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見ていてくれる人
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◇
総合の授業中、生徒たちは黙々と読書に励んでいた。課題図書として決められた本を読み、感想文にまとめるという学習は、生徒たちの中でもとりわけ好き嫌いが分かれる。
教室の後方から生徒の様子を窺っていた爽太は、谷村直人が不審な動きをしていることに気づいた。開いた本の間で、指先が動いている。
ちらりと視線を向けると、担任の菊谷は教壇の上に置いたパイプ椅子にふんぞり返りながら、本を片手に大あくびをかいていた。
爽太はなるべく自然を装って直人に近づく。案の定、彼は携帯電話をいじくっていた。
どうするべきか、一瞬迷った。けれど見過ごすわけにもいかず、思い切って口を開く。
「谷村君、なに弄ってるんだい?」
ビクリと顔を上げた直人が素早く携帯を机に突っ込んだ。
「なにも? ちゃんと読書してんじゃん」
「おい何だ」
揉め事に気づいた菊谷が腰を上げ、こちらに近づいてくる。生徒たちも何事かと視線を向けてきていた。
「おい谷村、今しまったモン出せ」
菊谷が居丈高な口調で命じる。直人はムッとしたように頬を引きつらせた。
「だから、なんにも隠してねぇって」
「いいから出せっつってんだよ!」
バンッ、と脅すように机を叩かれ、直人はしぶしぶ携帯を取り出す。菊谷はそれを取り上げ、威圧するように直人を見下ろした。
「なんだこれ? あ?」
直人は無言のまま唇を尖らせる。
「授業中になにやってんだてめぇは!」
ガラスが割れそうなほど大きな怒鳴り声に、生徒たちが肩を強張らせた。菊谷は舌打ちを響かせ、直人に命じる。
「後で反省文だからな」
「……んで」
直人が憮然とした面持ちのまま何かを呟いた。
「あ? なんだ、文句があんのか」
「菊谷先生、そんな言い方――」
「ひよっこは黙ってろ!」
教師とは思えない高圧的な態度に思わず口を開くが、たった一言で切り捨てられてしまった。しかも〝ひよっこ〟なんて。
仮にも自分は生徒を預かる副担任なのに、生徒の前でその扱いはあんまりでは――?
二の句が告げない爽太を無視して、菊谷はなおも追及をやめない。
「谷村、文句があんならはっきり言え」
「じゃあ言うけどよ!」
直人は勢いよく立ち上がって声を荒げた。弾みで椅子が倒れ、耳障りな騒音を立てる。
「なんで俺だけ反省文書かなきゃなんねぇの?」
「んだと?」
「この前、三沢だってipad持ってきてたけど、反省文なんか書かなかったじゃねぇか。そうだよなあ? 友二」
直人は後ろを振り返り、青褪める三沢友二に声を掛けた。友二はオドオドと視線をさまよわせ、か細い声を出す。
「だって……夏井先生が、今回はいいって」
縋るような視線が向けられた。その瞬間、マズイと思ったのが顔に出てしまったらしい。菊谷はそれを見逃さず、詰め寄るような勢いでこちらを睨みつけてきた。
「夏井、てめぇどういうことだ。ああ?」
「いえ、それは……」
とっさのことで言い繕う言葉もまともに出てこない。
「説明しろって言ってんだ!」
直情的な怒鳴り声に心臓が縮み上がった。生徒たちが皆、息を詰め、怖々と場の成り行きを窺っている。
「も、申し訳ありません」
ここはとにかく謝るしかないと判断し、強張る身体を叱咤して頭を下げた。
「てめぇな、人のいねぇ間に勝手なことしてんじゃねぇよ! ここは俺のクラスだぞ!」
菊谷は唾を飛ばしながらがなる。
教師は誰しも、自分が受け持つクラスに思い入れを持つものだ。真摯に生徒を思い、個々の存在に目を配ろうと努力する教師が大半を占めている。
