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未熟な自分にできること
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◇
六時限目の授業が終わり、教室を出ようとしていた時のことだ。
「夏井先生、ちょっといいですか?」
思いつめたような表情で土井菜月が話し掛けてきた。
「どうした?」
「あの、芦田君のことなんですけど……」
菜月は言いにくそうに口を濁す。爽太は驚いてまじまじと菜月を見つめた。
「芦田君がどうかしたのか?」
芦田陸斗のことを口にする生徒はあまり多くない。最近になって時折授業にも参加することが増えてきた陸斗だが、やはりどこかクラスの中でも浮いた気配があった。
最初はいじめではと疑ってしまったが、よくよく観察してみれば、明らかに陸斗の方から他人を拒絶している。話し掛けても返答は最低限で、笑顔一つ浮かべないのだ。以前は仲が良かったという三沢友二も彼の変貌ぶりには困惑しているらしく、次第に話し掛ける頻度も減っていた。他の生徒も同様だ。
皆、意図的に陸斗を避けているわけではない。ただどう接すればいいのか分からず、遠巻きにするしかないのだろう。
「私、今朝たまたま早く目が覚めて」
たどたどしく菜月が話し出した。冷え込みのきつい朝に、自転車のブレーキ音が響いて目が覚めたのだと言う。
「新聞配達の人だって、すぐに分かったんです。どうせ目が覚めたから受け取ろうと思って外に出たら……」
続く菜月の言葉に爽太は絶句した。その配達員が芦田陸斗だったというのだ。
確かに新聞配達は中学生でもできるバイトの一つだが、それは原則として夕刊配達のみに限定されている。中学生は法律上、午後八時から午前五時までは労働できない規則だからだ。だが。
菜月が陸斗に会ったのは、まだ朝と呼ぶにも早い午前四時過ぎだったと言う。
「『バレたらまずいから誰にも言うな』って言われたんですけど、やっぱり……」
菜月の葛藤は理解できた。同じクラスメイトとしては口を噤んでおきたかったのだろう。けれど彼の異常な痩せ具合や顔色の悪さを見れば、誰だって心配の方が先に立つ。
なんにせよ、この話は聞き捨てならない。
「話してくれてありがとう」
不安そうな瞳に微笑みかけた。彼女が教えてくれなければ、自分はこの一件を知ることができなかっただろう。勇気を振り絞って話してくれたことに心底感謝する。
「君から聞いたことは誰にも言わないから安心してくれ」
そう言うと菜月はほっとしたように表情を和らげた。
菜月と別れて職員室に戻り、深々と椅子に座り込む。どうしたものか。
本人に事実確認しようにも、陸斗は既に帰宅してしまっているし、仮に残っていたとしても直接問うことはできない。陸斗は聡いから菜月が告げ口をしたと一瞬で気づいてしまうだろう。
「うーん……」
だからと言って先に菊谷にこの件を話すのも気が引ける。間違いなく時期尚早だ。
きちんと事実を確かめてからでなければ、菊谷はまず動かない。いや、あの男のことだ。下手をすれば事実を突きつけたところで笑うだけかもしれない。
『なんの問題があるってんだ? 働きたいガキは働かせときゃいいんだよ』
容易に想像できる菊谷の台詞を脳裏に浮かべ、顔をしかめる。自分の身に問題事が降りかかるのを嫌うあの教師には、責任感など皆無に違いない。
芦田陸斗の家庭訪問ですら、あからさまに面倒がっていた男だ。あんな教師には何を言っても無駄だろう。それを分かっているから、菜月もあえて菊谷ではなく、自分にこの件を託してくれたのかもしれない。
だが自惚れてはいられなかった。
不登校の原因がいじめではなく、もしも家庭内にあったとしたら。もはや一教師が迂闊に踏み込めない領域の問題になってくる。
いっそのこと久古に相談してみようか。そんな考えが頭をよぎり、すぐさま首を振って追い払う。
