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ゆるやかな弧を描く湾岸線に沿って、白い砂浜がずらりと広がる。
背後には松を主にした防風林、目の前には青い海。やや大粒の砂を蹴り、サンダル履きの少年が、波打ち際へと走り出す。
「海、だーっ!」
少し高めの幼い声を張り上げて、廉が喜びいっぱいに叫んだ。
記憶にある限り、初めての海だという。絵本や図鑑で見たことはあったし、話に聞かせたこともあるけれど、こうして訪れたことはない。
その内ぽいぽいとサンダルが脱ぎ捨てられるのを見て、後ろにいた隆也が「あ、こら」と声を上げたが、廉が立ち止まる様子はない。
きゃあ、と笑い声を上げ、あっという間に波打ち際へと到達し、裸足で波に踏み込んだ。
「つ、めたい」
「当たり前だろ」
何しろ、まだ5月である。
廉も隆也も半袖ではあるものの、海風のせいで暑いという程でもない。
山を流れる川の冷たさに慣れた廉には、大した水温でもなかったが、海水で行水しようという気にはなれないようだ。
「砂、動く」
「そりゃ波があるからな」
隆也の答えを聞いて、ふひっと笑いながら振り向く廉。可愛い伴侶の満面の笑みを見て、隆也も整った顔を緩める。
「何か、ニオイ、する」
とつとつとそう言って、廉は両手を思い切り広げ、潮風を大きく吸い込んだ。その幼い仕草を見守りつつ、隆也は大きな手で廉の頭を優しく撫でた。
「広い、ねー」
「そーだな」
「そ、空も、広い」
山暮らしな廉の正直な感想に、「ああ」と答えて微笑む隆也。
鬼として長い時を生きて来た彼にとって、廉と共に過ごした山での日々は、ほとんど一瞬にしか過ぎない。けれど廉の一言一言は、真っ暗だった隆也の心に光を灯す。
かけがえのない伴侶の無邪気な様子に安らぎを感じつつ、隆也は少年と一緒に水平線に目を向けた。
広い湾の向こうには、工場の煙突が小さく見える。
朝は潮干狩りをする者たちでごった返すだろう浜辺も、潮の満ちた午後はひと気もない。
きゃっきゃっと笑い声を立てながら、波と遊び始めた廉を眺め、隆也はまた周りに視線を巡らせた。
隆也の本性は、鬼だ。人知を超える力を持ち、風の速さで走り、鷹よりも遠くを見渡せる。人の姿を借りた今でもその力は健在で、静かに存在感を放っていた。
隆也が廉を海に伴ったのは、廉にせがまれてのことだった。
節分の頃、イワシについての話をしたのを、まだ覚えていたらしい。
「海、いつ行く?」
遠慮深げにこっそりと尋ねられ、隆也が破顔したのは勿論の事だ。
廉は幼い頃に両親と死に別れ、厳しい祖父の家でしばらく孤独に暮らしていた。その頃の名残か、何かをねだったり、ワガママを言ったりということが苦手なようだ。
隆也の愛情を一身に受け、最近は少しずつ自分の希望を口にするようになってきたが、年頃の子供たちに比べると、まだまだ遠慮深く、引っ込み思案なことには変わりない。
その廉から告げられた「海に行きたい」という気持ちに、隆也がすぐにでも応えようと思ったのは当然だった。
鬼の脚力をもって駆ければ、海などそう遠いこともない。
海に近くなると人の目も多く、山でのように全力で走ることはできなかったが、それでも朝に山を出て、午後には海に着くことができた。
今日は近くの宿に泊まり、明日の朝、廉と潮干狩りを楽しむ予定だ。
「見て、貝、拾った」
小さな桜色の貝殻を拾い、廉が隆也の元に駆け戻る。
「ああ、キレーだな」
隆也が誉めると廉はこぼれるように笑って、「もっと探す」と砂浜を駆け出した。走っていては貝殻を見つけにくいと思うのだが、そんな意識はないようだ。
楽しげに波を蹴り、砂を蹴って、白い砂浜を駆け回る廉。そんな廉を優しく見守りつつ、隆也は廉が放り出したサンダルをやれやれと拾い上げた。
貝殻を見つけるのが目的ではないのだから、廉が楽しければそれでいい。
思えば、こんな穏やかな気持ちで海辺に立ったこともない。
人に化け、人に混じり、人の側で働きながら、多くの年月を過ごして来た隆也だったが、鬼である本性は隠しきれず、ずっとどこか恐れをはらんだ目を向けられていた。
今でもそれはきっと変わらないのだろうが、廉がいるだけで孤独な心が癒される。
隆也を「怖くない」と言ったあの少年は、その頃のまっすぐな気持ちを持ったまま、きっと健やかに育つだろう。
どんなに遠くに駆けて行っても、必ず自分の元に帰ってくるに違いない。
そう確信を持って信じられるということは、隆也にとってかけがえのない事実だった。
桜色や水色、縞模様などの貝殻を10個ばかり拾った廉は、やがて満足そうに隆也の元に戻ってきた。
「こ、れ!」
「おー、よく見つけたな」
じゃらっと貝殻を手のひらに受け取り、もう片方の手で廉を撫でる。その貝殻を手拭いに包み、背負い袋に入れてから、隆也は廉の足をぬぐってサンダルをはかせた。
「そろそろ宿を探しに行くか」
隆也の誘いに、「行くっ」と楽しげに廉がうなずく。
海まで来てしまえば、そう急ぐこともない。2人は仲良く手を繋ぎ、のんびりと砂浜を歩いて、防風林を越えた先に向かった。
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