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鈴白伊吹という人②
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ハッとして目を覚ます。慌ててスマートフォンの画面を開くと、時刻は6時57分であった。食堂に入れるのは午後7時まで。退出時間は7時半までだったがそれにしたって今から走っても7時には間に合わない。初日からやってしまったと思いながらため息をつき、とりあえずシャワーを浴びようと部屋の風呂場のドアを開ける。
「つめたっ…。」
お湯の温度を確かめようとシャワーを出すと、冷たい水が指先を濡らした。
時間が経たないとお湯が出ないのかと思い暫くシャワーを出し続けるが、一向に水は温かくならない。
「なんなんだよもう」
深くため息をついて、シャワーを止める。食事くらい一日とらなくてもなんとかなるだろうが、風呂は別だった。風呂に入らないで眠ることなど到底出来るはずがない。夏なら冷たいシャワーも我慢できたかもしれないが、春はまだ肌寒い。
考えに考え、この手だけはどうしても使いたくなかったと思いながら部屋の扉を開けた。
「うわっ…!」
扉を開いた瞬間、目の前には白いTシャツを着た胸板が現れる。立ち止まって見上げると、そこにはまさに今から自分が会いに行こうとしていた人物の顔があった。
「ごめんね唯くん。まさか今出てくるとは思わなくて。」
「いや、その…俺も今から先輩の所に行こうとしてたのでちょうど良かったと言うか、なんというか…」
「僕に…ああ、食堂に行くのを忘れたから?」
鈴白は微笑み続けたままそう言った。何故それを知っているのだろうか。
「なんでそれを知ってるんだろうって顔してるね。ずっと食堂にいたんだけど、君が来てない気がしたから呼びに行こうかと思ってここに来んだ。」
ずっと食堂にいたこと自体も驚きだが、食堂では柳寮の生徒だけでなく青葉寮の生徒も一緒に食事をしているはずだ。5時半から7時の間に自分一人を見つけ出すこと自体容易なことではない。
「なんで、俺なんかを…」
「編入初日だから疲れも溜まってるだろうと思ってね。きっとまだ寮則も分からないことが多いだろうから、とりあえず僕に着いてきて。食堂に行こう」
「え、でも食堂は閉まってるんじゃ…」
「大丈夫。歩きながら説明するよ。」
今朝と同じように鈴白の後に続いて寮内を歩く。やはり生徒の視線が痛い。早くこの居心地の悪さを何とかしたいものだ。
食堂に向かう道中、鈴白から寮食についての説明を受けた。寮則には目を通したつもりであったが、どうやらそこには書かれていないものもあったらしい。食堂で夕飯を食べられるのは原則午後7時までに食堂に入ったものに限られるが、稀に部活動やその他の課外活動で間に合わない生徒もいるため救済処置があるそうだ。それは当日の午後5時までに取り置きの申請のメールを食堂へ送り、午後8時までに受け取りに来るというもの。午後8時に間に合わない場合は友人に頼んで代わりに取りに行ってもらうのが普通らしい。しかしながら、自分はその申請メールとやらをした覚えがない。
「あの、申請メールしてないんですけど…」
「分かってるよ、だからこれからお願いしに行くんだ。」
「お願いって…そんな、迷惑なんじゃ…」
「大丈夫。僕のお願いを迷惑だなんて言う人はこの学園にいないから。」
“僕の”という表現が引っかかる。というか、鼻につく。
「そんなに偉いのかよ、“イヴ様”は。」
思っていたことがつい口に出てしまった。まずいと思って口を噤むと、鈴白はピタリと立ち止まった。
「偉いのは僕の家系だよ…鈴白功夫は僕のお爺様だからね。」
「鈴白功夫って…まさか内閣官房長官の名前じゃ…」
「はは、唯くんは面白いね。そのまさかだよ、この学園じゃ知らない方が珍しい。」
鈴白という苗字はそうありふれたものでは無い。それなのに何故か聞き慣れていたのは、日々ニュースや新聞で誰もが耳や目にしたことが多い名前だからなのだ。それならイヴ様なんて呼ばれるのも当然である。
「あ、そうなんですね…なんか、その、本当にすみません。」
「いいんだよ、偉いのは僕自身じゃないから。」
失礼なことを言ったはずなのに、鈴白は怒るどころが嬉しそうに笑っていたような気がした。
この学園は皆親が偉いのをいいことに威張っている生徒ばかりだと思っていたから、彼がそうでないのは不思議だった。彼がそうだと思い込んでいた自分を恥じた。
食堂に行くには一度寮を出て別の建物に移動しなければならない。それにしても、あと5分もかからないはずであった。その5分が異様に長く感じられるほど、気まずい時間が流れる。
「えっと…その、じゃあ先輩のお父さんも政治家の方でしたよね。」
「……そうだね、あの人たちは親子揃って有名だから。」
鈴白の声がブレることはなかったが、どこか間があったように聞こえる。全くどこが地雷なのか分からない。
「…先輩はお母さんが外国の方なんですか?」
「どうして?」
「いや、見た目がその、ハーフっぽいっていうか、あー、ダブルって言うんでしたっけ、最近は。」
極力喋りたくはないはずなのに、沈黙の重荷から逃れたいのか勝手に口が言葉を繰り出していく。
「……唯くんの両親は、どんな人?」
「それは…」
「まあ、ある程度の情報は寮に提出してもらった資料を見たから知ってるけどね。君の両親は確か__」
「やめてください!」
反射的に突然大きな声を出してしまう。その時に気づいてしまった。誰だって、聞かれたくないのとの一つや二つあって当たり前なのだ。人の家庭のことを好き勝手聞いておきながら、いざ自分が聞かれたらこのような態度を取ってしまった。
「…ごめんね、今日初めて会ったのにこんな意地悪をして。」
「謝るのは、俺の方です…」
「大丈夫だから顔を上げて。ほら、着いたよ。」
食堂につき、鈴白が厨房の職員に話しかけるとすぐに取り置き用のパックに詰められた夕食が用意された。
何度か厨房に頭を下げたが、職員は誰一人嫌な顔をしなかった。その優しさが、捻くれた自分の心を締め付ける。
「先輩、ありがとうございました。もう迷惑はかけないので…」
「最初にも言ったけど僕は寮長だから、いくらでも頼ってくれて構わないよ。僕はこの後青葉寮に寄るけど、一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です…ありがとうございます。」
鈴白の足音が聞こえなくなるまで、下げた頭をあげることが出来なかった。他人を排除して生活しようと思うばかり、結局自分のことだけ考えて他人には迷惑をかけることしかできないのだ。そんなの、自分が見下してきた人間よりもずっと馬鹿だ。
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