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〝特別〟だとは知らない
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久古が運転する車の後部座席に、亜美と並んで座る。
「家まで送っていくけど、今誰かいるかな?」
連絡が取れなかったという話を思い出しながら問うと、亜美は首を振った。
「今、二人とも海外なんです。……久しぶりに夫婦水入らずで旅行がしたいって」
「君を置いていったのか?」
信じられない気分で問い返すが、亜美は自分からそうお願いしたのだと言った。
「お父さんはいつも仕事ばっかりで、お母さんが寂しそうだったから。私、今回の休みは二人で旅行でも行けばって言ったんです。たまたまお父さんが休みをもらえたから……」
「そうか……じゃあ今、家には君一人なんだね」
送って行っても、それで安心はできないような気がした。
「私、〝いい子で待ってる〟って二人に約束したんです……だから、こんなことしたってバレたら……」
言葉の端が不安げに揺れている。
「お願いです先生。誰にも言わないでください。学校にも、お父さんやお母さんにも」
切実な瞳に見上げられ、胸が詰まった。かつて自分にもこんな経験がある。誰にも知られたくない。誰にも心配されたくない。そう願ったことが。けれど――。
「それには同意できないな」
運転席から、久古の声が聞こえてきた。静かな声だったが、亜美はビクリと肩を強張らせる。
「お前はルールを破って警察に補導されたんだ。見逃してもらおうなんて調子のいいことを考えるな」
「久古先生、もう少し言い方ってものがあるでしょう」
同意できないのは自分も同じだが、そんな取り付く島も与えないような言い方はどうかと思う。
亜美は泣き出しそうなほど顔を歪め、唇を噛み締めている。その震える肩を抱き締めてやることもできない自分が憎い。他人に触れることが怖いなんて言っている場合ではないのに。
彼女の気持ちは痛いほど理解できた。けれど、「誰にも言わない」なんて約束はできないのも確かだ。
軽はずみに秘密を約束してしまうとどういう結果を招くか、三沢友二の一件で嫌と言うほど学習してしまっている。
「とりあえず、全部話してくれないか? どうしてそんな格好をしたくなったのかとか、なんでさっきの彼と喧嘩したのかとか」
話を聞かなければ、どうするべきなのかすら分からない。亜美はしばらく無言で俯いていたが、やがて小さく頷いた。
三人で亜美の自宅に向かい、真っ暗な家の中へと入れてもらった。
きっちりと片付けられたリビングに通され、手近なソファに腰を下ろす。亜美は向かい側、久古は自分の隣に座った。
「……それで?」
真っ先に口を開いたのは久古だった。長い脚を組んだまま、冷え切った視線を亜美に向けている。
どんな弁明をするのか、それ次第では容赦しないというような強硬な態度だった。そんな久古に亜美は身を縮ませて俯いてしまう。
「ねえ、里中さん。ちゃんと話してくれないかな。黙ってたら、相手には何も伝わらないんだよ?」
意図的に久古とは真逆の態度を意識しながら、できる限り穏やかに問いかけた。ここで二人の教師が共に詰問するような態度を取ってしまったら、亜美は逃げ場をなくしてしまう。
「……夏井先生は私のこと、どういう生徒だと思ってました?」
ややあって亜美が不可思議な質問をしてきた。
「どうって……そうだな。真面目で優しくて、クラスをまとめるのが上手い生徒だって思ってる」
「今も?」
「もちろん」
嘘も方便もなく頷くと、亜美はなぜか暗い表情をした。
「それ、私じゃないわ」
硬い声で呟く。
「全部、私じゃないんです。真面目とか、優しいとか、しっかりしてるとか。……よく言われるけど、それは本当の私じゃない。そう言われるたびに息が詰まりそうだった……」
手のひらを強く握り込みながら亜美は訥々と言葉を続けた。
「ずっと演技してたんです。皆が私に期待してくれてるから、裏切っちゃいけないって。〝いい子〟でいなきゃダメなんだって、ずっと自分に言い聞かせてた。でも……」
ゆっくりと瞬きをした瞳から涙が零れ落ちる。それを拭って亜美は痛々しく微笑んだ。
「本当の私は、皆が思ってる〝いい子〟なんかじゃないんです。本当の私はもっと自分勝手で、無責任で、嘘つき。なのに……」
