アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
第1章 かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜
煌炎23
-
黒い何かは、太い足だった。人間ではない何かの足が、誰かの生首だったものを楽しそうに何度も踏み躙り、げぎゃげぎゃと耳障りな鳴き声が、愉快げな響きを以って空気を揺らした。
目の前で起こっていることを理解できないままに、上の方から降ってくる声につられて、少年はほとんど反射的に顔を上げた。
少年の視線の先に広がっていた光景は、死、そのものだった。
鋭い牙の並んだ大口を開けて、そこから不愉快な声を撒き散らしながら、巨大な鎌のような右腕を赤黒いもので染め上げていた。僅かに残っている店の明かりに、鉄臭いそれが夥しい量の血液なのだと知れる。一体何人を斬り殺してきたのか、少年の胴より太い左腕の、その先の手に掴まれ幾つもぶら下がる人間だったものの残骸は、右腕の餌食になった人々なのだろう。ならば、巨木の幹のような胴体に絡みついている、吐き気さえする醜悪な汚泥もどきは、殺されたものたちの怨念かもしれない。左目には映らないということは、きっとそういうことだ。
(――にげ、ない、と)
他の人々はもうとっくに逃げてしまっている。周囲に人影はなく、あるのはただの肉塊だけ。強固な遮蔽物もなく、自ら群集より孤立した少年は、まったく絶好の獲物としか言いようがない。
血のような色の一つ目を厭らしく細めた死が、こてんと首を傾げた。ああ、これは捕食者の目だ。嗜虐者の瞳だ。よく向けられた、見慣れた眼差しだった。
逃げなければと、そう思うのに身体が思考についていかない。根でも生えてしまったかのようだ。逃げることはおろか、立ち上がることすらできない。
ゆっくりとした動作は、獲物に見せつけるためだろうか。もったいぶった動きで首の位置を戻すと、血に濡れた右腕を振り上げていく。それが視界に入っているのに、少年は動けない。
目の前の死は嗤っている。獲物の恐怖を啜って、可笑しそうに口を三日月に曲げて愉しんでいる。逃げなければ。死んではいけない。逃げて生きなければ。死を許容するわけにはいかないのだ。それは本能だろうか、それとも別の何かだっただろうか。少年にそれを判別する術はなかったけれど、身体の奥底で何かが強くそう命じている。
それでも尚、彼の身体は凍りついたままだった。ああ、駄目だ。これでは駄目だ。凶器が高くに掲げられていく。これでは死んでしまう、殺されてしまう。逃げられない。僕では逃げられない。僕では何ひとつできない。だから、
恐れと怯えで彩られた顔が、不意に色を失った。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
59 / 228