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分からない男
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シン、と静まり返った廊下を歩くと、どの教室からも教師の声だけが聞こえてくる。足音を響かせないよう注意を払いながら理科室へと急いだ。
避難訓練のあとで教頭に呼び出され、あれこれと雑務に駆け回っていたため、六時限目の授業開始から既に三十分が経過していた。終了時刻まであと二十分しかない。
理科室に辿り着くと、閉ざされた扉の向こう側から久古の声が聞こえてきた。低いがよく通る声を耳にし、緊張が高まる。
(落ち着け俺……大丈夫だ)
目障りだと言われたネクタイはできるだけ小さく結び直したし、授業見学に遅れたのは教頭の呼び出しが原因で自分の落ち度ではない。後は笑みを繕った口角が引きつらないようにだけしていれば大丈夫だ。
腹を決め、そうっと後ろ側のドアを開ける。何人かの生徒は背後を振り返ったが、すぐに視線を逸らして授業に戻った。三年生ともなると、さすがに集中力が違うようだ。
物音を立てないよう扉を閉め、黒板と向き合う生徒たちの真剣な背中を観察しながら教室の後方へと進んだ。
教壇に立つ久古はこちらに一瞥もくれず、淡々と黒板に板書をしている。見慣れない白衣姿の男にしばし目を奪われ、慌てて視線を生徒に向けた。
今日の授業内容は生物分野らしい。動植物の体細胞分裂について、久古の板書をノートに写す生徒を順に見て回る。久古の言葉を自分なりに分かりやすくに纏めている生徒もいれば、ただ殴り書きのように黒板を書き写しているだけの生徒もいた。
「体細胞分裂とは細胞の数が増えることを言うが、動物と植物ではその過程が少しだけ違う」
起伏の乏しい平坦な声なのに、どうしてか意識の深いところに落ちてくる。抗いがたい引力を持った声に視線を上げ、愛想のない久古の横顔を盗み見た。
久古は生徒に対しても常時無表情を貫く男だ。形のいい眉をピクリとも動かさず、温度のない瞳で淡々と生徒に向かい合う。この秀麗な顔に無邪気な笑みが浮かぶことはないのだろう。想像するだに似合わない。
実際、過去の記憶を遡ってみても、久古の笑みというのは決まって酷薄な嘲笑か自嘲のどちらかだ。
そんなものは笑顔の部類に入らない。
カツカツと小気味良いテンポで黒板に文字を記す久古の一挙一動を目で追い、そういえば彼は左利きだったな、などと思考が逸れていく。
八年前、学校の屋上で気だるげに煙草を燻らせていたかつての久古を思い出す。出会ったばかりの久古はどこまでも排他的で、閉ざされた内奥に触れることは決して許してくれなかった。自分もまた、彼の目には同じように映っていただろう。互いに心を開かず、出方を窺うような沈黙をやり過ごしたあの頃をぼんやりと思い返し、ハッと我に返る。
今は過去の感傷に浸っている場合ではない。
(集中しなきゃ……)
自らに言い聞かせて意識を生徒に戻した。しっかりやらなければ。
二十分足らずの残り時間は瞬く間に過ぎ、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。一気に集中を解く生徒に混じって、ほっと肩の力を抜いた。
「次回は顕微鏡を使って植物の体細胞分裂を観察する。各自、予習を忘れるな」
ざわつく今日室内から「はーい」と間延びした返答が上がる。それを聞きもせず、久古はさっさと隣の理科準備室に戻っていった。
結局久古は、自分にまったく目もくれなかった。
(完全に無視された……)
始終、空気に等しい扱いを受けた気がする。それも仕方がないか、という気持ちと、少しくらいなんか言ってくれよ、という不満が胸中にわだかまり、爽太は溜め息を吐き出した。
「珍しー。夏井先生が溜め息ついてるー」
からかうような声に顔を向ければ、幾人かの女子生徒がこちらを見て笑っている。
「聞かれちゃったな」
生徒の前では明るく爽やかな教師たれと自分に課しているが、つい気が緩んでしまった。参ったと頬を搔いて苦笑すると、彼女たちが面白そうに笑みを深め、互いに顔を見合ってクスクスと笑う。
「夏井先生ってなんか可愛いよね」
「ね」
「な、なに言ってんだ」
思わず動揺してしまった。ますます笑いが起きる。
「なんか〝先生〟って感じしないし」
「お兄ちゃんみたい」
「久古先生と全然違うタイプだよね」
「美形なのは一緒だけど」
「〝なっちゃん〟って呼んでいい?」
言いたい放題言われ、やれやれと頭を振った。慕われるのは嬉しいが、先生として見られていないというのは少し、いや、だいぶショックだ。
(俺はそんなに先生らしくないのか?)
