アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
酒のにおいと
-
「なに怒ってんの?」
「怒ってない!」
だんっ!
机にジョッキを置くと、ふちから泡が飛び散った。
新しく注ごうとしてビンを傾けてもポタポタとしか出てこない。
店員さんを呼び止めようと手を上げたら、慌ててこたにその手を押さえ付けられた。
「おーじ、もうやめとけって」
「……なんで」
「なんでって……
今、何本目だと思ってんの。
酒代くらいなら別におれが払ってやるけどさ〜
きみは一応未成年なんだぞ?」
なだめるように話しかけてくるこたの腕を振り払って、おれは大丈夫、と顔の前で手を振る。
「おれはこれでもな、一人暮らしなんだから」
「いや、だからなんだよ。
も〜、久々におーじが酒飲まないか、なんていうから来てみれば、やけ酒に付き合わされるなんてな〜」
「すみませえん、ビールもう一本!」
「知らないぞ、おーじ……」
ーーあのあと。
一緒に出掛けようというオトの要望を蹴って、おれは半ばやけくそにアパートを飛び出してきてしまった。
丁度暇していたこたを誘って居酒屋に場所を移し、今に至るまでひたすら酒をあおり続けている。
こたが心配してくれているのは分かっていたけれど、こんなにいらいらするわけが自分でも分からなくて、分からないから更にいらいらして、どうしても手が止まらなかった。
どのくらい経ったかは覚えていない。
足元も覚束なくなるくらい酩酊するまで飲み続け、やっと店を出た時には、車もほとんど通らなくなるくらいあたりは真っ暗になっていた。
こたの肩を借りて、ふらふらと家路をたどる。
一人で帰れるから、と断っても、こたは送るといい張り付き添ってくれた。
「こたあ、お前ってほんといいやつだなあ」
「うんうん、いいから前見て歩けってば」
「おれねえ、こたのことねえ、だいすきだよお」
「おれも大好きだよ〜」
「あははは」
「はあ〜」
そのとき、
にゃー。
「っ!?」
猫の鳴き声が聞こえて、思わずびくっと身体がはねた。
あたりを見渡してみても、視界がゆがんでなにがなんだか見分けがつかない。
こたが立ち止まって、ポケットからスマホを取り出した。
「ごめん、おれの」
にゃー。
「……なに?」
「着メロ。
可愛いだろ?
もしもし、お母さん?」
着メロかよ……
いつもみたいにあいつが迎えに来たのかと……
いやいや、そんなわけないない。
だって今日は一緒に家出たわけじゃないし。
あいつがおれを迎えに来るのは鍵がかかっていて中に入れないからであって、けっして一緒に帰りたいからってわけじゃないし。
あいつは、おれのことなんか嫌い、なんだし。
「……」
思い出したらまたいらいらしてきた。
せっかくいい気分だったのに。
あいつの待つ家に帰るくらいなら、公園で野宿でもしてやろうかな。
そんなことを考えていたら、いつの間にか母親との通話を終えていたこたが、慌てた様子でごめん、と手を合わせた。
「早く帰って来いって怒られちった。
も〜、二十歳すぎてもまだガキ扱いすんだから」
「ふうん、なら、早く帰りなよ」
「大丈夫?
ひとりで帰れる?」
「あはは、お前にガキ扱いされるなんてなあ。
あとちょっとだからだいじょおぶ」
「どうかなあ……
なんかあったら、絶対連絡しろよ!
絶対絶対!」
「はいはい、じゃあな」
「うん、また明日!」
走り去っていくこたに手を振って、また歩き出す。
まだ足はふらふらしていたけれど、さっきより酔いはさめていた。
それでもやっぱり、まっすぐアパートに帰る気にはなれず、おれは道を逸れて路地を歩いていく。
今何時なのか分からないが、ひとっ子ひとり見当たらない。
相当遅い時間なんだろう。
都会に出てきたとはいえ田舎者のおれが、こんな夜更けまで外をうろうろすることなんて今までになかったことだ。
街灯の切れかかってチカチカと光るのを見ながら、おれは乾いた唇を舐めた。
しばらく歩いていくと、小さな公園を見つけた。
滅多に飲まない酒をがぶがぶ飲んだせいか、ひどい胸焼けがして、おれは酔いをさましていこうと低いこども用のブランコに腰を下ろした。
「……」
なに、やってんだろうな。
あいつに嫌いだっていわれたくらいで、こんなに苛立つなんて、ばかじゃないのか。
好きな女の子にいわれて落ち込むならまだしも……
……
落ち込む?
おれ、落ち込んでんの?