ただ、中には菊谷のように、独裁的な主観を持って学級運営を推し進めていく教師もいるのだ。教室は城で、自らは王。生徒はその下で自分の命令に従う、従順な駒でなければならないと考える教師が。
ふと視線だけを上げ、友二を見る。彼は貧血でも起こしそうなほど青白い顔をしてこちらの様子を遠巻きに見つめていた。自分の一言が引き起こした事態に責任を感じてしまっているようだ。
(そんな心配、しなくていいんだぞ)
心の中で呟く。全ては自分の判断ミスが招いた結果だ。
「だいたいてめぇなんかなぁ、端っから教師の器じゃねぇんだよ。ヘラヘラ生徒に媚売りやがって」
ピシリ、と心にひびが入った。いくらなんでも、その言い方はないだろう。
(俺は俺なりに頑張ってるのに――)
生徒に好かれるため、というのもあるが、何より教師として最低限、できることをしていたつもりだ。どんなにきつくても生徒の前でそれを顔に出さないよう、いつでも明るく振舞ってきた。その全てを真っ向から嘲笑われてしまうと、もう顔を上げられない。
自分がしてきたことは何もかもが無駄だったのだろうか。そんな自問に唇を噛んだ時。
「何事ですか」
聞き慣れた低い声が聞こえ、その方向に目を向けた。驚きと困惑が同時に浮かび、思わず声を上げそうになる。
教室の入り口から久古がこちらの様子を覗き込んでいた。いつもは鉄の如く無表情な彼が、珍しく不機嫌を露にしている。しかも視線の先にいるのは自分ではなく、菊谷だ。
「何でもありませんよ。こっちの問題です」
年下とは言え主任の立場に就く久古に、菊谷は視線を逸らしつつ表層的な敬語で答えた。久古は微かに顎を上げ、「そうですか」と端的に言う。
「何でも構いませんが、少し静かにしていただけませんか。授業の妨げになります」
それだけ言い置いて、さっさと自分のクラスに戻っていってしまう。菊谷は去り行く背中に舌打ちを掛け、再び自分を睨みつけてきた。
「てめぇのせいだぞ」
ぼそりと呟いた後で、菊谷はニタリと頬を持ち上げた。
「まあお前も、後であいつにこっぴどく叱られるだろうなぁ」
可哀想にと嘯いて菊谷は露骨に嘲笑を浮かべる。なんて嫌な人なんだろうとは思ったが、こんな人間でも教師は教師、上司は上司だ。言いたい言葉の全てを飲み込んで「はい」とだけ返事をした。
「お前らは今すぐ生徒指導室行きだ」
直人と友二に顎をしゃくり、爽太に連れて行くよう命じた菊谷は、唖然とする教室を放り出して出て行ってしまう。仕方なく生徒たちに自習を告げ、二人を伴って教室を後にした。
「……ごめんな、二人とも」
生徒指導室に向かう途中、明らかに不満そうな直人と、未だ青褪めている友二に声を掛ける。友二はゆるゆると力なく首を振ったが、直人はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「友二は見逃したくせに。夏井先生ってマジ最悪。あんたのことなんか、二度と信じねぇ」
吐き捨てるような言葉を耳にし、スッと体温が下がる。氷でできた刃が心臓に深々と突き刺さったかのようで、一瞬、呼吸さえできなかった。
――二度と信じない。その言葉は、信じていたからこそのものだ。
「……ごめんな」
ひどく掠れた自分の声が、直人に届いたかどうか分からない。
生徒指導室に二人を連れて行き、指導担当の中村(なかむら)美代子(みよこ)に事の次第を伝える。
「あらあら。二人揃って」
艶のある微笑みを浮かべた中村に、二人は束の間、ぼうっとなった。教師の中でもミス・マドンナと称される中村は、男女問わずその微笑み一つで他人を骨抜きにしてしまう才覚を持っている。顎先ですっぱりと切り揃えられた漆黒のボブヘアと口元のほくろが彼女の妖艶さに拍車をかけていた。校内で彼女の実年齢を知っているのは校長と教頭のみだという噂は本当だろうか。
