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久古の手だけは。
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◇
ふと目を覚ます。懐かしい夢を見ていた気がする。爽太は寝ぼけた頭でぼんやりと辺りを見回し、見慣れない内装に首を傾げた。しばらくしてはたと気づく。
「ああ……そっか」
ここは久古の家だ。ベッドサイドの関節照明がついているだけの薄暗い空間に奇妙な安心感を抱いて息をついた。
路地裏であったことを思い出し、唇を噛み締めて枕に顔を埋める。あの後どうやってここまで連れてきてもらったのか、よく覚えていない。おぼろげながらシャワーと着替えを借りた記憶はあるが、いつ眠ったのだろう。
気だるい身体を無理に起こし、痛みに顔を歪める。蹴られ、踏みつけられた腹部が鈍痛を訴えていた。借りたパジャマのボタンを外し、恐る恐る怪我の具合を確認する。幸い、軽い痣程度で済んだようだ。ナイフで付けられた傷も大して深くはない。
あの時、もしも久古が来てくれなかったら、こんなかすり傷では済まなかっただろう。そう思うとぞっとする。再び蘇った恐怖感に身体が震え、きつく唇を噛み締めた。
小さな物音がして、顔を上げる。寝室の扉が静かに開き、久古が入ってきた。こちらを見て、僅かに目を見張る。その光景になぜか既視感を覚えた。こんなことが、以前にもあったような気がする。
「起きたのか」
久古の口調はいつになく柔らかい。それが却っていたたまれない気分を増幅させ、思わず俯いた。
また情けないところを見られてしまった。
久古の腕の中で大泣きしたことを思い出し、顔が熱くなる。二十二にもなって、なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。
「どうした? 傷が痛むのか?」
久古の視線が自分に向けられている。慌てて首を振り、パジャマの裾を搔き合わせた。傷を見られるのはどうしても嫌だった。
「大したことないですよ」
ボタンを留めながら笑みを繕う。途端、久古が微かに眉をしかめた。不愉快そうな表情で自分を見据える。
「俺に見え透いた嘘をつくな」
鋭い言葉を浴びせられ、身体が強張った。無意識のうちに視線を逸らし、俯く。
どうしても、この男には敵わない。いつだって何もかもが見抜かれているような気がしてならないのだ。自分自身が必死に押し殺そうとしている感情全てを、久古はあっさりと見破ってしまう。
弱いと思われるのは嫌なのに、それすら久古にはお見通しで。こんな情けない自分を久古はどう思っているのか。
小さな溜め息が聞こえた。呆れられたのだろう。そう思い、チクリと胸が痛む。
久古が無言のまま部屋を出て行く。その瞬間に湧き起こった感情は、自分でも理解できないほど切実なものだった。
行かないで欲しい。一人にしないで欲しい。
なぜそんな風に思うのか、これも自分の心が脆弱だからなのか、分からない。
力なく溜め息をついて、パジャマのボタンを掛ける。抱えた膝に顔を埋め、目を閉じた。
久古の腕に抱きすくめられたあの感触を思い出す。決して不快ではなかった。むしろ逆だ。抱き締められた瞬間、凍り付いていた何がしかの感情が急速に溶けていった気がする。
(だからって……)
自分にとって一番安心できる場所があの男の腕の中だなんて、そんなことを認めてしまうわけにもいかない。
あの触れ合いは、久古にとって深い意味を持つものではないはずだ。自分が取り乱していたから、咄嗟にああやって抱き締めてくれたのだろう。あのキスだってきっと……。
唐突に思い出し、目を見開く。気が動転していたせいで忘れかけていた。唇を指先でなぞり、眉をひそめる。
「キス……したよな……?」
掠れた声で呟く。触れた唇の柔らかさを思い出し、頬や耳が異常なほど熱くなった。
(い、いや、あれは違うって!)
