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12/31 3:42
「はぁ……はぁ……」
帰る前に、と皆から離れてもう一度お手洗いに向かう。とにかく一人になりたかった。
皆と違って、俺の心は随時なくなっていく。
それは今更のことなのだが──
──頭が、いたい。視界が揺らぐ。
呼吸が浅くなる。
(さすがに……応える……)
特有の気持ちの悪さと、特有のフラッシュバック。誰かと話すと気がおかしくなりそうだ。
心が、またなくなってしまう。
「──お、見つけた」
背後から楽しげな声がして、小さく舌打ちする
。界瀬が追ってきたらしい。
「睨むなって。お前居ないと暇だし」
俺はなにも話さなかった。どうせ彼には聞こえているのだし。
「そっか……」
洗面台付近をあてなく彷徨く俺に、彼は勝手に納得しながら近付いてくる。
「だから」
もはやなにか想うのすら面倒になって、勢いよく抱き付いた。
改めて、その上から抱きしめられると彼の腕にすっぽりと収まる形になる。
「今、こうして俺の腕の中に居るのが、お前の心」
「……」
「ごめんな。心は本当は、こんな風な道具じゃ無いのに。笑ったり泣いたりして、生活のなかで感情のバランスを取るためのものなのに」
俺の問題でしかないのに、彼は変なことを言う。
心を、削る。欠陥。空白。浸食。自らに課した全て。あの頃に奪われた全て。とっくの昔に売りに出されてしまった。何を見て何を考えるか。普通、それを人は、『心』と呼ぶ。
何を見て、何を考えても。俺はそこに居ない。
そう、思わないといけない。
俺が心と呼びたいもの、感情だと名付けたかったものは、社会には存在しない。感情を持つことを許されない道具だ。
泣けなくて笑った。怒れなくて叫んだ。なにも処理出来ない。痛みは、痛みのまま。バランスなんかとる暇がない。だって全て売られてしまう。 その情報で得た金でゴミ共が贅沢をして暮らす。中学生の作文より酷い人権侵害もいいとこな解説が、馬鹿しか読まないような本になって、広がる。
「普通は、会社が犠牲にして良いものでは」
無いのに。と、紡ぐ前に、それを唇で奪い取る。
「色?」
彼は目をぱちくりと瞬かせる。
「頂戴……」
俺は、うまく笑えたのだろうか。
震えないように絞り出した声で、彼に囁いた。
「今、こうしてお前の腕の中に居るものだけが俺の心──」
俺のぶんまで、笑って、泣いて、怒って、ちょっと、嬉しい。
「あぁ」
界瀬は笑った。俺の代わりに。
目を閉じる。互いの熱を感じる。
界瀬の整った顔が間近にある。なんとなく照れるけど、それを言うと我にかえってしまうかもしれない。
そっと頬を撫でていく指先がくすぐったい。
「…………」
途中からじいっと見つめていると、目を逸らされた。
「そんなに、見ないで欲しいんだけど……」
そう言って耳まで赤くなるのがなんだかおもしろい。
どんな気持ちで俺に触れているのだろうか。
「だーかーらー……もー……、待ってって……」
余計に眺めてしまって、顔を手で覆われた。
引きはがしながら俺は呟く。
「会社のこと。確かに、犠牲にするものもあるけどさ」
「ん?」
「化け物扱いされないから、会社のこと。事務所のことは、嫌いじゃないよ。あいつらみたいに、面白がった本とか書かないし」
「わかる。あの作家陣にダーウィン賞あげたい」
「ダーウィン賞」
なんだかツボに入って、小さく笑った。
こうしているときは、俺の心は確かにあるんだと感じる。
頑張った、とか、凄いね、とかじゃない、未来の話をされて──
幼い俺の努力が、心が、消えたあのときから。
家族が俺を見張り始めた、売り渡したとき、ごめんなさいと泣きながらも通報の手を全く辞めない、目を伏せようともしない、と知るあのときから──
俺は、人間ではなくなっていた。
人という存在としての在り方はなかった。