「悪い子ね」
トロンとした瞳で固まる二人の額を指先で突き、中村は見事な手際で椅子に座らせる。彼女の微笑みに逆らえる人間はこの学校に存在しないのかもしれない。事実上の裏ボスだ。
二人に反省文の用紙を差し出した中村が自分に目配せをする。〝この子達は任せて〟と言うメッセージをウインクと共にもらい、すごすご進路指導室を後にした。
教室に戻り、案の定騒がしくしていた生徒たち読書に読書の再開を促す。何人かの生徒に同情的な視線を向けられていることに気づき、ますます気落ちした。
(教師失格だよな、俺……)
溜め息を我慢できず、教壇の上にあるパイプ椅子に腰を下ろす。菊谷はどこへ行ったのだろうかと考えているとき、教室の内線電話が鳴り響いた。取り上げると、今すぐ校長室へ来い、という呼び出しだ。
「先生はちょっと出てくるから、皆しっかり自習していてください」
言い残し、しくしく痛む胃を宥めつつ校長室へと向かった。
「私だってねぇ、あんなド素人のお守りさせられて迷惑してるんですよ」
校長室から菊谷のねちっこい声が漏れ聞こえている。どうやら教室を放り出して校長に直談判していたらしい。早くも逃げ出したい気分になりつつ、扉を叩いて中に入った。
「ああ、来ましたね夏井先生。さあさ、とにかく話を聞こうじゃありませんか」
温和な微笑みを浮かべた校長に迎え入れられ、身を縮めながら勧められたソファに腰を下ろす。校長室には彼の他に菊谷と久古の姿があった。学年主任という彼の立場であればここにいることに不思議はない。
久古は壁際に立ったまま、一瞬だけこちらに視線を向けてきた。すぐに目を逸らしたところを見ると、相当に呆れているようだ。
こんな失態に巻き込んでしまったことを恥じ、俯く。無意識のうちに拳を強く握りこんだ。
「さて、夏井先生。何があったのですかな?」
詰問でもなく、ただ親身な問い掛けに顔を上げ、事の経緯を簡潔に話して聞かせる。三沢友二がipadを持ち込み、クラスの男子数名とアニメを視聴していたこと。それを取り上げた際、反省文を書くことをひどく恐れていたこと。その原因が内申書に関係していると予想し、ひいては家庭の事情を考慮するに至ったことなど。校長は口を挟むでもなく深々と頷きを繰り返していた。
「早計でした。反省しています」
説明すればするほど陳腐な正義感だと菊谷がせせら笑いを浮かべる。反論する気力さえ失くし、下を向いて校長の采配を待った。
「事情は分かりました。大丈夫。あなたは生徒のことをよく見ていますね。そういう先生のことは、生徒の皆さんもよく見ていてくれるものですよ」
意外な言葉に目を見開き、顔を上げる。おっとりとした笑顔を浮かべた校長が一つ頷いて肩を叩いてきた。その瞬間、バチッと不快な痛みが走ったが、幸い顔には出ずにすんだ。
「けれどまあ、今回のことで夏井先生も学んだでしょう。一人の生徒を特別扱いすれば、他の生徒がやきもちを焼きます。夏井先生みたいに人気者の先生は特にね」
悪戯じみた微笑みで諭され、おずおずと頷いた。これを教訓にしなければまた同じ間違いを犯すだろう。
壁際で菊谷が面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「さて、菊谷先生」
ニッコリとした笑顔のまま、校長は菊谷を振り返る。
「あなたは授業中に、生徒の面前で夏井先生を侮辱するような発言をしたという報告を受けましたが、それは事実ですかな?」
「い、言ってませんよ。誰がそんなこと」
あからさまに狼狽した菊谷に、久古が冷めた視線を送る。