慌てて首を振り、その熱を追い払う。あれは事故。そうだ、事故に違いない。意味などあるはずもないのだ。
「あー……」
再び膝に顔を埋め、溜め息とも呻きともつかない声を上げる。余計なことを思い出さなければ良かった。
「まだ落ち込んでいるのか」
呆れた声にビクリと肩を震わせ、顔を上げる。いつの間にか久古が戻って来ていた。湯気の立つマグカップを差し出す久古はいつもどおりの無表情だ。
まるで何事もなかったかのような態度に、若干ムッとする。自分ばかりが振り回されているようで気に入らなかった。
「なにを怒っている」
「別に……」
カップを受け取り、視線を逸らす。久古はベッドに腰掛け、カップの中身を冷ます自分をじっと観察していた。妙に居心地が悪い。
「なんですか」
「……お前、ずいぶん大きくなったな」
ジト目を向けると、久古が真顔で今さらなことを言う。これには思わず吹き出した。
「当たり前だろ。何年経ったと思ってんだよ」
二人きりという空間に気が緩んでしまったのか、先ほど見た夢の続きにいるような錯覚がして口調が崩れた。ハッと久古の顔色を窺ったが、穏やかな視線に咎める色合いはない。
「……俺さ、」
なんとなく視線を逸らし、湯気の立つカップを手のひらで包んだまま言い訳っぽく言葉を探す。
「ほんとは、ずっとあんたに憧れてたんだ……だから、〝ストーカー〟って、あながち間違いじゃないと思う」
「あれは本心じゃない。いちいち他人の言葉を真に受けるな」
あっさりと言われてムッと眉が寄った。それはないだろうと突っ込みたくなる。
「俺、結構傷ついたんだけど」
「だから、悪かったと言っている」
(言ってねぇじゃんか)
どうして久古が不機嫌になるのか。まったく分からない。あの言葉が本心じゃなかったにせよ、再会してからの久古は徹底的に冷たかった。それは事実だ。
その理由を、今なら聞き出せるかもしれない。
「なあ、何であんなに俺のこと毛嫌いしてたんだよ?」
「別に毛嫌いしていたわけじゃないが……」
にじり寄ってまじまじ久古の顔を覗き込むと、諦めたような深い溜め息が返って来た。
「お前が無理に笑っているのが気に入らないかった。なぜそうまでして教師という職を全うしようとしているのかまったく分からん」
その言葉に、知らず肩が下がる。自分が無理に笑っていたことは、久古だけじゃなく他の教師たちにすら見抜かれていたことだ。
「俺、そんなに笑うの下手かな?」
「ああ。少なくとも作り笑いなのはすぐに分かる」
「ああそう……」
間髪入れぬ肯定にますます肩が落ちた。
「お前、なぜ教師になったんだ?」
これと言って感情のこもらない口調で久古が問い掛けてくる。何と答えるべきか迷った。
教師になったのは、いつか強くなった自分を久古に見てもらいたかったからだ。胸を張って久古に並びたかったからだ。けれど今日の出来事があった後では、そんな答えはどこまでも説得力に欠ける。
「やっぱ、向いてないよな」
質問をはぐらかし、薄く笑うことで誤魔化した。久古は否定も肯定もせず、ただ静かな目を向けてくる。
「学校という場所にいること自体が、お前にとっては苦痛なんじゃないのか?」
久古の言葉に目を見張る。自分が無理をして笑っている理由を、久古はそんな風に考えていたのか。
確かに自分にとって学校という空間は、嫌でも過去の忌まわしい記憶を呼び覚ますものだ。体育館倉庫など、未だに入るのが怖かったりもする。けれど。
「それは、別に平気かな」
爽太は久古の問いに否定を返す。学校にいること自体はさほど苦痛ではないのだ。
「確かに、学校じゃ色々あったけど。でも嫌な思い出ばっかじゃないし」
楽しいことは少なかったけれど。自分が生徒だった頃の記憶には、とても忘れられない大切なものもあるのだ。
「そうか」
ならいい、と呟いた久古の横顔を盗み見る。
一体いつから、久古は自分を見ていたのだろう。今、久古は自分をどう思っているのだろう。
知りたいと思う感情に歯止めが利かなくなりそうで、慌てて久古から目を逸らした。温くなり始めたカップに口をつけ、予想外の甘さに目を丸くする。