(そんな簡単に甘えてどうするんだよ)
自分は教師として未熟だ。できることは少ないし、知恵も足りない。それは認める。けれど、だからと言って最初から他人に頼り切りになるわけにはいかないのだ。
早く一人前の教師になって、堂々と久古の隣に並びたい。自分にできることを自分の頭で考えなくなったら、人の成長は止まる。
(俺にできること……何かないのか)
せめてそれを見出し、問題の糸口くらいは掴んでからでなければ、久古にこの一件を相談することはできないだろう。
何はともあれ、事実確認が先決だ。だが本人に直接問い詰められない以上、思いつく手段は一つしかなかった。
明日は土曜だが、朝刊の配達はあるのだろうか。
気になってネットで調べると、明日も朝刊は出るらしい。
「よし」
そうとなれば、今日はさっさと帰るべきだ。
爽太は猛然と机にかじりつき、今日中に終わらせなければならない小テストの採点に取り掛かる。二学年、合計百二十五名分の採点は思う以上に重労働だ。しかも現代文のテストでは、生徒が自分の言葉で回答欄を埋めるため、他の教科に比べて正誤の判別が容易ではない。模範解答と照らし合わせて、必要語句が全て含まれていれば正、少し足りなければそれに応じて減点、まったく含まれていなければ誤、といった具合に、一つひとつの採点に一切気が抜けないのだ。
「ずいぶん熱心だな」
周囲が見えないほど集中していた自分に、淡白な声が掛けられた。プツリと集中が途切れる。しょぼつく視線を上向ければ、久古と目が合った。無言で湯気の立つマグカップを差し出され、おずおずと受け取る。
「……ありがとうございます」
礼を言い、カップに口をつけた。飲む前から分かってはいたが、やたら甘いカフェオレだ。疲労が蓄積した脳に糖分が回り、心なしか身体が軽くなったような気がする。ほっと息をつく自分に、久古がふと顔を寄せてきた。
「今日も来るだろう?」
「あー……」
カフェオレの温みと久古の言葉が混ざり合い、サッと頬に熱がこもる。ここ数週間、週末は久古の家に泊まるのが日課になっていた。もちろん、そういうことをする前提で。
だが明日はどうしても、やりたいことがある。
「明日はちょっと……予定があって」
意味もなくカップを見つめ、もごもごと言葉を濁した。今はまだ陸斗の件を話せないため、追及されると困る。
「そうか」
久古は端的に頷いたが、僅かに声のトーンが落ちていた。こちらから久古の誘いを断るのは初めてのことだ。罪悪感に近い何かが胸を刺し、慌てて小声で付け足す。
「に、日曜日は行く……かも」
窺うように久古を見上げると、久古は微かに目を細めた。穏やかな瞳には、自分にしか分からないような笑みが宿っている。言葉はなくても、ちゃんと伝わってきた。
『待っている』と、久古はそう言ったのだ。無言のまま去っていく背中に一抹の寂しさを感じながら、机の上の再生紙に意識を戻した。
朝刊の配達が行われるのは早朝三時前後からだ。深夜近くになってようやく採点が終わった爽太は、一旦家に戻り、スーツから私服に着替えて再び外へ出た。結局一睡もできていない。
「うう、寒い……」
斬りつけるような寒空の下で身体を震わせ、かじかむ手に息を吹きかける。せめて手袋くらいして来ればよかった。
身を隠した電柱の陰から縮込めた首を巡らせ、芦田陸斗の自宅を盗み見る。どの窓も真っ暗で電気一つ点いていなかった。ちらりと腕時計に目を落とすと、午前二時四十分を回ったところだ。
(さすがに今日は休みなのかもな)
だとしたら完全に待ちぼうけだが、ここまで来た以上はもうしばらく待ってみようとコートの襟を立て、両腕で身体を搔き抱いた。
今日一日、陸斗を尾行する。そのつもりで朝とも言えないこんな時間に不審者まがいの待ち伏せをしているのだ。いや、どう見たって今の自分は不審者だが、陸斗の私生活を観察するにはこれ以外の方法を思いつけなかったのだから仕方ない。