亜美は小さな唇を噛み締めて顔を歪めた。
「誰も分かってくれないと? だからこんな下らない行動で自己主張してみたとでも言うつもりか? 三歳児でもあるまいに」
「久古先生っ!」
鼻で笑うような久古の言葉に、爽太は思わず声を張り上げる。
「そんな言い方しないでください! 久古先生には、この子の気持ちが分からないんですかっ?」
亜美が抱えている悩みは、彼女にとってとても深刻なものなのだ。誰も本当の自分を知らない。知って欲しいと望むことすら許されない。それがどれほど苦しいことだったのか、今の彼女を見れば分かる。
憤然と久古を睨みつけると、久古は微かに目を見開いて口を噤んだ。
「いいんです……本当に馬鹿なことをしたって、分かってるから。でも……」
亜美は顔を歪めたまま言葉を搾り出した。胸の奥にある苦痛をそのまま吐き出そうとするかのように。
「私、変わってみたかったんです。どうせ私じゃない私でいるなら、いっそ別人になってみたかった」
それが今の里中亜美だというのだろうか。清廉潔白な印象をかなぐり捨て、派手な格好で夜の街を出歩く少女が、果たして本当に彼女が望む彼女自身だったのか。
俯く少女にどんな言葉を掛けるべきなのか、教師として未熟極まりない自分には見当もつかなかった。
〝いい子〟でいなければならない。亜美はそう言った。本当の自分はそうじゃないのだとも言った。けれど、やはり亜美の性根は善良なのだと、爽太は思う。
〝いい子〟だからこそ、周囲の期待に応えなければならないと自らを追い詰めてしまったのだ。
「自縄自縛って言葉を知っているか? まさに今のお前が陥っている状況のことだ」
呆れた久古の声に、亜美が唇を引き結ぶ。
「久古先生、ちょっとは言葉を選んでくださいよ」
「選んでいたら伝わらないだろう」
小声で抗議するが、久古は淡白に言い返して腕を組む。いっそ開き直ったかのような態度が腹立たしい。
(あんた、マジで大人気ないな)
子供の頃の憧れを返して欲しくなった。
溜め息が漏れないよう、ゆっくりと息を吐く。いちいち久古に抗議している暇もない。亜美に聞いておかなければならないことはまだあるのだ。
「……さっきの彼と喧嘩した理由、聞いていいかな?」
問い質しても、亜美はなかなか重い口を開こうとしない。質問を変えてみる。
「彼は、恋人?」
亜美は俯いたままで首を横に振った。
「……今日、たまたま会った人です。駅前で声を掛けられて、一緒に遊んでいました」
「そっか」
少年の顔を思い出しながら頷く。恋人じゃないということが分かっただけでも一安心だ。
(あんなのと付き合ったら、どんな目に遭わされるか分かんないもんな……)
あの少年の目つきや笑い方は、ぞっとするほど似ていたのだ。昔、自分を苛んだ嗜虐者たちに。彼はきっと、他人を傷つけることに躊躇も後悔もしないタイプの人間に違いなかった。
「私、ナンパされたの初めてだったから、ちょっとびっくりして。でも、嬉しくなっちゃったんです。認められたみたいで」
「お前には考える頭がないのか? あんな男に認められたと喜ぶような神経はまともじゃない」
「いいからあんたはもう黙ってろよッ」
本気で苛立ち、立場を忘れて久古の脇腹を肘で小突いた。いちいち横槍を入れられたら話が進まない。
「……それで? 彼にナンパされたあとは?」
「あの……ついて行きました」
彼について行き、カラオケやらボーリングやらで遊んだらしい。そうこうしているうちに暗くなり、けれどまだ帰りたくなかったのだと亜美は言う。
「家に帰ったら、またいつもの私に戻らなくちゃいけないから……だからもう少し遊んでいたくて……」
「それで終電間際まで遊んでいたのか」
亜美はこっくりと頷いた。問題はそこからだ。
「何で喧嘩になったんだい?」
真辺の電話で「喧嘩」と言う単語を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは暴力沙汰だったが、亜美の様子を見る限り顔や身体に傷はなさそうだ。それには心底ほっとしている。けれど、たとえ口論だとしても警察が介入するほど激しいものだったのは間違いない。
亜美は首が落ちるかと思うほど深く俯く。
「……知らないうちに、どんどん繁華街の方に向かってたんです」
亜美が補導された歌舞伎町付近のことだろう。
「もう真っ暗だったし、街の雰囲気も少し怖くて、だから私、『もう帰りたい』って言ったんです。そしたら……急に腕を掴まれて」
