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冷たい視線
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◇
「夏井先生、おはよー」
「おはよう」
正門前で行きかう生徒たちを迎えながら、ちらりと腕時計を確かめる。七時五十分。朝の職員ミーティングまであと十分足らずだ。自主的な挨拶運動を切り上げ、校舎に向かう。
職員玄関で上履きに履き替え、隣の壁にあるボードの木札(きふだ)をひっくり返した。出勤した職員の名前は黒で記され、未出勤の者は白で記されている。退勤時はまたこの札を裏返して帰るのが義務だ。
サッと視線を巡らせ、久古(くご)貴彰(たかあき)の名前が黒で示されているのを確かめた。気を引き締めて職員室に向かう。
「おはようございます」
扉を開けると同時に声を張り上げた。まばらな返答を受けながら自席に着く。
「おはようございます、夏井先生。今日も元気ね」
「はい、ありがとうございます」
隣の席から話しかけてくれた今泉に笑顔で返す。どんなときも笑顔で、明るく爽やかに。新任教師として円滑な一年を送るためには、何をおいても人間関係をこじらせないことだ。暗い顔で他人に不快感を与えるなど言語道断。
今泉はキャスターつきの椅子を僅かに寄せ、一冊のファイルを差し出してきた。表紙には教師らしく整った字体で〈文化祭会計予算案〉と記されている。
「これは?」
「今年度の文化祭の予算案を作って欲しいの。期限は今週の金曜日までね」
「私がですか」
やったこともない仕事に臆していると、今泉はふと口元を綻ばせた。穏やかで柔らかい微笑みは見る者を無条件で安心させる力がある。容姿も今年三十八になるとは思えないほど若々しく、彼女からは常に優しい雰囲気が滲み出ていた。教師というより、保育士の方が向いているのではないか、という第一印象は今も変わらない。
「夏井君一人でとは言わないわ。文化祭総括係の櫻木先生、知ってるでしょ?」
「ああ、はい」
白髪まじりの男性をぼんやりと思い出しながら頷く。
「分からないことは彼に聞いて。そのファイルに過去十年分の予算案と、実費の記録書が入ってるから、参考にするといいわ」
「分かりました。えっと、今週の金曜日までですね?」
「そう。もし間違っていても、最終的な確認は私がするから安心してね」
「はい。ありがとうございます」
任されたファイルを胸に抱き、深々と頭を下げた。こうやって先輩たちがサポートをしてくれるから、自分は少しずつ教師としての知識や行動を身に付けていけるのだ。
ありがたく思い、自然と頬を緩ませていた爽太は、ふと、刺すような視線を背中に感じて振り返る。その瞬間、ドキリと心臓が凍った。
デスクの島を隔てた窓際の席から、久古が冷めた目でこちらを見つめていた。切れ長の瞳は刃物を思わせるほど鋭利な光を宿している。男らしく精悍に整った顔立ちを完璧な無表情で固め、久古はただ自分を見ていた。
(まただ……。なんで……)
久古が自分に向ける目は、恐ろしく冷たい。再会したときからずっと。
自分が教師になったことを、あの男がどう思っているのか分からない。ただ、歓迎されていないことは確かだ。
『――お前、なぜ教師になった?』
四月、着任そうそう久古から掛けられた冷徹な言葉を思い出す。あの時の久古は、八年ぶりの再会に対する感慨など欠片もなく、淡々と爽太を詰問した。
なぜ教師になったのか、と。
『まさか俺に憧れて教師になったのか? まるでストーカーだな』
夢にまで見た人物との思いがけない再会に浮き立っていた心は、鼻白んだような久古の言葉に凍り付いて砕け散った。
喜んでもらえなかった。自分が教師になったことに。だからこそ、八年の歳月を経て再会できたのだという事実に。
しかも、言うに事欠いて『ストーカー』だなんて。
ショックのあまり何も言えずにいた爽太をどう思ったのか、久古は残酷なほど冷たい瞳でこう言った。
『二度と俺に付きまとうな。いい迷惑だ』
突き放すような言葉にこめかみを殴打され、眩暈を覚えて立ち尽くしたのをはっきりと覚えている。
いつかは会いたいと願って教師になったのは事実だ。その思いがあったからこそ、自分は変わることができた。なのに……。
(どうしてあんたは、そんなふうに俺を嫌うんだ)