自分がもう少し賢ければ、もっと違う手段を思いつくことができただろうに。自らに苦笑しつつ、再び芦田家の玄関先に目を向ける。
微かな物音がした。続いてゆっくりと玄関の扉が開く。
(来た)
内心ガッツポーズを取りたい気分で、現れた陸斗を見つめた。陸斗はパーカーにスウェットという薄着のまま、無造作につま先を打ちつけながらスニーカーを履いている。目深に被ったフードのせいで顔は見えなかった。
だがその体型や、一人っ子であるという事実を見れば彼が芦田陸斗なのは間違いない。
肩に下げたスポーツバッグを重そうに抱えなおし、気だるい足取りで歩き出した陸斗を追う。距離を詰めすぎないよう細心の注意を払った。
陸斗が向かったのは彼の自宅から徒歩十五分圏内にある新聞屋だった。
「おはようございます」
掠れ気味だが芯の通った声で挨拶を口にし、陸斗は店の中へと入って行く。やはり早朝のバイトは事実だった。これが法に抵触していることを、陸斗やここの従業員は承知しているのだろうか。
遠巻きに明るい店内を眺める。忙しなく行き来している従業員の中には十代と思しき者は陸斗の他に一人もいない。
しばらくすると陸斗が朝刊の束を重そうに抱えて外へ出てきた。少々乱雑に並んだ自転車の一つ一つに新聞を積み込んでいく。それが全て終わったかと思うと、陸斗は店内に一声掛けてから自転車に乗り込んだ。
時刻は午前三時三十分ちょうど。さすがに徒歩で自転車を追うわけには行かないので、陸斗が戻ってくるまで待つことにする。とは言っても、ただ呆然と待つ手はないが。
陸斗の姿が完全に見えなくなるのを待って、爽太は店へと近づいた。
「すみませーん」
忙しそうな店内に声を掛ける。店内には刷りたての新聞の匂いが充満していた。なんとも言えない独特な香りに鼻が刺激される。
「はいはい、なんでしょう?」
禿頭の中年男が音速の勢いで振り向いた。人のよさそうな笑みとボールのように丸いビール腹がどことなく七福神の布袋を思わせる。
「何か御用でしょうか?」
口調も温和で、見たままの柔らかさだった。
この人なら話しやすいだろうと判断し口火を切る。
「あの、さっき配達に向かった少年のことでお聞きしたいことがあるんですけど」
だがそう言った瞬間、布袋さながらの微笑みが消失した。一転して、外気よりも凍てついた警戒のまなざしを向けられる。
「教育委員会の方? それとも警察でしょうか?」
「い、いえあの……」
一瞬言葉に詰まる。なんとか学校の副担任であることを伝えると、心なしか相手の警戒が薄れた。
「まあ、立ち話もなんですからどうぞこちらへ」
鷹塚(たかつか)と名乗った男に店の奥へと案内され、簡易な応接ソファに腰を下ろす。
「芦田君がここに勤め始めてどのくらいですか?」
「そうですねぇ……もう半年になりますか」
感慨深げに答えた鷹塚は禿頭をタオルで拭いながら深々と溜め息を零した。
「いやね、私どもも、あの子に朝刊を配達させるのはマズイって分かってはいるんですよ」
鷹塚は後ろめたいのか視線を逸らしたまま、困窮した声で言う。
「でもねぇ……『どうしてもお金が必要なんです』って食い下がられちゃ、断る方が難しかったんですよ」
そこから先の話は、爽太にとってある種予想通りのものだった。
芦田陸斗は三年前に母親を亡くし、今は父親と二人きりで暮らしている。その父が半年ほど前に会社をクビになったことは、最近になって今泉や白川から聞いていた。金銭的に追い詰められ、借金が膨らんでいるという話も事実だったようだ。
陸斗が違法と承知で朝刊の配達をしているのは父親のためなのか。
爽太は無意識に膝の上で強く拳を握り締める。そんな複雑な家庭の事情を陸斗はたった一人で背負っているのだ。あの異常な痩せ具合は、毎朝の仕事だけが原因ではないだろう。
(あれじゃ、ちゃんと飯食ってないよな……)
疲れ切ったような横顔を思い出し、眉間に力がこもった。たった十四歳の少年が背負うには重すぎる問題を、陸斗はたった一人で抱えている。誰にも頼れずに。