「これ、ココアじゃんっ!」
思わず叫ぶと、久古がこちらを見て目元を和らげた。
「好きだろう」
断定され、複雑な気分で顔をしかめる。
「す、好きだけどさ……」
なぜそれを知っているのか。まるで、今もまだ子供だと言わんばかりじゃないか。
「あー、もう。あんたが俺をどう思ってるのか、よく分かったよ」
憮然と毒づいてカップに口づけると、不意に空気が和らいだ。
低い声が聞こえ、目を見開く。
久古が笑っていた。口元に拳を当て、面白そうに肩を揺らしている。呆気に取られてまじまじ見つめれば、久古も穏やかな表情を崩さないまま自分を見つめ返してきた。
「お前は本当に分かりやすいな」
「な、何がだよ?」
予想もしていなかった表情を目の当たりにし、不覚にも鼓動が高鳴る。初めて、久古が笑ったのだ。自嘲でもなく、冷え冷えとした蔑笑でもない。こんな純粋な笑顔を見たのは、本当に初めてのことだった。
スッと伸ばされた手に頭を引き寄せられ、目を見張った瞬間、唇を塞がれる。
「っ……!」
食むように唇をついばまれ、呼吸が止まった。ついでに心臓も止まったかもしれない。
一度目のキスは事故で説明がつく。けれど二度目となるとそうはいかない。
「ん……」
喉の奥で声が絡まる。息継ぎに薄く口を開くと、温かな舌が滑り込んできた。未知の感触に慄き身を引こうとするが、久古の手は強く自分の頭を抑え、逃げるに逃げられない。
「んっ……! っ……んん……っ」
縮こまった自分の舌を追い回すように、さらに深く舌が絡みついてくる。まだ中身の入ったカップを落とすまいと強く握り締めれば、久古が空いた手で器用にそれを奪い上げた。その間も唇は塞がれたままだ。
(なんだこれ……ヤバイ、かも……)
ねっとりと絡みつく舌の感触に目を閉じる。あまりの快感に意識が薄らぎ始めた。溺れそうだ。きつく吸い上げられ、甘く噛まれても、痛みなどまるでない。ただただ気持ちいいだけだ。こんなことはありえないはずなのに。
「っ……は」
ようやく開放され、荒れた呼吸を繰り返す。頭を押さえつけていた手のひらが、優しい動きで髪を撫でてきた。
「不慣れだな。初めてか?」
からかうような声に聞こえたのは被害妄想だろうか。爽太は熱のこもった顔を背けて呟く。
「……悪いかよ」
ずっと、他人に触れられるのが怖かったのだ。恋愛経験などあるはずもない。キスはおろか、異性と手を繋いだことすらなかった。
それがどうして、同じ男である久古とキスをして、あろう事かどぎまぎしているのだろう。気持ちいいなんて思ってしまったのだろう。
他人と触れ合うことが怖いはずなのに、なぜ久古だけは平気なのか。深く考えてしまえば、とんでもない結論に辿り着きそうで、慌てて思考を振り切った。
「……何でキスなんかすんだよ」
視線も合わせられず、咎めるように問い掛ける。このキスに意味などない。あってもらっては困る。久古は低く笑い、スッと顔を寄せてきた。
「嫌か?」
問いに問いで返すのは卑怯だ。答えられず顔をしかめた。久古の視線を感じても、顔を上げられない。
どんな顔をしろと言うのだ。
嫌か、と問われれば、決して嫌ではない。だがそれを素直に認めるのには抵抗がある。
認めてしまえば、もう戻れないのだ。久古だけが特別である理由。薄々気がついている自分の感情に、名前をつけてしまいたくない。
「爽太」
その低い声で名前を呼ばれれば、ただそれだけで感情が溢れる。もっと、触れて欲しい。そんな風に思うのは久古だけで。
久古の手が自分の顎を捉え、そっと上を向かされる。視線が合うと、ほんの僅かな期待を見抜かれてしまったらしい。久古の瞳は柔らかな色を帯び、何の確認もなく再び深く口付けて来た。貪るようなキスの快感は先ほどの比ではない。
「んっ……ぁ……っふ……んっ……」
溶けるような快感に圧倒され、気づけばいつの間にかベッドに押し倒されていた。
「ぅあっ……」