自分の身体を抱き締めるようにして、亜美は肩を震わせた。
少年は繁華街から遠ざかり始めたと言う。向かった先を聞き、思わず顔をしかめた。
彼はまだ中学生の亜美をそういう系統のホテルに連れ込もうとしたのだ。
「『絶対に嫌』って言ったら、喧嘩になりました。『じゃあお前は何のためにオレについてきたんだよ』って」
なんという言い草だろう。軽薄な少年に対して嫌悪感が込み上げ、思わず顔をしかめる。
「自業自得だ」
「警察の人には、その話をしたかい?」
久古の言葉は綺麗に無視して問い掛けると、亜美は首を振った。それを見て、爽太は思案する。
どう伝えるべきだろう。この世の中には、彼女が想像もできないほど非道な人間がいるのだということを、どう伝えればいいのだろうか。
迷った末に、口を開く。どうせ自分には直球以外の手段がない。
「そういう派手な格好をしていると、危ない男が寄ってきやすいんだ」
自分を否定されたと思ったのだろう。亜美の肩が強張った。構わず続ける。
「さっきの彼も、こういう言い方をするのは嫌だけど、最初から君の身体が目的だったんだと思うよ」
わざと言葉を選ばなかった。選んでいては伝わらない。悔しいが久古の言うとおりだ。
「今回はたまたま警察の人が助けてくれたけど、次はどうかな」
自分の声が硬くなっていることに気づいた。亜美の横顔から血の気が引いていく。
「君は大切な生徒だから、あえてきついことを言わせてもらうけど。今回のことは、君にも非がある」
真っ直ぐに目を見つめ返し、厳しく言い放つ。傷つけることを恐れて言葉を濁せば、本当に伝えたいことを伝え損なってしまう。
亜美は一瞬、痛みに耐えるような表情を浮かべた。その後で、小さく唇を動かす。
「ごめんなさい……」
もう何度目かの言葉を呟き、亜美はふと顔を上げる。泣きながら笑うような顔で、こちらを見上げてきた。
「先生、ありがとう。……私、呆れて叱ってもらえないかと思いました」
「……叱るに決まってるだろう」
大切だからこそ、今回の一件は看過できない。
「君が無事でよかった。警察から電話があったとき、心臓が止まるかと思ったんだ」
心の底から、無事でよかったと思う。亜美は恥じ入るように俯き、また「ごめんなさい」と口にした。なんだか謝らせてばかりだ。
「もう謝らなくていいよ。……本音を言うと、君が俺を頼ってくれたことが嬉しいんだ」
担任の菊谷ではなくこの自分を頼りにしてくれたのは、信頼の証と自惚れてもいいのだろうか。
そう思い、亜美を見ると、彼女は僅かに頬を赤く染めて微笑んだ。
「夏井先生なら、今の私を見ても怒鳴ったり馬鹿にしたりはしないと思ったので……」
彼女の笑顔は普通の生徒よりもずっと大人びている。それを目にすれば、彼女が今、どれだけたくさんの悩みや苦しみを抱えているのか、察して余りあるだろう。
「いくら副担任だからと言って、夏井の甘さに付け入るような真似はするな」
ようやく和んだ空気を壊したのは久古だった。ムッとする爽太には目もくれず、久古は鋭い眼差しを亜美に向けている。
「俺はお前を賢い生徒だと思っていたが、認識を改める。お前は考えが足りない」
「ちょ――」
容赦も遠慮もない言葉に爽太はぎょっと久古を見つめる。たった十四歳の少女に対して、思いやりの欠片もない言い草だ。
「今回の件が、大した被害もなく収束したのは確かに運がよかった。だが、なぜ警察に所属先の学校名や自宅の住所を教えなかった?」
「そ、それは」
「その格好を他人に見られたくなかったと言ったな。だが夏井なら大丈夫だろうと考えた。子供らしい身勝手な都合だ」
「く、久古先生、もうそんなのどうでもいいじゃないですか」
「黙れ」
緊迫していく空気に耐えかねて口を挟むが、ばっさり命じられては絶句する他なかった。
「里中」
亜美は怯えたように顔を強張らせながら、それでも久古の視線を懸命に受け止めていた。
「お前のしたことは、紛れもないルール違反だ。自分の落ち度を潔く認めるのならまだいいが、今のお前はただ〝認めたつもり〟になっているだけで話にならない」
久古が何を言いたいのか、もはや爽太にはまったく分からない。ただ、明らかなことが一つある。
久古は怒っている。なぜ、と問えばやはり亜美が考えなしの行動で危ない目にあったからだろう。けれどそれについては、亜美はもう既に充分反省しているはずだ。
一体何が気に食わないのだろう?