「芦田君は働き者で仕事の覚えもそりゃあ早かったですよ。今日まで一日だって遅刻も欠席もありませんからね。真面目で優秀な配達員なのは確かですよ」
褒めている口調ではなかった。どちらかというと嘆きに近い。鷹塚は腕を組んでこちらに視線を向ける。
「……けどねぇ、法律的にはアウトでしょう? 分かっているんですよ、そんなことは。でもあの子の必死さを見ているとね、『辞めてくれ』なんて言えなくなります」
「そう、ですよね……」
芦田家が生活に困窮しているのは傍目にも明らかだ。それを察していながら仕事を取り上げるのは死ねと言うようなものだろう。
鷹塚が身を乗り出して真摯な瞳を向けてくる。
「あなた、先生なんでしょう? 何とかしてあげてくださいよ。あの子、日に日に痩せてくし、表情も暗くなっていくんです」
鷹塚はまるで親が子供を心配するような表情をしていた。この人もまた、自分と同じように陸斗を救ってやりたいと思っているのだろう。
何とかしなければいけない。だが、何をどうすれば陸斗を助けてやれるのか。爽太は自分の無力さに臍を噛みつつ、鷹塚に礼を言って店を後にした。
再び外で陸斗の帰りを待つ。二時間ほどして、甲高いブレーキ音が辺りに響いた。時刻は午前六時を少し過ぎた頃だ。
「お疲れ様でした」
律儀に頭を下げた陸斗が店から出てくる。これから家に戻るのかと思ったが、陸斗は自宅とは真逆の方向へと足を向けた。
距離を保ってついて行く。陸斗が向かったのは少し離れた場所にある二十四時間営業のスーパーだった。しばらく観察していたが、陸斗は何を買うでもなくぶらぶらと棚の間を行ったり来たりするだけだ。
三十分以上も意味なく店内をふらついている陸斗を見て、なんだか嫌な予感がした。そしてそういう予感ほど当たるものはない。
陸斗はパンコーナーで無造作に菓子パン一つを手に取ると、ごく自然な動作でそれを鞄に入れた。まだ朝早い時間とあって店員は誰一人陸斗の動きに気づいていない。
「あいつ……」
思わず小声で呟き、出口に向かった陸斗に駆け寄る。
「ちょっと待て」
後先考えず腕を取れば、陸斗が怯えた顔で自分を見た。
「え……夏井先生?」
何でここに、と驚く陸斗の腕を引いて店内に引き戻す。
「今しまった物を戻しなさい」
厳命すると陸斗は顔を歪めて強引に腕を振り解いた。今さらのように手が痺れていることに気づき、ふっと肩の力を抜く。やはりまだ自分は、他人と触れ合うことが怖いままなのか。
陸斗は鞄からパンの袋を取り出して床に放り捨てた。
「ちゃんとあった場所に戻すんだ」
そう言い聞かせても、陸斗は冷めた目で商品を一瞥し、そのまま視線を逸らして店を出て行ってしまう。
「陸斗君!」
追わなければ。そう思うのに、どうしてもその背中を追いかけられなかった。陸斗の背中は小さく、とても寂しげだ。
こんなにも胸が軋むのは、彼の姿がどこかかつての自分と重なって見えるからだろうか。否、あの頑なに他人を拒む横顔や一人ぼっちの背中は、どちらかというと久古に似ている。だからだろうか。
どうしようもなく胸が痛み、溜め息をついてやり過ごす。床に落ちた商品を拾い上げて棚に戻し、店を出た。陸斗の姿はもうどこにもない。
あのこなれた動作を見るに、陸斗が常習的に万引きをしているのは明らかだ。早いところ止めさせなければ、いつか必ず痛い目に遭うだろう。
爽太は痛むこめかみをさすりながら陸斗の家に戻った。陸斗が帰宅している可能性は低いが、一か八かチャイムを押す。
「……鳴らない?」
幾度かボタンを押してみても屋内からチャイムの音は聞こえてこなかった。来客を拒んで意図的に電源を落としているのか、それとも……。
(まさか、電気止まってるんじゃ……)
まだ暗い時刻に家を出た陸斗が玄関の電気をつけなかったことを思い出し、愕然と目を見開いた。
この季節に電気無しでどう寒さを凌いでいるのだろう。