解説、研究したいから仲良くして欲しいと付きまとうようになった記者や作家の非常識さも、『それ』を表している。
彼らの中に、本当の俺は居ない。
「ダーウィン賞はいいな。保護区に無理やり立ち入って射殺されたやつとかはご愁傷様だった」
理解しようなんて思わなくても、界瀬は、俺のこと、わかっていた。
「だろ? って、やべ……そろそろ戻らないと、またどやされる」
身を引こうとする腕を掴む。
「もっと……」
唇を尖らせると、彼は途端にやや不機嫌そうなジト目になった。
「他の男にもそうやってるのか?」
「なんで?」
「だって……お前可愛いし、他の男とか居るんじゃないかとか思ってたんだ、心を読んだら、ビッチって言ってるやつも居てさ、何も言わないからやっぱそうなんじゃ」
「はぁ?」
意味が分からない。俺が可愛いというのはお前くらいだと思うけど、という言葉を飲み込んで、数秒考える。俺の周りでそんなことを思っている噂を聞き流しながら生活するのって結構辛そうだなと他人事のように思う。
「しないよ。俺は周りよりも心が足りないから」
引き寄せた腕を肩に乗せる。肩越しに腕の中に居る感じになる。
「……こうして、休憩してるんだ」
きっとこの感覚は言ってもわからないと思う。
HSPだとかいうものとは少し違う。
言葉を受け取りすぎるとか、感じすぎるとか言うものではない。
もう少し、直接的で、肌に触れて、目の前にあり、物理的だ。
「そうしていないと、歩くのも、覚束ないし、何の味もしなくなるし、景色が歪んで見えるし――」
生まれたばかりの赤ん坊は、母親の表情やしぐさを見て、危険を判断するんだって。言葉も、知識も無くても、それが心の――独立した心が、外部の刺激を受け取れるようになるための道筋の始まり。
そこから、知識を生かすことを五感で覚えるんだ。
覚えてなくても、普通は心の奥にそれがあるから、情報を判断出来る。
HSPはそれがちゃんと作用している。
ぎゅう、と彼が俺を抱きしめるのを、ぼんやりと感じた。
「ごめん……俺、知ってるのに。あの目をして、部屋に蹲ってるときも、見てきたのに」
真っ暗な目をしているらしい。ぼんやり、吸い込まれそうになる空洞のような、異様な空気の中に居るのだという。
外部の言葉、光、刺激になるものを受け付けなくなって、ほとんど食事をとらなくなる。そういうとき、彼はいつも、俺が死ぬんじゃないかって、不安でたまらないらしい。
「謝ってばかりだな」
「ずっと……不安だった。他のやつと、話してるから」
「そりゃ、話くらいする――」
だろう、と言う言葉が彼の中に吸い込まれる。
「今、話してるんだけど」
満足そうに唇を離した彼はどこか嬉しげだった。
「つまり、俺の愛が足りないから、満たされたいってことだろ?」
「…………」
だんだん行為がエスカレートする。口づけが深くなり、シャツに手がかかる。──ところで、俺も我に返る。
「初めて経験したこと、トイレでだと思われるの、嫌だ……」
ちょうど、携帯にメールが届いた。
界瀬が俺から離れ、ポケットから取り出したそれを読み上げる。
「ゆうこさん、ぶりの煮物が良いんだって」
何を見て何を考えるか。普通、それを人は、『心』と呼ぶ。
「そうか」
だから、そんな些細な周りの意思が羨ましい。
これがしたい、あれをやる、意思を当然のように持つことが出来る。
社会に許されている。未来だからだの、能力がどうのと「決めつけられ」たりしない。
「俺も、そういうことで、そういうこと、言ってみたい」
彼から離れて、外に向かう。
「サンドイッチ、いっぱい食べられて良かったな」
くすりと界瀬は笑った。少し、寂しそうに。
「うん。あれ、好きなんだ」
彼を見て彼のことを考える。世界を見て、世界のことを考える。
俺はそれを、『心』と呼ぶ。
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