線と態度を一貫して止まないあの男に。
爽太はギュッと目を瞑り、心臓の辺りをきつく掴んだ。
(あんたが俺を認めてくれるまでは、何があっても諦めないからな)
自分には向いていないと分かっていながら、あえて教師という道を選んだのには理由がある。かつて自分を救ってくれたたった一人の男に、胸を張って再会するためだ。そしてその時は予想よりずっと早く訪れてしまった。
だからこそ、泣き言を言っている暇はない。
(俺はあんたに救われた。だから今、こうしてしっかりと自分の足で立っていられるんだ)
その感謝を、言葉ではなく、行動で示したい。
固い意志と決意を胸に、静かな眠りの淵に落ちていった。
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