真っ暗な家の中で陸斗がどう過ごしているのか、想像するのも辛い。自分にできることなんてもはや何もないような気がする。
自分はただの教師で。教師にできることなんて高が知れている。
爽太は打ちのめされ、唇を噛み締めて歩き出す。陸斗は今、どこにいるのだろう。せめてどこか暖かい場所にいてくれるといいのだが……。
こんな早朝に開いている場所など、無いに等しい。唯一思い浮かんだ場所に賭け、爽太は歩調を速めた。
朝七時からやっている市立図書館の自習室で、陸斗の姿を見つけた。机に覆いかぶさるようにして教科書に目を落としている。朝早いせいか、自習室には陸斗と自分の姿しかない。
陸斗の真後ろの席に座り、丸まった背中を見つめる。よほど集中しているらしく、陸斗はまったく顔を上げなかった。ひたすら右手を動かし、問題を解いている。今の陸斗には、勉強以外にできることなどないのかもしれない。がむしゃらに集中していれば、それ以外何も考えずに済む。
邪魔をしないようにひたすら待った。二時間程して、陸斗がようやくペンを投げ出す。さすがに疲れたのか、細い溜め息が聞こえてきた。
「ずいぶん頑張るな」
話し掛けるなら今しかない。そう思い、声を掛ける。陸斗はぎょっとしたように振り向いた。こちらの姿を認識した瞬間、うんざりと顔をしかめる。
「もしかして僕をつけて来たんですか?」
「うん、まあ……そうだね」
いったん陸斗の家に戻ったとは言えず、曖昧に頷く。
「教師ってずいぶん暇なんですね」
吐き捨てた陸斗が鞄に教科書を詰め込み始めた。
「帰るのかい?」
「先生には関係ありません。僕のことは放っておいてください」
感情のこもらない声で言い、陸斗が立ち上がる。
(放っておいてくれ……か)
苦々しく胸中で反芻し、目を細めた。自分にもこんな頃があった。誰にも構わないで欲しいと願った時期が。けれど。
「困ってることがあるんだろう?」
放っておくことなんてできるわけがない。小さな背中に追い縋り、問い掛ける。陸斗は僅かにこちらを振り向いたが、その目はどこまでも迷惑そうでしかなかった。
「俺にできることなら何でも言って欲しい」
本心からそう願い、口にする。陸斗は薄っすらと冷たい笑みを浮かべて自分を見上げてきた。
「先生に何ができるんですか? 僕のことなんて何も知らないくせに」
その言葉はまるで刃物のように、深々と心を抉る。何も知らない。確かにそうかもしれないけれど。
「君が朝早くに新聞の配達をしているところを見たよ」
そう言うと陸斗はサッと顔を歪めて俯いた。
「それが何です? まさか、辞めろって言うつもりですか?」
「そんなことは言わない。でも、君だって今のままじゃ辛いだけだろう?」
「知ったような口を利かないでください」
硬い声で返す陸斗の身体が僅かに震えていた。きっと彼はいっぱいいっぱいなのだ。いつ切れるかも分からない細い糸の上でバランスを取っているような気配がする。何か一つでも間違えば、確実に追い詰められてしまうだろう。
その先にあるものは、自分が一番よく知っている。
「君がいくら耐えたって、現状は変わらないと思うよ」
きつい言葉だと自覚しながらも言わずにはいられなかった。陸斗がだらりと垂れ下げた両手を硬く握り締める。もう見ていられなかった。
「おいで」
強引に腕を取り、歩き出す。
「ちょ、なんなんですかっ」
陸斗は焦ったように声を上げたが、構うものか。
図書館を出て、一番近くのファミレスに向かう。陸斗は始終嫌々ながらも大人しくついてきた。
「好きなもの頼めよ」
ボックス席で向かい合い、メニューを差し出しながら命じる。
「……同情ですか」
「そうだよ」
低く唸った陸斗に肯定を返し、自分もメニューを開いた。
「俺もお前と似た時期があった。『他人なんて絶対に信じない。自分ひとりで何とかできるんだ』ってな」