「廊下中に響き渡っていましたが」
どうやら久古が報告したらしい。その事実に少なからず驚き、まじまじと久古を見つめた。どういう風の吹き回しだろうか。
「確かに、夏井先生は教員としてまだ日が浅く、未熟な部分は多々あります」
久古も真っ直ぐにこちらを見ていた。相変わらず感情の読めない瞳だ。
「それを補うために、生徒の前ではひたすら明るく振舞っているんです。決して『生徒に媚を売っている』わけではありません」
淡々とした言葉に、菊谷が口を曲げて黙り込む。爽太は瞠目し、ギュッと拳を握り締めた。
(なんで……)
久古がそのことを知っているのだろう。
自分の稚拙な努力を、久古はちゃんと見ていてくれたというのだろうか。認めてくれていたのだろうか。
まさか、そんなわけがない。頭の中ではそう否定しつつも、俄かにくすぐったいような気恥ずかしさを感じて咄嗟に俯いてしまう。
その瞬間、久古の視線が自分から逸れた気配がした。
「不適切な発言について、夏井先生に謝罪するべきだと思いますが」
「い、いえ、そんなっ」
慌てて顔を上げ、手のひらを振るが、久古の一瞥に口をつぐんだ。「黙っていろ」と命じられたのは明らかだ。
確かに、自分は菊谷の言葉に傷ついた。けれどもうそんなことはどうでもいい。どうでもよくなってしまった。
久古が自分を庇うような発言をしてくれるなんて、思っても見なかったのだ。
正直、嬉しくて仕方なかった。現金な自分はそれだけで本当にもうどうでもよくなってしまったのだが、大人同士という立場上、そうもいかないらしい。
「教師ともあろう人間が、生徒の前で人を侮辱するなんて、無責任にも程があります。菊谷先生はご自分の立場をどうお考えですか?」
目尻を引きつらせて沈黙を貫く菊谷に、久古が畳み掛ける。「まあまあ」と校長がやんわりとりなし、菊谷に微笑みを向けた。
「菊谷先生、あなたは先ほど私に『ド素人のお守り』と仰いましたね? 私も、あれは礼を欠いた発言だと思います」
「それは……申し訳ありませんでした」
明らかに憮然としつつ、菊谷が呟く。ちらりと校長に視線を向けられ、頷いた。と同時に終業のチャイムが鳴り響く。
「では今回はこのくらいで。反省文を書いている二人の生徒のフォローを忘れないようにしてくださいね」
校長の許しを得た菊谷はいち早く校長室を出て行った。
爽太も久古に続いて校長室を後にし、去っていく背中に声を掛ける。
「あの、さっきはありがとうございました」
久古は僅かに振り向いて小さく鼻を鳴らした。
「別にお前のためじゃない。……あのムカつく男を少し苛めてやりたかっただけだ」
教師の発言とは思えない。絶句していると、ふと久古の視線が和らいだ。
(あ……)
笑みというにはあまりに微かな変化だ。恐らく自分にしか分からないだろう。けれど、昔と変わらないその表情を目の当たりにして、一瞬過去に戻ったような気がした。
「始末書は一応書いておけ。今後の評価に役立つ」
次の瞬間にはいつもどおりの無表情に戻って、久古は平坦に告げてきた。呆気に取られたまま、上の空で頷く。
去っていく背中を見送り、しばらく廊下に立ち尽くした。
(やっぱり、あんたはあの頃の久古先生なんだな……)
懐かしい、あの目。柔らかくて穏やかな瞳。決して破顔することはないけれど、久古はあんなふうに分かりにくくも、時折笑っていた。
久古が人前で滅多に笑わない理由。それ知っている人間は、多分この学校では自分しかいない。それを確信し、胸が痛んだ。
久古は今も、一人きりで。自分もまた、一人きりだ。
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