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3章 胡蝶に嗤う
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私は小説家だ。
名はそこそこ知られているし書き綴ってきた冊数もなかなかの数である。
生まれる前から小説を綴ることを定められたように幼いころからずっとペンを握ってきた私は才能を開花させることに成功し、社会的地位を得ている。人生の成功者と思っていた。
これは自画自賛ではない。
自分に対することを説明するときによく苦く笑われ「自画自賛ですか」だと言われるが、事実を説明して何がいけないというのだろうか。
自身が持っていない経歴を羨むのは勝手だが、当本人を不愉快にさせないでほしい。妬むことしかせず努力もしていない癖に口だけは達者な類の人間が私は反吐が出るほど嫌いだった。
鬱憤を晴らすには仕事に打ち込むのが一番だ。苛立っている時こそ執筆が進む。外へ吐き出せない欲求をペン先に込めて発散する。時折原稿用紙を無意味に丸めて机の周りに転がした。
「何を書かれているのですか」
「次の新作さ。なかなか終わらなくてね」
ルナはそのことを知っている。だから私の仕事が終わるまでソファの上におとなしく座っていた。
ルナは成長した。赤子から幼子、幼子から少年へと名と姿を変えた。幼虫からサナギへと成長するように。舌っ足らずさも抜け言葉も覚えた彼にはもう無知という言葉は似合わないだろう。
だが私が幻滅することはなかった。自分でも不思議だった。
ルナの無知さに惹かれたというのに言葉を覚え、俗世の本を読みあさることを私は咎めなかった。ひとつまたひとつ知識という毒を咀嚼するルナの姿に動悸すら覚える。
不思議だ。彼はもう何も知り得ない白の存在ではないはずなのに。ルナへの愛と使命感は薄れることがなかった。濃いインクは水に流しても揺らめいて影を作るように形状を変えて私の中で漂った。
ルナは外の世界へ興味を持ったりしないだろうか。いやそんなことは絶対にあり得ない。あり得ないと私が言うならばあり得ないのだ。
私と二人きりの空間がルナの全てなのだから。私が死ねばルナも確実に死ぬだろう。海でしか呼吸方法を知らない人魚は地上では息ができずに窒息する。
私という存在がルナにとっての命。いくら深海から手を伸ばしてかざそうが誰もその手を取らない。
やがて疲れたルナは諦め光も届かない暗闇での生活を享受するだろう。
今が堪えどきなのだ。今知識を得ているルナをうっかり殺してしまわないように自分でもブレーキをかけているに違いない。
子どもながらの好奇心を覚え狂おしいほどに他の世界を知ろうとして、絶望するルナが見たかった。どこにも行けないというのに。
翅をもがれた蝶は一体どこへ飛んでいく。
羽ばたく翅すらないというのに。後は蜘蛛に食われるだけだ。
生命の鼓動を徐々に弱らせやがて美しく息絶えるルナの姿を想像しただけで全身に痺れが走る。
目的は色あせてしまったがまた新たなものが生まれた。運命はまだ腐っていない。
時代の移ろいとともに価値は変わるのだ。それにまだルナは万能を知らない。あくまで文字越しの外しか知らない。
頭の中でしか生み出すことのできない世界はルナを汚すことは一生ないだろう。好きにさせておくことが一番だ。
まだ、彼の瞳は濁っていない。
だが、もし濁ったならば。
そんな悲劇が起こる前に。そう私は決めたのだ。
たった今、ルナの運命が決まった。
「ならその横にある、それはなんですか」
細い指先が示す方向には伏せられた原稿用紙の山があった。
私は嬉しくなって思わず笑みを浮かべる。
ルナは好奇心が強い。だから聞かずにはいられなかったのだろう。
彼が生まれてから月日がたつごとに量を増す紙の束の意味について。
うっすらと微笑した私にルナは不思議そうな視線をおくってくる。幼子に語りかけるようにゆっくりと私は言った。
「それに触れてはいけないよ」
「君が18になったら教えてあげよう」
その時、初めてその本は完結するのだ。
蝶を美しい姿のまま手元に残しておく方法の真実は教えぬまま。
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