一教師の仮面を脱ぎ捨てて向かい合う。今の自分は彼の副担任ではなく、ただ一人の人間なのだ。陸斗にとっての自分は、ほんの少し年上なだけで、ただの他人でしかない。そう割り切って考えれば、言えることは格段に多くなる。
陸斗は困惑を一瞬顔に浮かべ、唇を引き結んだ。
「お前が求めてるのは同情なんかじゃない。そんなこと分かってるよ。でもな、今のお前を見てるのはこっちが辛い」
「……」
陸斗は震える視線を逸らして俯く。
「自分がどうなってもいいって、思ってるだろう?」
でなければあんな風に堂々と万引きができるわけがない。自分を大切にできない人間は、得てして皆自らを貶めてしまうものだ。
「陸斗」
何も答えない陸斗に声を掛ける。陸斗は俯いたまま肩を震わせていた。泣いているのか、それともまだ堪えているのか。
「……家に帰りたくないと思ったことあるか?」
一番気になっていたことだ。陸斗が父親に何かしらの暴力を――身体的にせよ精神的にせよ――振るわれてはいないか。それを確認したかった。
家庭内の問題というのは、教師が立ち入るには障壁が大きすぎる。
だが現状、陸斗が抱える問題は明らかに虐待の領域だ。中学生の子供を朝から働かせ、食事もまともに摂らせないというのは、どんな事情があったとしても看過できない。否、してはいけない。
「……帰りたいなんて思ったこと、一度もないですよ」
小さな声だった。まるで恥ずべき告白でもするかのような、本当に小さな声だった。
「お父さんに、何かされたり言われたりするのか?」
陸斗は頷かない。ただ緩く首をもたげ、窓の外を見た。
「……うちにはお父さんしかいないの、知ってますよね」
「ああ、知っているよ」
「お母さんが死んじゃったのは、僕のせいなんです」
ぼんやりとした呟きに返す言葉を見失った。どういうことだ?
陸斗は淡々と繰り返す。三年前に母親が事故でなくなったのは自分のせいだと。
その日、陸斗は友達と寄り道をしていたのだと言う。帰りが遅くなった息子を心配し、母親は慣れない車出して探しに行ったらしい。そして事故に遭った。
「僕が真っ直ぐ帰っていれば、お母さんは死ななかった。……全部僕のせいです。お父さんが仕事をクビになったのも」
母親がなくなってから、陸斗の父は変わってしまったという。仕事で入った給料も全て酒とギャンブルに費やし、陸斗のことはまるで眼中になかった。
「お前のせいだって、お父さんが言ったのか?」
信じたくない思いで問うと、陸斗は鷹揚に頷いた。心がどこか遠くに行ってしまったかのような、生気のない瞳をしている。
「学校へ行くと怒られるんです。『お前は逃げる場所があっていいな。飯も食えていいな』って……」
だから一学期丸々、学校に来られなかったのだ。
「……もう、家に帰らないという手もある」
心を刺す痛みに耐えながら、一つの提案をした。
学校に相談すれば、児童相談所が動く。そうなれば陸斗は父親と離れて暮らすことができるし、朝のきついバイトからも、食事の心配からも開放されるだろう。
そう告げると、陸斗の瞳が凍りついた。言葉の意味を噛み締めるように沈黙した後、きつく目を瞑って首を振る。
「……嫌です。そんな……お父さんを裏切るようなこと、したくない」
俯いた顔から涙が落ちた。それを目にして後悔する。これでは却って陸斗を追い詰めただけだ。
「ごめんな……ひどい提案だったよな」
言い繕う自分の声まで震え出す。せめてこの場に久古がいてくれたらよかったのに。彼なら悪戯に感情移入することなく、的確なアドバイスを口にしていただろう。
「でも陸斗、俺はお前の味方だよ。お前が悪いなんて、俺は思わない」
事実、陸斗は何も悪くないのだ。母親が亡くなったのは不幸な事故で、その原因が陸斗にあるとは思えない。陸斗はただ、寄り道をしてしまった。それだけだ。陸斗に責任があるなどと言う人間はどうかしている。
陸斗は鼻を啜り、おずおずとこちらに視線を向けた。頼りなく揺れる瞳は見ていて痛々しい程、真っ赤に充血している。一体どれだけ苦しい思いを抱えていたのだろう。