射竦められたまま、なにを問うこともできずしばし見つめ合う。先に目を逸らしたのは久古の方だった。興味が失せたかのように視線を横に滑らせ、僅かに上を見た。恐らく壁の時計を見たのだろう。すぐに視線を落とし、なにかの書類を読み始めた。
久古から目を離せない自分に気づいて、心臓が激しく脈打った。
悔しくて仕方がない。必死に勉強して、憧れの教師一人をただ夢中で追い掛けてきたこの八年間。それをあんな言葉で踏み躙られた。
(今に見てろ……絶対あんたに認めさせるからな。〝いい教師になった〟って、認めさせてやる)
もう自分を見ていない男から強引に視線を引き剥がし、背を向ける。同じタイミングで職員室の戸が開き、教頭が入ってきた。
挨拶から全体的な本日の予定を述べ、各学年の主任たちから報告を受ける教頭をぼんやりと眺める。
「今年度から欠席が続いている三組の芦田陸斗(あしだりくと)については、この場にはいませんが、担任の菊谷先生が家庭訪問を行う予定です」
二学年の主任である久古は淡々とした口調で学年全体の予定や長期欠席中の生徒について報告を述べていた。
「ただ、今のところ先方から訪問可能な日時についての連絡はありませんが」
「うーん、そうですか……うまく話をつけなければなりませんね。なんにしても不登校の生徒がいるのは問題ですから……早期に事情を聞き、原因を突き止める必要がありますな。万が一いじめなどが発覚した場合は、学校全体の責任問題になりますから……」
懸念と保身を入り混ぜた教頭の言葉に、多くの教職員が僅かに眉をひそめる。
いじめというのは、教師にとって一番深刻な問題だ。その有無を突き止めるのは容易ではないし、解決にも相応の対処と時間が必要になる。
二年三組は爽太が副担任として預かっているクラスだ。教師という職業に就いて、初めて接する生徒たち。十三歳と十四歳の、まだ純朴で無邪気な子供たちばかりだ。そんな彼らが、いじめなどという非道な問題を起こしているとは思いたくない。
たが、他人は見かけによらないものだ。どれほど無邪気な顔をしていても、子供であるがゆえにひたすら残酷な人間もいる。奴らがそうだったように。
もしも芦田陸斗の不登校がいじめに起因するものであったら、自分はどうすればいいのだろうか。顔も見たことがない生徒を思い、胃が捩れるように痛んだ。
もしも芦田陸斗が、あの頃の自分と同じように、何もかもを一人で抱え、極限まで追い込まれてしまったら。そう思うだけで身体が震え出す。俄かに過去の忌まわしい記憶が蘇り、血の気が引いた。
「夏井先生、あなた大丈夫?」
俯いた自分の肩に今泉が触れてきた。鞭を打たれたような衝撃に思わず身を引く。
ガタン、と大きな音を立ててしまったことで、職員室が静まり返った。
「あ……す、すみません」
衆目の視線に俯いて、掠れた声で謝罪する。気を取り直したように話を再会する教頭の声を聞き流し、固く拳を握り締めた。
(こんなんじゃダメだ……もっと、強くならなきゃ)
他人に触れられるのが怖いなどと言っていては、この仕事は務まらない。
甘えるな、俺。このままじゃ、いつまで経っても久古に認めてもらえないぞ。
そう自分を戒めて唇を引き結ぶ。
「では皆さん、本日もよく学びましょう」
お決まりの台詞を口にした教頭が職員室を去り、教員たちがそれぞれホームルームのためそれに続いた。
「ほら、夏井先生も行かなきゃ。今日は菊谷先生が出張でいらっしゃらないんだから」
「あ、そうでした」
今泉に促され、我に返る。担任不在時のサポートが副担任の仕事だ。
慌てて席を立ち、出席名簿を手に職員室を出たところで、久古の背を目にした。広く大きな背中を目で追い、遠いなと感じる。
今、自分は二十二歳。あの時の久古と同じ年齢になったのに、二十二歳だった久古の背中に追いつけた気がしない。久古は今年三十歳だ。八歳の年齢差はこの先も埋まらないし、たとえ彼と同じ年齢で隣に並んでいたとしても、自分が久古と同じようになれるとは思えなかった。
彼に並ぶことなど一生できないのかもしれないと、爽太は知らず唇を噛む。追いかけたところで、足元にも及ばなかった。
歯牙にもかけず、笑われただけだ。
視線を感じたのか、久古が唐突に立ち止まり、こちらを振り返った。そうかと思えばこちらを見つめたままゆっくりと歩み寄ってくる。
(え……なに? なんか、怒ってる……?)
