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32.呼称と出勤
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せっかくの休みだったのに。
結局、あの後も二人は離れられなくて、気がついたら雀が鳴いていた。
「結局、徹夜じゃない……」
天沼はそう文句を言うけど、笑顔だった。
「だって……次、いつこうして一緒にいられるのかと思うと欲張りたくなるもんでしょう」
「それって十文字の独りよがりじゃん」
「ああ、じゃあ天沼さんは、おれといたくないってことだね?」
「そういう意味じゃないでしょう? 本当に意地悪だよね」
「どっちが意地悪なの? 素直になりなよ。天沼さん——ってか」
「なに?」
十文字は体を起こして、天沼の顔を覗きこんだ。
「ねえ、言っていい?」
「なに?」
「あのね。おれは澤井副市長に嫉妬しているのだ」
唐突に言い放った十文字の言葉に、天沼はキョトンとしていたが、ふふと吹き出した。
「どういう意味な訳?」
「だ、か、らっ!」
彼は天沼の露わになっている肩を指でなぞる。
「なんで、天(てん)とか呼ばれているわけなの? ねえ。おれなんて未だに『天沼さん』なんだけど」
「それは……副市長がそう呼んでいるだけだし。それに、多分、もう呼ばれないし」
「もう呼ばれないとしてもだ。今までは呼ばれていたんだよ? それって、妬ける」
十文字が駄々をこねるように文句を言うので「めんどくさい」と思ったのだろうか。
天沼は投げやりな雰囲気で言った。
「じゃあ、好きに呼べばいいじゃない。なんて呼びたいの?」
そう真正面から切り出されても、逆に十文字がまごまごする番だ。
「えっと」
「なに?」
「……って」
「え? 聞こえないよ?」
下から覗き込んでくる天沼の視線は意地悪だ。
十文字は「もう」と言ってから大きな声で言い放った。
「おれは、天沼さんのこと、『ひな』って呼びたいのっ!」
なんだかくすぐったい気持ちで、つい天沼がどんな反応を示すのかを伺ってしまう。
しかし、天沼はこれ以上にもなく嬉しそうに笑みを浮かべた。
「嬉しいよ。春介」
——どうして好きな人に名を呼ばれると嬉しいのだろうか? その人の所有物になった気持ちになるからだろうか?
十文字は半分泣きそうになった。
嬉しさでいっぱいなのだ。
彼の肩を引き寄せて抱き締める。
この時間がずっと続いてほしいと願う。
抱き返してくれる天沼の腕の温もりに心が満たされた。
***
7時。
早い時間だが、IDをかざして出勤する。
クールビズになったおかげで楽にはなったが、昨晩の十文字との跡が見えやしないかとヒヤヒヤしてしまう。
襟元のボタンを軽く締め、首元が見えないようにと努力する。
いつものように自分は一足先。
後片付けをお願いして出てきた。
いつもだったら副市長室に真っ直ぐに向かうところだが、秘書課の元の部屋に顔を出す。
——荷物が送り返されているかも。
そう思ったからだ。
中には課長の金成が一人で仕事をしていた。
「おはようございます」
「おはよう。どうした、早いな」
彼はパソコンを叩いていたが、天沼に視線をくれる。
「あの、課長。昨日はお休みをいただきまして……」
「ああ、そうらしいな。副市長がそう言っていたっけ。休めたか」
——それだけ? 「天沼は戻す」と言っていなかった?
そう確かめたくてじっと金成を見つめたが、彼は首を傾げた。
「なんだ」
「いえ。あの。副市長は、なにかおっしゃっていませんでしたか」
「なにも。——ただお前がいなくて、部屋がハリケーンが通り過ぎた跡みたいなっているかもな」
「そんな」
老眼鏡を外して、彼は笑う。
「あの人の仕事量は一人の人間がこなす量ではない。誰か手伝いをやろうかと思っても、できるやつもいないし、いらないと言われたからな。そのまま経過を見守っていたが、結局は途中で保住が呼ばれていたみたいだ」
「保住、室長でしょうか」
「そうだ。半日くらい、手伝っていたようだ。まあ、あいつも忙しい身だ。あれが限界だろう。昼ごろは一旦片付いていたが。午後からはどうなっているかわからない。部屋に入って驚くなよ」
「しかし」
「副市長、部屋にいるぞ」
「え」
——こんなに早く?
自分がお払い箱ではないのはわかったが、心配になった。
金成に頭を下げてから、天沼は副市長室に顔を出す。
「おはようございます」
電気をつけられるのは、自分かこの部屋の主人しかいない。
天沼は深呼吸をしてからドアを開けた。
澤井は難しい顔をして書類を眺めていた。
「まだ勤務時間外だぞ」
「申し訳ありません。ですが、昨日はお休みもいただきましたし……」
「そういうつもりでやったんじゃない。ちゃんと休んで来たのだろうな」
「は、はい」
彼は天沼に一瞥をくれてから少し笑った。
「あの。おれ、またここで働けますか」
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