そりゃあ、いくら嫌いな相手にでも、メンチ切って嫌いですって言われたら、多少落ち込むかもだけど……
まさかな。
「まさかなあ……」
『まさかにゃー』
「うん、まさか……にゃあ?」
驚いて顔を上げる。
まさかこんな時間に、こんな場所で、ひとの声が聞こえるとは思わなかった。
けれどもっとおれを驚かせたのは、声をたどった先にいた生き物が、人間ではなかったということだ。
「……猫?」
おれは目を丸くする。
まさか、この猫がしゃべったとでもいうのか。
しかもどうやら、驚いているのはおれだけではないらしい。
身体を硬直させて、まんまるの目を更にまんまるにして、その子はおれの頭の中に話しかけてきた。
『わたしのことば、わかるの?』
おれは、こくんと頷く。
オト以外の猫とも会話が出来るなんて聞いてないが、現にこうして話せている。
オトと関わっていればこういうことが起こるかもしれないことは予測出来ていたはずだ。
おれは早くなる鼓動をなだめながら、そっと口を開いた。
「こ……こんばんは」
『こんばんわ』
明るくて、キンキンするタイプの声だ。
まだ幼いようで、はなし方がつたない。
仔猫が恐る恐るおれとの距離を詰め、灯りの下に出ると、その姿がよく見えた。
オレンジ系の茶トラ模様で、首輪をしているところを見るとどうやら飼い猫のようだ。
夜の散歩でもしていたのだろうか。
考えていると、茶トラはおずおずとはなし出した。
『わたしのなまえ、よーこってゆうの。
わたしのおうち、しらない?』
「おうち?
もしかして、迷子?
帰れないのか?」
たずねると、よーこはちょっとうつむいて、それから、声を上げて泣き出してしまった。
『うえええぇん……
おうち、帰りたいよお……』
「ちょ、ちょっと……」
鳴き声と泣き声の二重音声だ。
たまらず耳を塞ぎたくなったけれど、このまま小さな女の子を泣かしたままにしておくことは出来ない。
おれはブランコからおりて、そっとよーこの肩のあたりを撫でた。
「大丈夫だから……
泣くなよ」
『う、うん……』
「家はこの近く?」
優しく問うと、分からない、と首を振る。
ふと思い付いて首輪を見てみると、まだ新しいきれいな文字で、電話番号が書かれていた。
おれはほっとして、よーこの頭をよしよしと撫でる。
「大丈夫、すぐ帰れるよ」
そう笑いかけてみせると、よーこは目をキラキラさせた。
『ほんと?
わたし、おうちにかえれるの?』
「うん」
『わーい!
おうちにかえれる!』
猫でも、ひとのこどもと同じなんだな。
不安で泣くのも、嬉しくて喜ぶのも……
声だけ切り取れば、まるでただの小さな女の子とはなしているような気さえする。
気付くと、おれは自然と笑顔になっていた。
はしゃぐよーこを落ち着かせるように、また頭を撫でる。
「また明日ここに来るから、それまで待ってて」
よーこは、ぱちぱちとまばたきする。
『どーして?』
「お前の飼い主、もう寝てるだろうし……
連絡取るなら、明るくなってからじゃないと」
『そーなの?
じゃあよーこ、ここでおにーさんを待ってるね!』
「うん」
うなずき合い、約束を交わす。
念のために電話番号をスマホのメモに控えて、別れを告げた。
ついでに時間を確認すると、もうすぐ一時を回るところだった。
それまで酔っていたことをすっかり忘れていたのに、思い出したら一気に気分が悪くなってきて、おれはよろよろと歩きながら来た道を戻って行った。
公園までの道のりは覚えなくても大丈夫そうだ。
アパートが見えて来ると、なんだか身体から力が抜ける気がした。
ボロくても小さくても愛しの我が家。
やっぱ家が一番だよな。
明日は学校に行く前に、よーこを家まで送ってあげよう。
「うえ……
気持ち悪い……吐きそう」
そんな我が家を目の前にして緊張がほどけたおれは、路地の端っこで座り込んで口元を押さえた。
最悪。
ひどい吐き気だ。
涙が出てくる。
「う〜……
やばいやばい、これまじで、は、吐くう……」
「……大丈夫?」
「だいじょ……ぶ?」
「うわー、お酒くさ。
においぐっちゃぐちゃじゃん。
なんか女のにおいもするし」
嫌な顔をしながらも背中をさすってくれる。
ぼんやりと横顔を眺めていると、オトは唇をとがらせておれをじっとりと見た。
「帰りが遅いから、どうしたのかと思えば……
おれのお願いはきいてくれなかったくせに、お酒飲んで女と遊んでたわけ?
ほんと信じらんない。
さいてー」
「……うるさい。
誰のせいだ……」
「なに?」
「別に?」
「あっそ」
なんだよ、その態度は。
えらそうにすんな猫のくせに居候のくせに人間ばかにすんなよばかばかばかばか……
「う〜っ……」
「大丈夫?
