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悪夢の再会
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◇
三沢友二を見かけたのは、巡回最終日の夜九時過ぎだった。
「あら? あの子、三沢君じゃない?」
最初に気がついたのは今泉だ。池袋駅のすぐ近くにある喫茶店で休憩を取り、最後に少しだけ辺りを見て終わりにしようという流れになった。店を出てすぐ、今泉が足を止める。
「え、どこですか?」
「ほら、あの子」
今泉が指し示した方角を目で追い、ぎくりとした。
薄暗い路地裏へ、三人の若者が妙な足取りで向かっている。二人の男が真ん中の少年を両脇から挟み、強引に建物の隙間へと連れて行こうとしていた。挟み込まれているのは確かに三沢友二だった。薄手のパーカーにジーンズ姿というラフな格好をしてはいたが、自分の生徒を見間違えるはずがない。
「なにか様子がおかしかったわね」
隣で今泉が青褪めた声を出す。
「ええ……ちょっとやばいかもしれないですね」
自分の声が情けなくも震えているのが分かった。けれど見過ごすわけにもいかない。今見た光景は明らかにきな臭かった。何かよくないことが起きているのは間違いないだろう。
「俺が見てきます。今泉先生はここで待っていてください」
女性には危険すぎる。だが今泉は首を横に振った。
「ダメよ。一人じゃ危ないわ」
今泉の言葉を聞きながら、もう一度路地を見る。三人の姿は既になかった。
「そんな悠長なこと、言ってられませんよ」
「待って、夏井君っ!」
爽太は今泉の制止を振り切って駆け出した。点滅していた信号を渡り、三人が消えた路地へと飛び込む。埃に塗れた室外機と悪臭を放つゴミバケツの群れを避けながら奥へと進んだ。三人の姿はどこにもない。見失ってしまったのだろうか。
(待て。落ち着け……この道に入って言ったのは間違いないんだ)
まだそう時間も経っていない。
路地の奥へ奥へと進むにつれ、街の喧騒が遠のいていく。こういう場所は危険だ。背中にじっとりと嫌な汗が滲む。
「何でもするから――」
か細い声が聞こえた。震える涙声は間違いなく友二のものだった。声の方向に急ぐ。
いた。細い路地の先、ほんの少し開けたその場所で、友二は壁際に蹲っている。彼を見下ろすようにして、二人の若者が下卑た笑い声を上げていた。茶髪と金髪の二人組みだ。金髪の方が友二の髪を引っ掴んで乱暴に立ち上がらせている。
「ならさっさと金出しなよ。痛いの嫌だろ?」
友二は痛みに顔を歪め、泣きじゃくっていた。着ている服は既に泥と埃に塗れ、乱雑に乱れている。それを目の当たりにした瞬間、途轍もない怒りが湧き起こった。
今時、中学生を相手にカツアゲなんて。
「おいっ!」
後先も考えず声を荒げる。三人の視線が一斉にこちらを向いた。
「その子を放せよ」
怯んでいる暇はなかった。一歩前に進み、若者たちに命じる。とにかく友二を助けなければ。頭にあるのはその思いだけだった。
「誰だてめぇ」
「このガキの知り合い?」
薄ら笑いを浮かべた金髪が友二を放り出し、ゆっくりと近づいてきた。自分と同じくらいの年齢だと気づいた瞬間、全身から血の気が引く。見覚えのある顔だった。
「野口……」
「あれ? お前どっかで……あ」
相手も自分に気づいたらしく、僅かに目を見張った後で、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「なぁんだー。誰かと思ったら、そーた君じゃん」
爬虫類を思わせる粘っこい瞳が獰猛な光を湛えていた。獲物を見つけた捕食者の視線を受け、足元から震えが込み上げる。
「久しぶり。懐かしいねぇ?」
野口航大(こうだい)は、にやけ顔のまま一歩ずつ近づいてきた。
(どうして……こいつがここにいるんだ)
知らず後ずさりしながら爽太は胸の裡で呆然と呟く。かつて自分を苛んだ仇敵が、どうしてここにいるのか。
「なんで、お前が……」
二度と会いたくなかったのに。
「それはこっちの台詞ってやつだよ、ねっ!」
「っ……ぁ」
不意を突いて腹を蹴られ、思わず地面に膝をついた。目の前が暗くなり、息もまともにできない。
「夏井先生っ!」