「お前はさっき夏井に、今日のことは誰にも言わないでくれと頼んでいたな? あれはどういうつもりなんだ」
「え……あ、それは……」
「今回の件で真っ先に動くべきは担任の菊谷だ。だがお前はそれを飛ばして、真っ先に夏井に連絡した。その行動がどれだけ夏井の立場を危うくするか分かっているのか? 下手をすれば夏井は教師を辞めさせられるぞ」
久古の言葉に亜美は絶句する。爽太も同じだ。
今の今まで、あまり深く考えていなかった。自分の立場も、この状況も。
「夏井が俺を呼ばなかったら、この場にはお前と夏井の二人きりだ。もし誰かに見られでもしたら、どんなに言い訳しても夏井は疑われただろうな」
淡々とした声に背中が寒くなる。そうだ。もしも久古と連絡がつかなかったら、自分は一人で亜美を迎えに行って、ここまで送ってきただろう。後先も考えずに。
「その上、お前の非行を見逃したことが露見すればどうなるか、よく考えてみたか?」
怜悧な視線の先で、亜美は真っ青な顔をしている。どうやら自分は、途轍もなく危ない橋を渡ろうとしていたらしい。
今さらながら嫌な汗が背中に噴き出し、思わず拳を握り締めた。考えなしなのは自分の方だ。
「悪いが、今日のことは学校に報告させてもらう。それが規律だからな」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった久古を、慌てて止めた。反射的に久古のズボンを掴んでいるが、爽太にはその自覚がなかった。
久古は氷よりも冷たい視線でこちらを見下ろしてくる。だが今回ばかりは譲れない。
「彼女はきちんと反省しています。これ以上、誰かに責められる必要なんてない」
「だから見逃すと? お人好しも大概にしろ」
「なんと言われても結構です」
どんな形であれ、自分を頼ってくれた生徒なのだ。守れるものならなんとしてでも守りたい。
「彼女は俺たちを信じて、全部ちゃんと話してくれたじゃないですか。その信頼に応えて上げられないなら、俺は教師に未練なんかありません」
きっぱりと言い切ると、久古は微かに目を見開いた。
爽太はオロオロしている亜美を見つめる。
「話してくれて、ありがとうな。君が俺を信じてくれたのは、本当に嬉しい」
きっと辛かったに違いない。誰にも本当の自分を打ち明けられないというのは嘘をつき続けるのと一緒だ。その重圧に押さえつけられ、罪悪感や自己嫌悪に呑まれてしまえばどうなるか、過去の自分を思い出して背筋が冷えた
亜美は小さく唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「久古先生の言うとおりです。私は、自分のことしか考えてなくて……。夏井先生が先生でいられなくなったら、どうしよう……っ」
「それでも、俺は誰にも言わない」
「おい――」
「もう決めたことです」
苛立ったような久古の声を遮って、挑むような視線を向ける。
一教師の立場からすれば完全に間違っているだろう。本来なら、学校に連絡するかどうかはさておき、保護者には話をしなければならない。それが教師として最低限度の常識だ。
(それがどうした)
爽太は胸中で呟いた。不思議なほど冷静な自分に気づく。
自分の保身などこの際どうでもよかった。亜美がこれ以上追い詰められないように、できることは何でもしてやりたい。ただそう思った。彼女の苦しみを知っているのは自分だけなのだ。
久古は無言のまま、涼しい目元に剣を滲ませている。互いに睨み合っていると、やがて久古の方から視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
突き放すような言葉には、諦めのニュアンスが強い。どうやら久古も今回の件を黙っていてくれるらしいと分かって、思わずホッとしてしまった。
僅かに萎縮している亜美の目を見つめ、そっと笑いかける。
「君との約束は守るよ。誰にも言わない」