目の前数十センチの距離で久古が立ち止まった。頭一つ高いところから見下ろされ、なにを言われるのかと思わず身構えた。
「……いつまで学生の気分でいる」
耳朶を震わすような低い問い掛けに頬が強張る。
「職員ミーティング中に私語をするな。教師のお前がそんな様子で、生徒に示しがつくと思うのか」
「……すみません」
明らかな失態に内省し、視線を落とした。
「それと、そのネクタイもだ。教育の場にそぐわない格好で生徒の前に立つな。目障りだ」
冷淡な口調で吐き捨て、久古が踵を返した。去っていく背中を見つめ、溜め息をつく。
「これもダメなのかよ……」
指摘されたネクタイは薄い黄色地にストライプ模様が入ったものだ。それほど派手なつもりはないのに。
結び目を意味なく弄りながら歩き出す。
(ってか……二度と近づくなとか言ったくせに、自分から文句つけに来るってどうなんだよ)
私語をしていたのは、まあ悪かったけど。ネクタイについては完全に言いがかりじゃないかと思う。
(だいたい、そんな細かいことまでいちいちチェックしてるって言うのが変だろ。どっちがストーカーだっつの)
悶々としつつ教室に向かう。ドアを開ける頃には気持ちを切り替え、笑顔を取り繕うことができた。
「皆、おはよう」
意識的に明るい声を出し、教室に踏み入る。幾人かの生徒は挨拶を返してきたが、他はそれぞれ雑談に夢中だった。
教壇に立ち、教室全体を見回す。不自然に浮いている生徒はいないか、教師の目がないのをいいことに、不必要な私物で遊んでいる生徒はいないか、十秒ほど観察した。
その中に怪しい生徒たちを見て取り、無言で教壇を降りる。教室の後方、窓際の隅の席に男子生徒が五人ほど集まり、興奮しながら無心で何かしている。彼らは自分が教室に入ってきたことにも気づいていないようだ。
ゲーム機か、いかがわしい青年本か。後者であれば対応が難しいところだなと警戒しながら覗き込む。前者、後者のどちらでもなかった。
「ここでミクシーが出てくるのかよー」
「いやでも王道じゃね? こっからライバル戦じゃん」
「どうせガイバが勝つんだろ」
机の半分ほどの大きさのipadを覗き込みながら、彼らは夢中でSF物のアニメを視聴していた。しかも一昔前に流行ったアニメだ。彼らの世代からすると、少しばかり年季が入り過ぎてはいないだろうか。
「誰が覇王になるか教えてやろうか?」
苦笑しつつ話し掛けると、彼らはいっせいにこちらを振り向いた。しまった、という表情をしたのは一瞬で、すぐさま安堵したように溜め息をつく。
「なんだ夏井先生かよー」
「ビビったぁ。菊谷だったらマジ最悪だもんなー」
露骨にほっとしている生徒たちに小さく首を振って見せた。
「担任の教師を呼び捨てになんてしちゃダメだろう」
しかも副担任の自分は先生と呼んでいる。菊谷本人がそれを耳にしたら、まず間違いなく顔を赤くして舌打ちをすることだろう。いささか以上にプライドの高い初老の教師を思い、喉が苦くなった。
「だぁってよー、菊谷ってなんか態度でかいじゃん? 口ばっかうるさくて、自分は何もしないし。なんかムカつくんだよな」
尖った鼻先を上向けて谷村直人(たにむらなおと)が言う。クラスの中でも身長が高く、子供ながらに整った顔立ちをしている彼は、男女問わずクラスメイトの中心にいることが多かった。彼の意見に他の男子たちも頷いている。
谷村直人の言い分はまあ、全面的に理解できる。けれどここで「そうだよな」などと気軽に同意することは立場上許されないので、一つ忠告をするに留めた。
「年上の人にはちゃんと、〝さん〟をつけるか、肩書きを使って呼ぶんだ。谷村君だって、君よりずっと年下の小学生とか、幼稚園生とかに呼び捨てにされたら気分が悪くないか?」
「あー……まあ、それは確かにムカつく」
一応納得したような口調で言い、谷村直人は自分の席に戻っていった。他の三人もそれに続く。残ったのは自分の席に座っていた生徒だけだ。
「三沢君。そのipadは君のものかい?」
三沢友二(みさわゆうじ)は俯いたまま、無言で頷く。クラスの中で一番小柄な男子生徒は、いつもどこかしら自信なさげな態度をしていた。厚ぼったい黒縁眼鏡は俯くとずり落ちるのか、しきりに押し上げている。
「こういうものは学校に持ってきちゃダメだって、知っているだろう?」
「……はい」
蚊の鳴くような声で返答があった。とりあえず、反抗的ではないので大丈夫そうだ。ipadに手を伸ばし、取り上げる。
「これ、先生が預かるからな。放課後、職員室まで取りにおいで」