友二の叫びを耳にして、何とか目をこじ開けた。野口が声を上げて笑う。
「先生? マジか。超ウケんだけど」
「こいつお前の知り合い?」
爆笑している野口に、茶髪の男が問い掛けていた。
「そーそー。中学ん時のどーきゅーせー。だよね」
二撃目も腹だった。こいつはいつも、執拗に同じところばかり蹴ってくる。
「オレさぁ、学校で苛められてたんだわ。クラスの強い奴らにさぁ。んでも、こいつが助けてくれてさ」
歪な笑いを含んだ声で野口は言う。
「『やめろよ、かわいそうだろ』って。……マジ何様?」
急に声が低くなった。ヤバイ、と感じたときには既に胸倉を掴み上げられていた。強引に立たされた後で、腹部に重い一撃が加えられる。間髪いれず、何度も殴りつけられた。楽しげな笑い声に釣られたのか、途中から茶髪の方も参加してくる。
「ムカつくんだよ、お前さぁ」
抵抗、できなかった。とっくに心が諦めてしまっているらしく、もはや痛みも感じない。あの頃に戻ったような気分で地面に転がった。脇腹を蹴られ、声にならない呻きが漏れる。
「先生っ……」
引き攣れたような悲鳴を上げる友二を見つめ、口を動かした。逃げろ。今なら逃げられる。
(せめてお前だけでも、逃げろ)
こいつらは容赦を知らない。他人を痛めつけることに喜びを見出してしまう人間は、相手が完全に壊れるまで決して満足しないのだ。
伝わったのかどうか、友二が立ち上がり、駆け出していく。
「おい待てゴルァ」
茶髪が声を上げて追いかけようとするが、
「いいよ、あんなの。それよりこいつで遊ぼ」
野口がそれを止めた。既にこの男の視界には自分しか入っていないらしい。
友二が路地から消えていく。その後ろ姿に安堵しながらも、胸中には絶望が広がり始めていた。
自分は一人だ。誰も、助けなんか来ない。
「お前さぁ、オレらがあの後どんだけひどい目に遭ったか知ってる? 知らないよねぇ?」
鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌で、野口は自分を見下ろす。髪を掴まれ、強引に目を合わせようとしてきた。
「警察は来るし、学校中が大騒ぎになったんだよ? 誰だっけ……そーそー、担任の安浦(やすうら)もさぁ、ちょーかい免職? になったらしいし」
野口の言葉が耳を素通りしていく。シャツのボタンが引きちぎられ、急速に心が死んでいくのを感じた。
また、あの時と同じだ。辱められ、踏み躙られているのに、抵抗することもできない。無力な自分を恥じながら、爽太は身体の震えを止めようと躍起になっていた。
「マジックないよなぁ……あ、これでいっか」
野口がポケットから何かを取り出す。その手に握られた小さなナイフを見て、ようやく正常な感情が湧き起こった。
「い、嫌だっ! やめろ……っ」
恐怖が全身を駆け巡る。そんなもので文字を刻まれたら、きっと一生残るだろう。
「やめて欲しい?」
嗜虐的な微笑みを向けられた。無駄と分かっていても頷いてしまう。
「やめて、くれ……何でもするから……それだけは……」
二人が爆笑した。
「生徒と同じこと言ってるし。そーた君、それでも先生ですかぁ?」
噛み締めた奥歯が鳴る。どれだけ嫌がってもやめてくれるような男ではないと思い出した。
「ノブ、ちょっと押さえてて」
ノブと呼ばれた茶髪の男が命じられるまま自分を後ろから羽交い絞めにしてくる。せめてもの抵抗と身を捩るが、野口の左手が喉を強く抑えてきた。もう逃げ場などない。
「何て書こうかなぁ」
鈍く光を帯びたナイフの切っ先から目を逸らす。いっそ一思いに殺して欲しいとすら思った。
こんな恐怖を味わうくらいなら。
「いい顔するじゃん。サイコー」
きつく目を閉じた自分に野口が言う。人はどこまで残酷になれるのだろう。
(誰か……っ)
誰でもいい。誰でもいいから助けて欲しかった。
冷やりとした金属の感触に息が詰まる。予想していたより痛みが少ないと思った瞬間、
「おい何だよてめ」
野口が声を荒げた。言葉の途中で鈍い声を発したかと思うと、そのまま地面に倒れ込んだ。呆気に取られたのか、ノブの拘束が緩む。
「コウ!」
「ってぇ……何すんだてめぇっ!」
自分の前に、誰かがいた。長く黒いその影を呆然と見上げ、息を呑む。
「な……んで?」