こんなとこで吐かないでよ。
ほら立って、ミコト」
「だ、だめ……っ
今動くと、やばい」
「もー、酔っぱらい見苦しーよ。
あーあ、やだやだ」
「うるさいだまれあっちいけ」
「なにさ、せっかく迎えにきてあげたのに。
心配して損した。
もー知らない」
「……」
心配……
心配してくれてたのか。
まあそうなるよな、じゃなきゃわざわざ部屋の外にまで出てこないもんな。
……ていうか
「いつから、待ってたの……」
立ち去ろうとした背中にはなしかける。
だみ声しか出なかったけど、オトはちゃんと振り向いて、おれの質問に答えてくれた。
「さーね。
……ひとりでいてもすることないし。
ずっと、あんたの足音が聞こえないかなって、ずっと……扉の前で、耳澄ましてただけ。
待ってたわけじゃないから」
「……」
そうか。
だから今朝も、玄関に座って待ってたのか。
猫は孤独な生き物だっていうから、ほうっておかれても平気なんだと思ってたけど……
もしかしたら、おれたちが気付いていないだけで、本当は……
「さみしかった?」
ほとんどなにも考えないで口にした。
案の定、オトは変な顔をする。
「ミコト、まだ酔ってる?
おれはさみしくなんかないよ。
だって、おれは野良だもの。
ひとりなんてなれてるんだから」
「でも、今はひとりじゃないよ」
「……」
酔うと饒舌になるらしい。
羞恥を紛らわすいい訳はそれでいい。
おれたちはいつもお互いに嘘を重ね合いすぎて、それが当たり前になってきてしまっている。
これを打開するには、どちらかが素直にならなきゃいけないんだろう。
まだ上手くはいかなくても、少しずつなら……
「なあ、オト」
「……なに?」
「待っててくれて、ありがと……」
オトの眸が丸くなる。
その青の輝きはまるで、月の光が射したように深く、それでいて柔らかな優しさを宿している。
おれはしばらく、その色に見惚れて目が離せなかった。
そして、その下の頬が朱に染まるのを、はっきりと見た。
「あのね、ミコト……」
「……ん?」
オトはすっとしゃがんで、おれと視線を合わせる。
そして一瞬、逡巡するように息を吸って、はいてから、まっすぐにおれを見つめた。
「おれね、ほんとは……
ほんとはミコトのこと、好きだよ。
ミコトがおれのこと嫌いって知ってたから、意地張って嘘付いたけど……
猫はね、縄張り意識が強いんだから。
余程好きじゃなきゃ生活空間を共有するなんて耐えらんないし、一緒に出かけたいなんて言わないし、帰ってくるのを待ったりしないよ。
ねーそうでしょ。
分かるでしょ……」
いつもの強気で鋭い口調が震えて、語尾が弱々しく掠れる。
オトがみんなを守りたい、とはなしてくれたときと同じ感覚だった。
オトは、嘘をつくことになれてしまっているらしい。
本音をはなすとき言葉が弱くなるのは、嘘をつきすぎて本当の気持ちをはなすのが、怖くなってしまったからだろう。
出会う以前のオトになにがあったのかは分からないけれど、嘘をつき続けなければならないようななにかが……もしくは、ありのまま生きることを封じなければならないようななにかが、あったのかもしれない。
けれど今は、それを詮索するときじゃない。
おれがすべきことは、過去を洗うことじゃなくて、いまのオトが出来るだけ嘘をつかずに生きられるように、ただひたすらにまっすぐに、真剣に、向き合うことだ。
そしてそれは、お互いに乗り越えなければならない課題だとも思う。
ひとつずつ、少しずつ……
一緒にほどいていけば、きっと……
「……オト、今度……いつになるか分からないけど、一緒にどっか行こう。
せっかく、お前のために服も買ったんだし」
「……そーだね」
「……オト」
思い切って手を伸ばす。
まだほてったままのほおに触れると、オトはくすぐったそうに震えてから、自らおれの手にすり寄ってきた。
「ミコトがおれを甘やかしてる」
「……たまにはいいだろ」
「ん……
ミコト、大好き……」
「……うん」
気付いてたよ。
だから好きじゃないって言われたとき、まさか、ありえないって思ったんだ。
うぬぼれてた自分が恥ずかしくて、なに勝手に期待しちゃってんのって、いわれてる気がしていらついて、おれは逃げてしまった。
覚悟なんてまだつかないけれど、本当はもう、とっくに気付いてるんだ。
おれ自身もまだ、信じられないくらいに幼い想いだけれど。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
13 / 73