早く一人前の教師になりたいと願う自分にとって、彼女たちの評価は見過ごせない。もっとしっかり、教師としての自覚を持って毅然としていなければ。それは素直に久古が言う通りだろう。
「〝なっちゃん〟は却下。あんまり大人をからかうもんじゃないぞ」
「えー」
残念そうな彼女たちを促し、教室を出る。ちょうど理科準備室から出てきた久古と危うくぶつかりそうになった。
「わっ」
自分でもどうかと思うほど大げさに避けると、久古は僅かに目を眇めてその脇を通り過ぎていった。謝るタイミングすらない。
なぜそんなに自分を嫌煙するのか。
(そんなに俺をストーカー扱いしたいのかよ。いいかげん自意識過剰だろ)
いささか以上にムッとしながら歩き出す。
放課後のホームルームを終え、職員室で文化祭予算案の書類に目を通していたとき、三沢友二がこそこそと入ってきた。
「失礼します……」
おっかなびっくり職員室内に視線を這わせ、ほっとしたように肩の力を抜く。今、職員室には自分の他に事務の先生しかおらず、他は皆出払っていた。
「夏井先生」
駆け寄るような仕草で近づいてきた彼に、約束どおりipadを渡す。
「今回だけだからな」
念を押すと、三沢友二はこっくりと頷いた。
「ありがと、先生」
柔らかな声に微笑みかけ、行っていいと出入り口を示す。律儀に小さく一礼した彼が立ち去るのを見届けた後、椅子の背にも垂れて大きく伸びをした。
「よし、やるか」
シャツの袖をまくり、気合を入れてファイルに向き直る。
今泉に頼まれた文化祭の会計予算案の作成は思っていた以上に根気の要る作業だ。小さな数字に目を凝らし、過去十年の変遷を追う。生徒から徴収する金額が少しでも前年を上回ると、それだけで保護者からクレームが来るらしい。
集中力の限りを尽くして、自分なりに思考錯誤しながら予算案第一弾を作成した。とりあえず明日、これを文化祭総括係の櫻木に見てもらい、直すところは直せばいい。何度かやり直しになるだろうが、今週の金曜日には間に合うはずだ。
仕事を切り上げ、ふと時計を見ると既に午後九時を過ぎていた。ほとんど無人に近い職員室を見回す。久古の姿はどこにもなかった。もう帰ったのだろうか。
凝り固まった肩を揉み解しながら席を立ち、校舎裏へと向かう。教職員や来客者のために設えられている喫煙スペースで煙草に火をつけた。
ゆっくりと煙を吐き出しながら、初夏の澄んだ夜空を見上げる。
教師になって二ヶ月。まだまだ周囲の助けが必要だが、今のところ順調に来ている。学校という閉塞的な場所で、多くの生徒と接しながら過ごす日々にもだいぶ慣れた。
「問題は久古先生だよな……」
なんだって、ああも冷たい態度を徹底してくるのだろうか。
確かに自分は久古に憧れて教師の道を選んだ。自分を助けてくれたあの人に近づきたくて、必死だった。
いつかは会いたいと思っていたのも事実だ。
「でも別に、だからって付きまとった覚えはないけどな……」
まったく持って理不尽な言いがかりである。ストーカーだなんて、心外もいいところだ。
この学校に着任してみたら、たまたま久古がいた。本当にそれだけのことで、言ってみれば不可抗力な偶然でしかない。
というかむしろ今はいっそ、久古になんて会いたくなかったとすら思う。まだ全然仕事のおぼつかない今の自分なんて久古に見られたくなかった。
鬱陶しがられたり、理不尽な因縁をつけられたりするのは悔しいし、腹立たしい。けれど今の自分には、堂々と反発できるほどの実力がない。どう言い返したところで、半人前の遠吠えなのだ。
だったら自分にできることを一つずつこなしていくしかない。努力を怠らず、積み重ねていけばいつかそれは実を結ぶ。久古だって、きっと認めてくれるはずだ。
爽太は夜闇に溶けていく紫煙を眺めながら自問する。
今、自分にできることはなんだろう。なにをするべきだろう。
教師にとって一番大事なのは、生徒との信頼関係だと思っている。かつて自分が久古に憧れた――今となっては多少脚色の入った思い出なのかもしれないが――あの時のように、生徒から一目置かれる教師になりたい。
〝いい先生〟だと、言われたい。だから何があっても、生徒からの信頼を裏切らないようにしよう。
爽太はそう決意した。
そんな決意を根本から揺るがすようなトラブルが起きたのは、僅か二日後のことだった。
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