悠然とした仕草でナイフを拾い上げたその人物は、自分の背後を睨みつけていた。
「そいつを放せ」
久古は低く命じる。
一瞬、その場にいた誰もが怯んだ。全身から怒気を滲ませて、久古が一歩こちらに近づく。ノブが怖気づいたように自分を突き飛ばし、久古から距離を取った。
「え、あんた、久古じゃ……」
呆気に取られたような声で野口が言う。
「黙れ」
久古は端的に呟いて、野口の顔面を蹴り飛ばした。容赦のない一撃を受けた野口が呻きながら地面に転がる。久古はすぐさま野口の胸倉を掴み、強引に立ち上がらせた。
「きょ、教師がこんなことしていいのかよっ?」
口や鼻から血を流した野口が怯えながら訴える。その言葉を聞き、久古が薄っすらと口元に笑みを浮かべた。
「お前はもう俺の生徒じゃないだろう」
野口が瞳を凍りつかせる。久古の熾烈な怒りを真っ向から受ければ、誰であっても竦みあがってしまうだろう。
ただ呆然と見ていただけの自分ですら、今の久古を怖いと思った。
「二度と俺の前に現れるな。殺されたくなければな」
久古は青褪めた野口を突き放し、再びノブに視線を向ける。
ノブは怯えた視線を久古に向け、野口と見比べた後でそっと後ずさりした。そのまま背を向けたかと思うと、慌てて駆け出す。
「ま、待てよノブ! おいっ!」
見捨てられた野口が慌てて立ち上がり、その背を追い掛けて行った。
逃げ去っていく二人を冷めた目で見送り、久古がナイフを放り捨てる。それから静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「大丈夫か?」
しゃがんで視線を合わされ、思わず顔を背ける。
「すみ、ません……平気です」
無様なところを見られてしまった。はだけたシャツを搔き合わせ、身体の震えを誤魔化しながら口を開く。
「……何でここが分かったんですか?」
こんな場所には、誰も来ないと思っていたのに。
「三沢に聞いた」
久古は端的に答えた。その名前を耳にし、弾かれたように顔を上げる。
「あの子、無事なんですかっ?」
路地の先へと消えていった友二がその後どうなったのか、完全に意識から抜け落ちていた。無事だと久古が頷き、胸を撫で下ろす。
友二は路地を抜けた先で久古と中村に会ったらしい。取り乱す彼から事情を聞いた久古がこの場所を聞き出し、駆けつけたのだと言う。
「そ……か」
何にせよ、友二は無事なのだ。そう安堵しても、恐怖感は消えなかった。
もし久古が来てくれなかったら、自分はどうなっていただろう。消えない傷を切り刻まれて、下手をすれば殺されていたかもしれない。そう感じてしまうほど、野口の目は荒んだ悪意に満ちていた。
「っ……」
身体が震え、奥歯が鳴る。
「――大丈夫か?」
久古の手がそっと肩に触れてきた。
「ごめ、俺……っ」
堰を切ったように涙が溢れ、見られまいと俯いた。こんなことで泣くなんて、あまりにみっともない。理不尽な暴力に晒されて、蹲っていただけの自分に、泣く権利などないのに。
自分の足で立ち上がることもできなかった。ただただ相手を恐れ、這いつくばっていただけだ。これでは八年前と何も変わらない。
「泣くな、爽太」
諭すように名を呼ばれ、がむしゃらに首を振る。もはや嗚咽すら隠せない。
「俺っ、あんたと約束、したのに……」
強くなると誓ったのに。それを裏切り、また助けられてしまった自分が許せない。
「こんな、弱くてっ……ほんと、ごめ――」
言葉ごと唐突に唇を塞がれ、続きが言えなかった。触れ合った唇の柔らかさに目を見開き、硬直する。それは一瞬の出来事で、気づけば久古の腕の中に抱きすくめられていた。
「爽太」
きつく抱き締められたまま、耳元で低く名前を呼ばれる。
「――お前は弱くない」
懐かしいと感じるその力強さに混乱し、目を閉じて久古の胸元に縋りついた。乱れる感情を持て余して唇を噛み締める。
久古の腕がさらに強く自分を包み込んできた。吐息交じりの声が耳朶を打つ。
「三沢友二を守ったのはお前だろう。自分を誇りに思え」
「っ……」
「お前は弱くない」
労わるようなその言葉があまりに優しく聞こえ、爽太はひとしきり久古の胸で泣きじゃくった。
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