「で、でも、それじゃ夏井先生が……」
「大丈夫。もし今日のことがバレても、俺と君がなんでもないってことは久古先生が証明してくれるよ」
多分――、と久古を盗み見る。久古は露骨に不本意そうな顔をしたまま他所を向いていた。
否定されないということは、きっと信じて大丈夫なのだろう。
もう一度亜美に向き直り、切実な気持ちで口を開く。
「もう二度と知らない男の人についていかないって約束してくれないか。……できればその格好も控えて欲しい。校則を盾に取る気はないけど、その格好は君にふさわしくない」
ただでさえ人目を引く容姿をしているのだ。そんな格好をしていれば、嫌でも悪い男が寄ってくるだろう。
亜美は真っ直ぐにこちらを見つめ、「分かりました」と真剣な瞳で頷いた。
「もともと、今日、この家に帰ったら普段の私に戻るって決めてたんです。一日だけ、別人になろうって。……やめとけばよかったわ」
恥じ入るように付け加え、亜美は深々とソファに背中を預ける。
「クラスの男子を〝子供っぽい〟なんて言って馬鹿にしてる私が、ほんとは一番子供っぽいんですよ。……情けないですよね」
弱々しく自嘲を吐露しながら、亜美は染めた髪を指先で梳いた。
「先生は、こんな私でも、今までどおりに接してくれますか?」
澄んだ黒目に、ちらりと不安が浮かぶ。それを拭い去るため、強く頷いた。
「どんな君でも、君は君だからね」
「……ありがとう」
亜美は小さく微笑んで呟く。
「私、夏井先生の生徒でよかった」
柔らかな笑顔に見上げられ、完全なる不意打ちを胸に食らった。真っ直ぐな言葉が全身に染み渡り、言葉にならない感情が込み上げてくる。
ここまで真っ向から自分を認めてくれた生徒は、彼女が初めてだ。
「……こちらこそ、ありがとう」
内心照れながら微笑みを返した。
亜美の家をあとにし、久古の車で自宅まで送ってもらうことになった。無言の車内は息が詰まりそうなほど重苦しい沈黙が続いている。滑らかに車を走らせる久古の横顔はずっと冷め切ったままだ。
助手席って、こんなに居心地の悪いものだっただろうか。
「……すみませんでした」
ピリピリした空気の中、やっとの思いで声を出す。
「なにがだ」
「だから、その、」
端的な問いに俯きながら、もごもご口を動かした。
「結局、久古先生まで巻き込んでしまって……」
ただの自己満足のために、久古の立場まで危うくしてしまった。今回の一件が学校側に露見すれば、久古だってただでは済まないだろう。
唇を噛み締めて猛省すると、久古は小さく吐息を零して緩やかにブレーキを踏んだ。
「まったくだ。もう少し後先を考えられないのか」
「……本当にすみません」
「教師が生徒と同じ視点に立ってどうする。守るべき規律を教師自ら破るのは問題外だ。必要以上に生徒を甘やかすな」
「はい……」
容赦のない叱責が来ることは覚悟していたから、素直に恥じ入った。それでも、自分の決断を後悔してはいない。悔やまれるのは、久古を巻き添えにしてしまったことだけだ。
「今回だけは大目に見たが、二度目はないぞ」
「分かってます。もう久古先生にご迷惑はおかけしません」
膝の上で拳を握り締め、硬く誓った。頼ってばかりじゃダメだ。それじゃいつまでもこの男に認めてもらえない。
それきり互いに黙り込んだ。一刻も早く別れたいのに、信号は赤ばかりでなかなか家に辿り着けない。
「あ、もうこの辺でいいです」
自宅までほんの数分の交差点近くでさえ赤信号に引っかかり、堪らず声を絞り出した。ドアノブに指をかけて、逃げるように車を降りる。
「こんな夜分に申し訳ありませんでした」
「おい、待て」
グッと腕を引き戻され、心臓が跳ねた。驚くほど強い力だった。なのに、どうして――。
「いいから乗れ。家の前まで送る」
厳命口調に抗えず、すごすごとシートベルトを締め直す。まだ心臓が暴れたままだ。
(今、痛くなかった……よな?)