甘く首筋に噛み付かれ、思わず声を上げる。つま先から快感がせり上げ、堪らず身を捩った。ふと動きを止めた久古の手が、しばしの間をおいてパジャマのボタンを外しにかかる。
「や、やめ……」
傷だらけの身体を見られるのは嫌だと慌てて首を振った。けれど久古はそんな自分を無視して、上着の前を完全に開けてしまう。
「……痕になったな」
僅かに眉をひそめた後で、久古が呟いた。声に確かな怒りが滲んでいる。
(あんたがそんな顔することないだろ)
せっかく笑っていた顔が、自分のせいで再び硬くなってしまった。その事実に、いたたまれなさから目を瞑った。
「まだ痛むか?」
少し冷たい指先が傷痕を撫でる。
「ん、別に……痛くは、ない、けど……」
それよりもくすぐったい。そう訴えると久古は薄く微笑み、傷になった部分にそっと口づけを落としてきた。慰めのような愛撫に胸が詰まる。
こんな風に優しく触れられたことはない。久古以外の誰にも。
「っ……ぁ」
熱い舌先が傷跡を丁寧に舐め上げ、ゾクゾクと背筋が震えた。下半身が疼くのを止められない。
「も、やめ……ろって……なんか、変……っ」
首を振って訴える。久古が見抜いたとおり不慣れなのだ。そんな風に刺激されては耐性のない劣情が反応してしまう。既に硬くなり始めた自身のそれを気づかれまいと身を捩るが、久古はそんな自分の両腕をまとめて上げて枕に縫いつけ、脚の間に身体を滑り込ませてきた。
「ぁ……っう」
膝頭でそこを突かれるともう隠せはしない。せめて羞恥に染まる顔だけは見られまいと腕の拘束をもがくが、久古の力がそれを許さなかった。
「身体も素直だな」
苦笑を含む声で囁かれる。
「う、うるさい……っ! あんたが変なことするからだろっ!」
首筋まで熱くなりながら抗議すると久古が穏やかな瞳を向けてきた。そこに隠れた熱情を察し、ドクリと心臓が震え出す。
今日の久古はやけに表情が豊かだ。この男にもちゃんと感情がある。当たり前なのに、それを目の当たりにすると心が疼いて仕方ない。
もっと、笑って欲しい。この男の心を知りたい。
「久古、せんせ……っ」
呼び掛けると唇を軽く塞がれ、言葉を塞き止められた。
「――貴彰だ」
低い声で囁いた久古が喉元に吸い付いてくる。そう呼べと厳命されたような気がして、思わず喉をそらせた。
「た、かあき、さ……っぁ」
滑らかに肌を滑っていた久古の指先が、胸の尖りを捉えて悪戯のように軽く摘んできた。
「うぁっ……、それ、嫌だ……っ」
痺れるような快感に堪らず声を上げる。久古は聞いていないのか、ぐりぐりと指の腹でそこを刺激し続けていた。
「あ……っんぅ……」
ますます昂ぶっていく自身をどうすることもできず、爽太はきつく唇を噛んで声を殺す。
「切れるぞ」
優しく囁いた唇が素肌を掠め、腫れ上がった乳首に吸い付いてきた。
「ぅあ……ッ――」
眩暈がするほど凄絶な快感だった。たったこれだけの愛撫であっけなく達し、目頭に涙が滲む。
直接触れられてもいないのにイってしまった。その事実が衝撃的で、しばし呆然としてしまう。
滲んだ涙を舌先で掬い、久古が手の拘束を解く。久古はそのまま寄り添うように横になり、息を切らす自分をそっと抱き包んできた。
この腕の逞しさに、一体何度救われてきたのだろう。
全身から力が抜け、訪れた睡魔に目を閉じる。
「眠いのか?」
「ん……」
囁く問いに頷き、久古の胸に額を擦り付けた。
久古に触れられると無条件で安心してしまうのだ。その理由は分かっている。
久古の手は決して自分を傷つけないと、絶対に痛みを与えてこないと知っていた。だから――。
もっと触れて欲しいと思ってしまうのだろう。
「なら寝ろ」
久古が穏やかに自分の背中を撫でる。
「全て、忘れてしまえ」
その声はどこまでも甘く優しいのに、なぜかほんの少し痛みを感じさせるものだった。
忘れろなんて。
(そんなことできるかよ……)
胸中で反論しながら、爽太は緩やかに眠りの中へと落ちていった。
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