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愛、スパイ。
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「俺のこの力は、姉さんや、伝えたくても伝えられない人の為に俺が選んだんだ! 俺が望んだんだ、発音や意思表示が難しい人の助けになるんだ!
怪しい商売なんかやらない、知らないやつが死んだからなんだよ!
死んだやつは死んだんだ! そんな、そんな下らないことの為に…………」
俺の人生を否定しないでくれ。
ある日の夕方。備品か何かで、欠品があって、交換を誰もやったことないというから会社の方に行って資料室で前任のときの情報を探して――――
廊下で、一枚の資料を拾う。
風でどこかから飛んだのだろう、上司の判が押されているコピー用紙。
その名前の上司の元、夕方は殆ど誰も居ない、開発室?の一つに向かったのだが……
『彼』は、そこで、受け取ったそれを見ながらやや怒りの混じる笑顔を向け、
スパイってのは、何処にでも居るんだよ、と答えた。
「愛の……スパイをする、と言うのは、そんなに悪い事かな?」
愛、スパイ。背反するような言葉が同時に並んでいる。
人のいい、優しそうな人にしか見えなかった彼が、スパイだったということ、上司がスパイだったということ、俺を試しているのかもしれないこと、全てが俺を混乱させたが、こういう業界の人間は、察知するのが早いのか、それとも俺から何か似たような空気を感じたのか、勝手に話し始めてしまう。
「個人の感情など関係ない。愛、スパイ、それだけが、全身を動かしていれば、それでいいんだよ」
愛、スパイ。
背反するような言葉を同時に抱きしめるかのようにプリント紙が目の前の男に大事に握られている。
これは、何の資料ですか、と、なるべく平静を装って聞いただけだ。
それはね、とただ普通に、答えて、それではさよなら、とそういう流れを期待していただけだった。なのに。
「俺にはまだ目的がある。出来たら君も、協力してくれれば有り難いが」
「なぜ」
「君は、此処に馴染んでいない。そうだろう? 俺と似た、孤独なにおいがするよ」
友達が居ない、という意味ではないのだろう。
「飢えた獣のような、心の奥にどう猛な怪物を飼っている目だ、嫌いだろう? 此処も、みんなも」
振れただけで、感情が伝わる俺にとっては何処に居たって、大した違いは無かった。誰と居たって、嫌な感情が流れ込むことはあった。
だから、誰も信じて居なかった。
表面上は笑顔を取り繕っているけれど、確かに孤独を隠しても居た心を、彼には見抜かれて居たのだろう。
「……俺は、自分の仕事しかしません」
「そうか。残念だ」
なるべく、彼の本業に触れないような言葉を言い、笑顔で部屋を出る。
このときを何度思い返したって、やっぱり能力のことは、一言も口にしていなかったし、ただの社内のコピー用紙だと信じていた。
怪しむようなそぶりは見せていないはず。
これからも、俺の平凡な毎日がずっと続くって信じたかったんだ。
だけど数日後。
突然、呼ばれた更に偉い上司に、さわってみなさいと差し出された書類。
そしてそこから伝わったもの――――俺が、驚いた顔をしたからなのだろう。
「やはり、か」
納得するような腹の立つにやけ顔で彼は言った。
「どうする? 君も、スパイになるか?」
「え……」
「うちにもスパイが紛れ込んでいたようで、情報がどこかに抜かれていた。報告を怠ったね? だが、今なら、挽回のチャンスを」
「俺に、人間をやめてスパイ兵器になれって、言うんですか」
――――どこに行っても、同じだった。
どこに居ても、同じ。俺の心を、保証してくれた人は居ない。
心を道具にするということは、心を道具と見なす人が居るということ。
「そうとは言っていない」
「言ってるんですよ! 心を読み取るってことは、心を犠牲にするんです!
此処は漫画の世界じゃないんですよ」
心にある、沢山の事柄。
思っている事、考えている事、やりたいこと、やっている事。
好きな物、好きな人、嫌いな事、嫌いな人。
その、自分を構成するための全部の事柄が他人の為にある意思、道具として利用する為の信号に置き換わるということ。
誰かの欲や利益の為に自我を捨て、人間を捨てるということ。
『人権、人間を捨ててでも、選ばないといけないことが、人生には起きる』
だけど、
それが、どこに居ても同じだとは、思いたく、無かったのに。
――――個人の感情など関係ない。愛、スパイ、それだけが、全身を動かしていれば、それでいいんだよ
そこからは素早く、気付いたときには、俺はリストラだった。
(2022年6月21日(火)PM9:39-2022年6月26日0時16分)
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