他人の手に触られたのに、まったく痛く感じなかった。
困惑しながら、できる限りドアに身体を貼りつける。我ながら意味不明な自己防衛だ。久古はまったく気にした様子もなく、車を発進させる。
「あ、ここです」
「そうか」
久古は一つ頷いて路肩に車を寄せる。
宣言通り、自宅の前まで送られてしまった。見慣れたアパートの外観を目にして気が抜けたのか、どっと疲労が押し寄せてくる。
「夜分遅くにすみませんでした」
本当に助かったけれど、久古にしてみればいい迷惑だっただろう。恐縮しながら頭を下げたとき――。
ふわりと優しい感触があった。それが久古の手の平だと気づいて、ぎょっと顔を上げる。
「さっきは少し言い方がきつかったな。悪かった」
「い、いえ……」
雑な手つきで髪を撫でられているのに、やけに顔が熱いくらいで他に異常はない。痛みも、嫌悪も、まるでなかった。
久古はいつになく穏やかな目でこちらを見つめてくる。
「俺を頼ったお前の判断は間違っていない。迷惑だとも思わん。必要なら手を貸してやる」
淡々とした言葉が、ストンと胸に落ちてきた。
頼っても、いいのか。迷惑ではないのか。
「……ありがとう、ございます」
嬉しいのに泣きたくなるなんて、人の心はどこか造りがおかしいと思う。くすぐったく笑って、静かに車を降りた。
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
久古は不器用な微笑みを残して去っていく。
触れられた髪にそっと手を伸ばし、もう片方の手で頬に風を送った。熱くて仕方ない。
なんだかよく分からないが、久古に褒められたのだ。
(俺もやればできるんだって、ちょっとは見直したのか?)
無意識に鼻歌を歌いながらアパートの扉を開き、心の中でガッツポーズを取った。
軽くシャワーを浴び、深夜二時近くになってようやくベッドに潜り込んだ。だが疲労が極まったせいか無駄に意識が高揚していて、寝返りを打っても睡魔は一向に訪れない。
今夜の出来事を思い返し、段々と気鬱になってしまった。久古に褒められた喜びも、どんどん萎んでいく。
「本当の自分、か……」
亜美が抱える悩みは、どこか自分に似ているような気がした。一日も早く一人前の教師になりたい。その一心で無理やり繕っている笑顔は、本当の自分自身から程遠いものだ。
本当の自分はどこまでも臆病で、脆弱極まりない。それを誰かに知られることすらも恐れてしまうほどに。
(俺、本当にダメだな……)
弱いままの自分が心底嫌になる。強くなると約束したのに。
ようやく訪れたまどろみの淵で、耳の奥に懐かしい言葉が蘇った。
『――強くなれ、爽太』
低い厳命に泣きながら頷いたのだ。あの時からずっと強くなりたいと願い続けている。なのに。
あの少年の目を見つめただけで、あっという間に過去へと引き戻されてしまった。怖気づき、呼吸の仕方も忘れていた。
この心は弱いままだ。あの頃からまったく成長していない。そう気づかれたら、また失望されてしまう。
強くなりたいと、願っているのに。誰よりも強く望んでいるのに。
未だに、過去の記憶は消えない。思い出しただけで消えてしまいたくなるような恐怖が、いつだって自分の心にまとわりついているのだ。
久古はどうやってそれを乗り越え、今に至ったのだろう。
あの男は誰にも弱さを見せず、自分の足でしっかりと立っている。昔も、今も。
(あんたは一体、どうやって強くなったんだよ?)
追いつくどころか遠ざかるばかりの背中を思いながら、爽太は混沌の眠りに追い込まれていった。
なぜ久古に触れられても痛くなかったのか。その理由を深く考えることもなく――。
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