「……反省文、書かなきゃダメですか?」
ぼそぼそとした呟きには怯えが滲んでいた。恐らく、この一件が内申に響くと懸念しているのだろう。確か彼の両親はかなり教育熱心な人たちだと聞いている。一年生の時から受験のための勉強をさせるほどの親を持つ彼にしてみれば、こういうマイナス点を両親に知られるのは怖いに違いなかった。
本来、生徒が学校に不必要な私物を持ち込んだ場合は、担任から学年主任に伝え、進路指導係へと通達しなければならない。その上で反省文を書かせるのが基本だ。
俯いたまま肩を震わせている三沢友二を見下ろし、逡巡の末、口を開く。
「今回はいいよ。先生が黙っておくから」
そう言うと、三沢友二はハッと顔を上げた。
「……ほんと?」
「ああ。でもその代わり、二度とこういうものを学校に持ってきちゃダメだからな」
約束だぞ、と念を押すと、三沢友二はようやく笑顔を見せて頷いた。
(さて、と)
だいぶ時間が押してしまったが、ホームルームを始めなければ。
再び教壇に立つと、既に自分の存在を認識していた生徒たちが自主的に席に戻り、静かになった。改めて口を開く。
「おはよう、皆」
「おはようございます」
揃った返答に自然と笑みが漏れた。
「では出欠を取ります」
宣言し、名簿を読み上げる。一番の芦田陸斗は飛ばし、二番から順に名前を呼んだ。
三十二名の生徒のうち、欠席者は芦田陸斗と里中亜美(さとなかあみ)の二人だけだった。彼女は先週末から風邪をこじらせ、今日も大事をとって欠席させるという連絡を母親から受けたと、今朝方、菊谷を通して聞いている。問題はない。
出欠確認が終わり、連絡事項に入った。
「えーと、今日は担任の菊谷先生が出張のためお休みしています。先生の代わりに私がこのクラスを任されているので、よろしくお願いします」
はーい、と間延びした返答があちこちから上がる。眠そうな生徒や本を読んでいる生徒を流し見しながら、ついで連絡を加えた。
「あと、五時限目に非難訓練があります。皆で協力して、速やかに校庭へ避難するように」
「めんどくせー」
茶化すように谷村直人が言うと、クラス中が笑いに包まれた。彼はこうしてクラスのムードを和ませるのが上手だ。微笑ましいが、時と場合を選ぶことを教えなければならないだろう。
「はいはい、大事なことなんだからふざけない」
手のひらを打って生徒に沈黙を促す。
「避難訓練は、いざというときに自分の命を守るための訓練です。ここでちゃんと避難できないと、本当に災害が起きた時に生き残れないかもしれない」
真剣に言うと、生徒たちも真面目な顔つきになった。
「皆が今ここで学んでいることは、決して無駄じゃないんだ。いつかきっとそれが分かるから、今は〝無駄じゃない〟ってことだけ覚えておいて欲しい」
面倒な授業や課題を一つ一つこなしていくこと。その本当の意味を理解できるのはまだ先かもしれない。けれど、その日は必ず来る。生きていれば、必ず。
その信条が少しでも彼らに伝わることを願って、ホームルームを締めくくった。我ながら青臭いことを言ったかなと恥ずかしく思いつつ、教室を出た。
今日一日の流れを頭の中でざっと確認しながら職員室に戻る。
教師として一年目の自分は自分が受け持つ授業の他に〈初任者研修〉という必須研修が課せられている。研修の一つとして、週十時間程度は他教員の授業を見学し、毎週それをレポートにまとめて校長に提出しなければならないのだ。
今日も六時限目に授業見学の予定が入っていることを思い出して、意味もなく腹の底が重くなった。今日見学するのは、久古が担当する理科の授業だ。
当然、前もって見学の許可は得てあるが、あの時の態度もまた、ありありと拒絶が見て取れるものだった。
『邪魔だけはするなよ』
鼓膜を凍らせるような久古の声を耳の奥に思い出すと、繕った微笑みが知らず強張っていく。
(俺の何がそんなに気に入らないんだよ……)
一方的に理不尽な態度を取られるのは納得がいかなかった。
言いたいことがあるならはっきり言ってくれればいいのに。ちらりとそう思ってから、思い出す。
久古ははっきりと言っていたじゃないか。
(つまりあれか……俺の存在自体が気に入らないっていう?)
そんなの、今さらどうしろというのだろう。
詮無い思考を意識的に振り払い、一時限目の授業ため慌しく準備を整える。
久古に再会したことで一つ分かった。
子供の頃に憧れた理想の教師は、案外、大人気ない男だったということだ。
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