「とにかく何か食え。何も食べてないんだろう?」
陸斗がコクリと頷き、メニューに目を落とす。その間も拭いきれない涙がぽろぽろとテーブルに落ちていた。
きっと今、陸斗は父親のことを考えている。自分だけ何かを食べることに後ろめたさを感じながら。
どうしてこんな子供が、そんな悩みを抱えなければならないのだろう。あまりに理不尽だ。
殺伐とした怒りが胸中に湧く。どうにかして陸斗を救いたい。そう思った。
誰かを救うなんて傲慢な願いだ。そう分かっていても、これ以上陸斗を放ってはおけない。見て見ぬ振りをするような大人には、教師には、絶対にならないと決めている。
陸斗はずいぶん長く迷った末に、オムライスを指差した。二人で黙々と食事を摂る。
「……ごちそうさまでした」
食べ終わった後で、陸斗は丁寧に手を合わせた。律儀な仕草に感心していると、ようやく落ち着きを取り戻したのか、陸斗は警戒の薄れた瞳を向けてくる。
「先生はもっと……ダメな人かと思ってました」
「ダメってお前な……」
歯に衣着せぬ物言いに眉が下がった。
「だってなんか、頼りなく見えたので……」
陸斗は肩を竦め、申し訳なさそうに続ける。
「若いし、ヘラヘラしてるし、僕のことなんて何も知らないんだろうなって」
「……事実知らなかったもんな」
思わず自嘲が漏れた。子供というのは時に残酷な評価を突きつけてくる。作り笑いを見抜かれるのにはもう慣れたつもりだったが、やはりショックはショックだ。
猛省が必要だなと胸中呟き、陸斗に視線を向けた。
「俺じゃ頼りなくて迷惑かもしれないけど、俺はお前を助けたいと思ってるよ」
本当に伝えたいことは、はっきりと口に出していわなければ伝わらない。それを知っているからこそ、言葉にした。
陸斗は充血した目を見開いてこちらを見つめてくる。今はまだ信じてもらえないかもしれないが、それでもいい。
「忘れないでくれ。つらい時に〝つらい〟って言うのは、弱さなんかじゃないんだ」
それは紛れもない強さで。陸斗にはまだそれがない。このままでは自らを崖っぷちに追い詰めてしまうだろう。かつての自分のように。
陸斗は頷くでもなく、ただ視線を逸らして口を噤んだ。店を出て、陸斗と別れる。
正直家に帰すのは気が進まないが、無理やり引き止めるわけにもいかない。
疲れが出たのか、ガンガンと痛む頭をさすりながら、あまり意識せずに足を動かした。
見て見ぬ振りなどできない。そうは思っても、どうすればいいのか。分からない。どれだけ考えても、答えは出ない。
あれだけの時間一緒にいても、陸斗はまったく笑わなかった。陰の濃い瞳を思い出し、キリキリと心臓が痛む。なんて無力なのだろう。
始終陸斗のことを考えながら歩いていると、いつの間にか見慣れた場所に辿り着いていた。八階建てのマンションを見上げ、唇を噛み締める。どうしてか、久古に会いたくて仕方がなかった。
ほとんど無意識にエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押した。正午を過ぎた今なら、当然久古は起きているに違いない。
寝不足でだるい身体を引きずってインターホンを押すと、久古はすぐに扉を開けた。
「どうした」
珍しく驚いた表情を浮かべる久古に、問答無用で抱きつく。久古は微かに息を呑んだが、ゆっくりと優しい手つきで自分の背中に腕を回してきた。
「……どうした?」
先程よりも柔らかな声が耳朶を打つ。自分を抱き包む腕の力が強くなった途端、涙が溢れた。
「っ……」
心が痛くてしょうがないのだ。今もどこかで苦しんでいるであろう陸斗を思えば。
「俺っ……なんで教師になんてなっちゃったんだろ」
何もできないのに。こんなにも無力なのに。
ふがいない自分を心底呪いながら、爽太はきつく奥歯を噛み締めて嗚咽を殺した。
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